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夏邸からの帰り道、昊尚は十二年前、十三歳の時に範玲に初めて会った日のことを思い出していた。
先日範玲に聞かれた時は覚えていないと言ったが、昊尚は忘れてなどいなかった。
昊尚は、幼い頃から、何をやってもすんなりできてしまうし、一聞けば十理解できてしまう子どもだった。
十二歳にして、太学への入学試験に抜群の成績で合格し、神童と言われて、今思えば奢っていたのだと思う。
太学の学問は意外と退屈で、暇を持て余していた時期、夏家の蔵書が充実していると聞いて昊尚は英賢に見せて欲しいと頼んだ。
英賢が快く承諾してくれたので、あの日昊尚は夏家を訪れた。
訪ねた英賢に急な来客があり、その間一人で待っていた。しかし、なかなか英賢が戻ってこないので、しびれを切らして使用人に場所だけ聞いて書庫へ向かった。
夏家の蔵書は私蔵では蒼国随一と言われるだけあり、扉を開けた途端、書物の多さに圧倒された。そんな中で、書物を手に一人の少女がきょとんとしてこちらを見ていた。
年は昊尚より少し下だろうか。こちらを見ている碧玉の色の瞳は、吸い込まれるかと思うほど澄んでいた。華奢な肩には漆黒の髪が掛かっている。
頭には包帯のようなものを巻いていた。
「誰?」
思わず聞いていた。すると彼女は耳を押さえると、慌てて何かを書き付けて見せてきた。
”声を出さないで”
意味がわからないでいると、”耳が良すぎて音が聞こえすぎるから”と紙に付け加えた。
必死の表情で見せてくるので、昊尚がとりあえず言う通りに音を出さないようにすると、嫌がる様子はなくなったので筆談で会話をしてみる。
彼女は警戒しているのか、昊尚との距離をしっかり取りながら、名前を教えてくれた。
範玲、という名前を見て、瞳が碧玉の色であることに納得がいく。しかし、同時に思った。
これが醜いと噂の夏家の引きこもり県主(ひめ)か。噂とはあてにならないな。
昊尚が驚嘆する。
頭に巻いた包帯のようなものが気になったので、怪我をしているのか昊尚が聞いてみると、音を小さくするために耳を塞いでいるという。ここまでしなくてはならないほど音に敏感ということなのだろうか、と気の毒になった。
昊尚はつい範玲をまじまじと見た。包帯のようなものを巻いたその姿は、痛々しい印象を与えるが、却って彼女の可憐さを増しているようにも見えた。
範玲は一日中ここにいて書物を読んでいるという。
何が面白かったか教えて欲しいと頼むと、いくつか棚から抜き出して机に置いてくれた。
歴史の読み物だったり、詩だったり、薬草の書物だったり、いろいろな種類のものがあった。
聞けば一度読んだものは覚えてしまうという。
半信半疑で並んでいるものを適当に選んで、一文を書き付け、続きを聞いてみると、ほとんど迷いなく答えた。
これは凄い。
童試など簡単に受かってしまうだろう。天才だ。
そう思った昊尚は、範玲に童試を受けることを勧めた。
しかし、範玲の反応は鈍かった。
その全く興味がない様子が少し面白くなく感じて、ムキになってしまったところがあったかもしれない。
昊尚は範玲の機嫌を損ねてしまったようだった。
次第に苛立つ様子がみられた。その挙句。
「うるさい。あっち行って。嫌い」
決して大きくない、むしろ小さな声で言うなり、範玲は書庫の奥に去っていってしまったのだった。
置き去りにされた昊尚はしばらく呆然として動けなかった。範玲に言われた言葉が思いの外胸に刺さった。しかし少しすると、腹立たしさも湧いてきてますます面白くない気分になり、無言で書庫を後にした。
憮然としたまま元の部屋に戻る途中の回廊で、英賢が慌ててやって来るのに行き合った。
「ごめん、昊尚、待たせたね。書庫へ案内するよ」
「すみません。もう見せていただきました」
「え?」
英賢が固まる。
まずかっただろうか。
「勝手にすみません」
予想外に英賢が動揺しているので昊尚が慌てて謝ると、英賢が探るように聞いた。
「書庫に誰かいた?」
「……はい。範玲殿がいました」
昊尚が書庫での出来事を話すと、ちょっとごめん、と言いおいて、英賢は焦った様子で書庫の方へ急いで行ってしまった。
取り残された昊尚がどうしたものかと迷っていると、間も無く英賢が戻ってきた。
「あの……まずかったですか」
昊尚が心配になって聞くと、英賢は、うーん、と唸って少し考えた後、回廊に面した中庭に昊尚を誘った。そして池の脇の座れそうな庭石を昊尚に勧めて自分もその近くに座った。
「範玲はね、ちょっと普通とは違うところがあってね」
英賢はそう切り出した。
範玲の異常に良すぎる耳のこと。薬や鍼、まじない、呪符、祈祷などなど良いと聞けば何でも試してみたけれど、どれも大して効果がなかったということ。だから結局、範玲は防音を施した部屋で、耳に栓をして過ごしているということ。
それを聞いて、昊尚は自分がとても無神経なことを範玲に言ったのを知った。
あの部屋から出たくても出られない人間に、能天気に無責任なことを勧めてしまった。しかも大概しつこかっただろう。
昊尚が想像したよりも、範玲の耳は範玲の行動に制限を課していたのだ。
あんな才能があるのに、耳が良すぎるというだけのことでずっと引きこもって一人書庫で過ごしている。こんな理不尽なことがあるか。何とかできないのか。
そう思っても、解決策は浮かばない。
神童などともてはやされてるくせに、困っている女の子一人助けることもできない。最年少で太学の試験に受かっても、自分では範玲の耳の問題を解決する方法なんて見つからない。
昊尚が今まで拠り所としていた世界が見事に崩れた瞬間だった。
太学の授業が退屈だなんて生意気なことを言ってぐだぐだしているくらいだったら、他にやることがないのか。
昊尚はひどい焦燥感を味わった。生まれて初めてのことだった。
頭が混乱したまま、夏邸から帰ると、その夜、昊尚は自室から出てこなかった。
しかし、そこからの昊尚の行動は早かった。
書物に書いてあることでは足りない。書物に書いてあれば、範玲がきっと見つけている。
では、何だ。
紅国の紫紅峰深くに文始先生という仙人がいた。その仙人はこの世の理に通じ、特に人の体の成り立ちにも詳しく、病に苦しむ多くの人を治したと言われていた。
かの仙人ならば、何か知っているかもしれない。
文始先生の元で学ぶことができれば、自分はもっと役に立つ人間になれるかもしれない。
そう考え始めると居ても立ってもいられなかった。
昊尚が太学を辞めて文始先生の門下に入りたいと申し出ると、父親である藍公は激しく反対した。かなり藍公とは険悪な状態となったが、兄である承健の取りなしにより、渋々家を出してもらうことができた。
昊尚は祖母の実家の梁氏を頼り、紅国に行くと文始先生の門を叩いた。
文始先生は「ガキは嫌いだ」と公言する変わった仙人で、弟子にしてもらうにはかなり苦労した。しかし、入門してしまうと、文始先生の元では色んなことを学ぶことができた。そんな中で、家を出てから二年経った頃、範玲の耳に有効な耳飾りの作り方の手がかりを手に入れることができた。
一年かけて耳飾りを自ら作りあげ、贈り主を言わないという約束で英賢に預けた。
文始先生の元で学ぶ一方、昊尚は自分が蒼国の王族の一人として蒼国に責任があるということは忘れていなかった。
官吏として蒼国に尽くす以外で役に立つ方法として、昊尚は商業を選んだ。多くの国に渡り、様々な人の暮らしを見て、人の暮らしの役に立つものを探し出しもしくは作り出し提供することは、机上で学ぶことより性に合っていた。
日々忙しく過ごしている中でも、範玲の件は、昊尚が太学を辞めて文始先生の元へ来たきっかけだったので、玄亀の耳飾りを贈った後も気にかかった。蒼国に立ち寄った際は英賢に連絡を取り、範玲の近況を尋ねた。
しかし、耳飾りを贈っても、範玲の生活に大きな変化はなかった。相変わらず家に引きこもっていると聞いた。
耳飾りの性能が不十分なのかもしれない、と商売の傍、生来の完璧主義の性格から試行錯誤しつつ改良を施し、その度に英賢に預けた。
そうまでしながら、昊尚は自分が耳飾りを贈ったということを知らせるつもりはなかった。
恩を売るつもりで渡したのではない。理不尽を何とかしたいという気持ちから始まったものだったから。あの耳飾りをつけることにより、範玲が他の人と同じように生活ができればそれで良いと思っていたから。
だから言わないだけだ。
確かにそう思っていた。
範玲に再会するまでは。
再会してわかった。
範玲とは対等でいたかったのだ。
耳飾りを贈っていたのが昊尚だと知ったら、範玲はきっとそれに恩を感じるだろう。感謝し、遠慮し、引け目を感じるかもしれない。
そう思ったらとても話す気にはならなかった。
喜招堂で範玲が耳のことを話してくれた夜、範玲は耳飾りをくれた人には感謝しかない、とうっとりと呟いた。その様子を見て、やはり話さないままにしようと決めた。
崇めて欲しいわけじゃない。恩など感じて欲しいわけじゃない。
対等な立場で向き合いたい。対等な立場でそのままの自分を認めて欲しい。
そんな青臭いことを思っている自分を自覚した時は一人苦笑した。
範玲がこの間渡した四つ目の耳飾りを気に入り、外に出てみようと思ってくれたことが、昊尚にはひどく嬉しかった。
ただ、あの耳飾りをあの場面で渡さざるを得なかったことは誤算だった、と振り返る。
あの時、紅国へ女王慧喬に謁見に行ったついでに、新しい玄亀の石を耳飾りに加工するために預けてあったのを引き取ってきた。そのまま皇城に来たので、偶然懐に持っていたのだ。
範玲が着けていた耳飾りが壊れてしまっていた以上、あの時、代わりにあれを着けてやらないという選択肢はなかった。渡したことに後悔はしていないが、範玲に勘付かれてしまったかもしれないのはよろしくない。
もう少しうまいやり方がなかったか。
後悔しても詮無いことだが。
昊尚は溜息をつきつつ、残りの仕事を片付けに皇城へ戻った。
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