甘くて冷たい夜

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ある冬の夜。田舎町の片隅にあるアパートに一人住むの爺がいた。真っ暗な六畳一間の真ん中に敷かれた冷たいせんべい布団の上で、爺は徐々に眠りへと意識が遠ざかるのを待っていた。しかし、築数十年の木造アパートだ。吹雪が窓にぶつかる音と隙間風が、彼が睡眠へと移行するのを妨げていた。 「うう、さむい」 この頃頻回に尿意を感じるようになり、老人は便所へ行き小便をする。そのとき、ピンポーンと、誰かの来訪を告げるインターホンが鳴る。はいはい、と返事はするもののこの年になると尿の切れも悪くて仕方がない。しかし容赦なくインターホンは鳴り続けている。 ぶるると小さく身震いし、爺はドアを開ける。強い風に押され、いつもより重いドアをやっとで開けると、無数の雪の粒が勢いよく入りこむ。その向こうには、吹雪にさらされたであろう、凍り付いた長い髪をだらりと垂らした白い着物姿の女が立っていた。 「はて、一体どなたかな?わしに何のようかね」  女の顔は青白くのっぺりしていた。厚い瞼の向こうから男をじっとりと見ている。 「あたしかい?雪女さ。あんたを殺しにきたんだよ」 「なぜわしを殺そうというのかね」 「邪魔だからさ」  そう言い女はドアの隙間からするりと入り込んだ。その外見からは想像できない俊敏な動きは、標的に食らいつく毒蛇を彷彿させた。爺は動揺こそしないが、ゆっくりとした動作で丸まった背中を女に見せまいとくるりと向き直る。その眼差しはいつもと同じ、穏やかな春陽のようであった。 「訳を聞かせていただこうかの」 「あたしのことは知ってるかい?」 「ああ、存じておる。お主の昔話は有名だからの」 「そりゃ光栄だね」 「急に見知らぬ親子の家に入り込んだかと思うと、父親を凍死させた挙句、息子に恩着せがましい捨て台詞を吐いて去っていった。後日、その息子の元へ人間の姿で表れて、ずうずうしくも転がり込んだのであろう」  そう言い、フォッフォと老人は笑う。 「ああその通りさ。あたしが人間として生きるために、所帯を持つ必要があった。でも、こんな化け物を嫁として快く迎えてくれる家なんてなかった。だから邪魔になる人間は迷わず駆除したのさ」 「そんな身勝手な理由で殺したというのかね」 「なんだい、この後に及んで説教でも垂れる気かい?」 「そんなことはせんよ。お主も色々あったのだろう」  爺はゆっくりとした動作で、桜ラテと生クリーム入り饅頭を女に振舞った。枯れた爺の家で振舞うものにしてはあまりにも洒落ている。 「でも結局あたしは、人間として長くはいられなかった。だからね、人間として、女として生きることにこだわりを持つことはもうやめたのさ」 「誰かの生き方は、誰にも無理強いできるものじゃないからのう。饅頭は嫌いかね?わしは甘い物に目がなくてのう」  爺が勧めるが、女はそれらに手を出さない。 「それはそうと一体、なぜお主はわしを殺そうというのかね」 「冬が終われば、あたしはまたくらーい土の中にひとりぼっちさ。誰もあたしのことなんて忘れちまっている」 「それは気の毒に。長い年月寂しかろう」 「分かったような口を効くんじゃないよ。あんたは、みんなが待ちに待った春を呼ぶ存在じゃないか。あたしの気持ちなんて分かるものか」  女は激情し立ち上がったため、その足が机の上にあるグラスにぶつかり、桜ラテがぶちまけられた。そのため白い饅頭はみるみるうちに桜色に染まった。しかし老人は相変わらず春陽のように暖かく、優しい眼差しで女を見ている。 「お主の言う通りじゃ。わしは雪が解けて暖かくなった頃、枯れ木に特殊な灰を巻き、桜を咲かせることが仕事じゃ。正直言って、年に1回だけの仕事だけじゃ食っていけん。甘い饅頭こそ、唯一の楽しみじゃ」 「あんたさえいなければ。春が来なければずっと冬でいられる。くらーい土の中、人々の楽しそうな笑い声を聞いて惨めな思いをしなくてもいいのに」  花さか爺はすっくと立ちあがった。身長は女の鼻のあたりしかないが、これまでとは違う鋭い眼光を向けており、女は息を呑む。  爺はゆったりと口を開いた。 「よくお聞き。木を見て森を見ずと言ってな。お主は全体を見なければいかん。春夏秋冬、全てが違うようで、全てが折り重なっておるのじゃ」 「綺麗ごとを言うのが好きな年寄だね」 「これまで、お主はよう頑張ったの。今でもそうじゃ。それなのに、ただ雪はそこにあるだけの自然な摂理なのに、人間はそれに意味づけをしたがる。そして勝手に喜び、勝手に貶すのじゃ。辛い立場じゃのう」  その時、どこからともなく切なげなピアノ演奏が聴こえる。女は頭を振り、「でも、桜はみんな喜ぶじゃないか」と叫んだ。 「桜だって、ただそこにあるだけなのじゃ。何か深い意味があってあるわけではないのじゃ。冬があって春が生まれる。相互作用の中に本当の喜びがあるのじゃ」  女はその場にへたり込み、両手で顔を覆った。 「あたしを待っている人もいるのかねえ」 「もちろんじゃ。これからわしらは一心同体じゃ。春も夏も秋も」  爺は優しく言ってほほ笑んだ。ここで、ピアノの音にドラマティックなヴァイオリンの音色が重なり、感動的なクライマックスを迎えようとしていた。女は安心したようにふうと深いため息をつく。桜色に染まった饅頭にその息がかかると、たちまち饅頭は凍り付いた。その凍った饅頭を、女は一口頬張った。  饅頭の生地と餡が、咀嚼するたびにじゃりじゃりといった音を立て、女の顔は綻んでいく。 「これが偶然の産物だなんて信じられないねえ」  それを見ていた爺も、桜色の饅頭を頬張ってうっとりした表情になる。 「まるで、口の中で雪と桜が織り成すメロドラマが繰り広げられておるかのうようじゃ」  そして女と爺が急にカメラ目線で、 「冬と春が、一気にやってきた!期間限定!雪女と花さか爺の凍り桜饅頭!」と声を合わせて言った。それに付け足すように、「梅味も出たよ」と爺が言う。  ぶつり、と私はTVを消した。最近のCMは最後まで見ないとなんのCMか分からないものが多い。すっかり見入ってしまったが、こんなCMを見たのは初めてだし、やたら尺が長いのが気になった。  外は大雪。今年は例年よりも雪は多い。今日は早く寝て、明日は朝一で雪かきしなければなと、私は用を足しながら考えていた。  すると、ピンポーン、とインターホンがなる。こんな夜更けに誰だろうと首を傾げていると、どこからか奇妙な曲調のオルゴールの音が聴こえてきた。そんなオルゴールなんてないし、私の恐怖感はさらに増す。  私はさっきの変なCMを思い出した。実は、冷蔵庫の中では饅頭と梅ジュースがたまたま入っているのだ。不安を煽るオルゴールの音は大きくなってくるし、なんとなく誰かにじーっと見られているような気もする。  でもまさかそんなことあるはずがない。意を決して私は重いドアをゆっくりと開けると、冷たい風とともに、小さな雪の粒が部屋の中に入り込んできたのだった。
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