雪見おでん

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男はひとり、深々と降る雪の中を歩いていた。静寂の闇夜に無心に降り注ぐ雪が見慣れた街並みを白く彩る中、連日の残業で疲弊し鉛のようになった体を引きずるように運んでいく。 腕時計は、そろそろ日付が変わることを示していた。だが家路を辿る足を早めるつもりはない。こんな寒い夜は、帰りを待つ家族などいない暗く冷え切った安アパートに真っすぐ戻るより、どこか粋な店で熱燗でも煽って体を暖めたかった。 そう思っていた矢先、寝静まる住宅街を抜けた辺りにぼんやりと提灯の灯りが浮かんでいるのが見えて、男は首を傾げた。こんなところに屋台などはなかったはずだ。新しくできたのかな、と近づいてみるが提灯も暖簾も煤けて古臭い。少々不気味さを感じつつも男はまるで吸い込まれるようにその暖簾をくぐった。 「いらっしゃい」  ほんの3、4人くらいしか座れない、小さな屋台だった。店主は屋台の外見とは裏腹の、普通の年老いた男だ。昔ながらの白い割烹着に白い帽子、それにマスクをつけていたので顔はほとんど見えないが、三日月型に笑うその目尻の深い皺だけで、穏やかで人の良さそうな雰囲気を醸し出すのには十分だった。  男が座ると、これまた昔ながらの大きなおでん鍋が目の前に二つあってぐつぐつと煮込まれている。食べ応えのありそうな分厚い大根や、ちくわ、玉子、白滝などの定番から、タコ串、牛スジ、ツブ貝など選り取り見取りの具材が、それら全ての旨味が滲みだした出汁の中に泳ぐのを目の当たりにし、唾液腺と胃袋が刺激された男はさっそく熱燗と、おでん何個かを注文した。 「いやあこんなところに屋台があるなんて思いもしなかったよ。ちょうど一杯やりたかったんだ」  男は一気にお猪口を空にする。すると胃袋から寒さと雪で冷え切った手足の指先までが生き返ったかのように温まってきた。 「お客さん、仕事帰りかい?随分と遅い時間まで働いているんだね」 「ちょうど忙しい時期、というのもあるんだが、正直俺はあまり要領よくできるタイプじゃなくてね。恥ずかしい話、学校を卒業してからこの歳になるまでこの会社で働いてきたが、ずっと平社員のままさ」 「そうかい。そりゃ大変だねぇ」 「この会社の社員としての生き方しか知らないからね。幸か不幸か、それが大変なのかも分からないんだよ。一体全体いつになったらこの呪縛から解かれるのかね」 「あまり無理をしちゃだめだよ。そんなに若くないんだから」  あと数年に迫る定年退職。しかし何もなければあと20年くらいは続くであろう人生のことを考えると気が遠くなった。  無情にも激しくなる雪を眺めながら、男は大根に齧り付いた。厚みがあるのに柔らかく、噛み締めるとじゅわっと出汁が口の中に溢れてくる。  おやじさんが言う。 「このおでん鍋には色んな具が入っているでしょう。大根や玉子はやはり人気でね。でもこのタコ串や牛スジはそんなに売れないんだよ。でも食べてみるとすごくいい味なんだけどねぇ。具材に紛れこんじゃっているのもある。運よく見つけることもあるが、結局誰にも存在を知られないまま廃棄になっちまうのがオチなんだよ」 「ふうん」 男は次にタコ串にかぶりつく。なるほど確かに噛めば噛むほどいい味だ。 「お客さん、このおでん、何かに似ていると思わないかい」 「うーむ、なんだろうな。おでんはおでんだろう。しゃぶしゃぶやきりたんぽ鍋とも似ても似つかないよ」 「そうだね、これはただのおでんだ。ここらへんの具はもうだいぶ長いこと煮込んでいるな。逆にほら、そこら辺の5つはね、さっき仕込んだばかりの新しいやつだよ。こういうのはまだ味が滲みこんでいないから美味しくない。でも逆に長くいるものは、この環境に浸かりすぎて荷崩れしちまってる。原型を保てていないんだ」 「何がいいたいんだ?」 おやじさんの話の意図が全く見えず、男は怪訝な顔をする。冷たい風が小さな雪の粒を運んでは、鍋の中に溶けて消えていく。 「いいやべつに。さて、この煮崩れた昆布と厚揚げとはんぺんはそろそろ退いてもらおう」  それを聞いて男には思うものがあった。今年、男の勤める会社の定年退職者は3人。ついでに言うと新入社員は5人だった。偶然にもおでんの出入りと一致しているため、ぱっとしない自分は、まるで売れ残りのおでんの具みたいだなと、慣れた手つきで具材を廃棄するおやじさんを見ながら男は自嘲気味に笑う。 「もしこの鍋の中が会社だったら、おやじさんは取締役といったところかね。それとも神様かな」 「神様か、そりゃいいや」 おやじさんは笑う。男は残りの酒を飲むが、すっかり雪冷えになっている。確かに気温は氷点下に近いだろうが、こうも短時間で冷えてしまうものだろうか。それでも、中の黄身までしっかりと出汁色になった玉子は冷えても格別だ。 「おやじさん、熱燗もう一本。あとおでんも。おやじさんのお任せでいいよ」 「あいよ」  おやじさんがキビキビと動き出す。酒の準備をしながら、さっき男が食べた分の大根と玉子とタコ串を新しく仕込んでいる。 「あぁ破けた。この餅巾着はもうだめだな」  と、おやじさんは破けて中身の餅が飛び出してしまった物を廃棄し、すぐさま新しい餅巾着を投入した。  それを見て男は思わず固まった。実を言うと今年の春に交通事故に遭った社員がいる。どうも腸が飛び出る程の重症だったと聞くが、数か月後に職場復帰したのだった。何事もなかったかのように、というよりは、チャラチャラと不真面目な雰囲気だったその社員はまるで人が変わったかのようにバリバリ仕事をこなすようになったのだ。 「へいおまち」  おやじさんは熱燗とちくわと白滝と牛スジを乗せた皿を男に出したあと、新しいそれぞれの具を鍋に投入している。  そういやこのところ、会社の連中でまるで生まれ変わったかのように仕事に没頭するようになったのが何人かいる。その連中は皆無能の烙印を押された社員だったが、ある日から突然意欲的になり、みるみるうちに業績もあげているのだ。男が知っているだけで、6人はいる。男に出して、新しく仕込んだおでんの具も全部で6つではなかったか。 「まさかそんなことあるわけないよな」 馬鹿げたことをと思いつつも感じる寒気は横殴りの吹雪のせいだけではなさそうだ。男は無理やり酒の手を進めるが、まるで雪解け水のように冷たく味がしない。 「おっと、こんなところにもいたのか」  おやじさんはゆらゆらと出汁に浮かぶはんぺんを寄せると、底の方に沈んでいるがんもどきを箸でつまみ上げた。かなり長いこと放置されていたのか、所々破れてくたくたになっている。 「まだ少し破棄には早そうだ。お客さん、これサービスするよ」 と、そのがんもどきを男の皿に乗せるおやじさん。本当におでんの具が社員だったとしたらこのがんもどきは一体誰なのだろうか。 その時、さく、さく、と遠くから、雪の上を誰かが歩く音がする。こんな真夜中の、豪風で舞い上がる雪でホワイトアウトする中、まっすぐこちらへ向かってくる。  さく、さく、さく。男の箸を持つ手が震える。 「食べてみて。きっとおいしいから」  おやじさんの目は相変わらず優しいが、男は雪女に息を吹きかけられたかのように凍りついて動けない。  さく、さく、さく。暖簾の向こうに見え始める誰かの足元。黒に橙色のラインが入った長靴を履いている。それは今まさに、男が履いているものと同じだった。 さく、さく、さく。
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