三日目 御前会議

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*  議場でのやり取りを範玲は扉の外で窺っていた。室内では大勢の人の声が飛び交い騒がしく、とてもその場にはいられないからだ。  よかった……。  (かた)が着いたようなのを見届けて、範玲が息を吐く。緊張のあまり握り込んでいた手を開くと、指が強張って震えていた。  大きく息を吸って胸の鼓動を落ち着かせる。  英賢の元へ向かいたいが、まだ室内は混沌としていた。範玲はもう少し騒がしさがおさまるまで外で待つことにした。  すると、脇の戸から呂将軍らが兵士に拘束されて出て来るのが見えた。官服を着ている者の中に、一人だけ道衣を着た者がいた。  あれが呪禁師の古利……。兄上たちに酷いことをした奴なのね。  範玲は引き立てられて行く道衣の男を凝視する。  ちらりと見えた横顔は、思っていたより若い。  古利は拘束されているにもかかわらず、随分落ち着いて見えた。口元にはうっすらと笑みが浮かんですらいる。  範玲は嫌な予感を覚え、先を見届けようと後をこっそり着いて行った。  すると、角を曲がったところで、古利がしゃがみこんだ。  履物の紐が解けてしまったので直したい、と言っているようだ。  古利を連れていた兵士は、少し迷ったように見えたが、結局待ってやることにしたようである。  先を行く他の兵士が次の角を曲がり、見えなくなった途端。  古利を連れていた兵士が突然床にへたり込んだ。古利が兵士の手首を握っている。  そしてあろうことか、兵士は古利を拘束している縄を解いてしまった。  拘束から免れた古利は、ぼんやりと立っている兵士を置いて別の方向に歩き始めた。  突然目の前で起こった出来事に範玲の心拍数が跳ね上がる。  え? どうして? 逃げるの? どうしよう。  辺りを見回したが、自分しかいなかった。  誰かを呼びに戻っていては見失ってしまう。  このまま逃してしまうわけにはいかない。  範玲は大きく息を吸って、これまで出したことのない大きな声を出した。 「待ちなさい。逃げられないわよ」  必死の思いで範玲が言う。自分の声ながら範玲の耳には大音量として響き、思わず耳を塞ぐ。  しかし実際には範玲が発したのはたいして大きな声にはならなかった。つまり迫力はなかった。  その呼びかけに、一瞬、古利はぴくりとしたが、振り返ってみておよそ攻撃力とは無縁そうな女子が一人立っているだけなのを確認すると、小馬鹿にしたように薄く笑った。 「逃げられますよ」  そう言うと、古利は逃げるどころか素早い動きで範玲の方へと近づいて来た。  まさか近寄ってこられるとは思っていなかった範玲は、後ずさりして避けようとするが、易々と手首を掴まれてしまった。  その途端。  掴まれたところから言いようもない黒い感情が流れ込んで来た。 −−憎い。憎い……。滅びろ。滅びてしまえ……。  それと同時に。 −−古利を逃す。古利を逃がさなくてはならない。古利は無実だ。古利が可哀想だ。  思考が注がれ、強制的に意思を塗り替えられていく感覚に襲われた。  古利を助けないと……。  範玲の頭に浮かぶ。  いや違う。これは私の意志じゃない。  抗おうとしても、「古利を逃がさなくてはならない」という考えが押し付けられる。  同時にどす黒い憎しみも濁流のように流れ込んでくる。  古利から押し付けられる勢いと範玲が吸い取る勢いが相まって倍の勢いで流れ込む。  酷い吐き気と割れるような頭の痛みが範玲を襲った。  受け止めきれない……!  古利から流れ込んで来る感情と思考に耐えきれず、範玲は思わず悲鳴をあげた。  すると。  ピシ。  耳飾りの青い亀甲形の石にヒビが入る。  そして。  石はパリンと音を立てて砕けた。  飛び散る破片が範玲の頬をかすめた。 「範玲殿!」  範玲が床に崩れ落ちたところに彰高が走って来た。  古利と倒れている範玲、それに砕けた耳飾りの破片を見やる。 「貴様、何をした」  彰高が駆け寄り、崩れ落ちた範玲を抱き起こす。そして怒りを込めた目で古利を睨むと、今度は古利が彰高の手首を掴んだ。 −−古利を逃がさなくてはならない。  掴まれた手から強い意思が注がれる。  しかし。 「なるほど。お前の手が触れたところから暗示をかけて操るのか。残念だったな。私には効かない」  古利が何をしようとしたのかを理解した彰高が氷のような目で見遣り、鼻で笑う。 「……っ!!」  古利が狼狽えて手を離す。  しかし、彰高は範玲を抱えたまま、逆に古利の腕を掴むと後ろ手に捻り上げて倒し、呻く古利を無造作に膝で押さえて、あっさりと身動きが取れないようにしてしまった。  そこへようやく異変に気付いた兵たちが現れ、古利は厳重に縄で拘束された。 「そいつの手の平に触れるな。手を何かで覆って縛っておいた方がいい」  彰高は忠告し、古利を兵士らに任せると、範玲を抱き起こし直す。  ぐったりとして目を閉じている顔は酷く青い。意識があるのかも怪しい。 「大丈夫か」  声をかけて、頬をぺしぺしと軽く叩く。  すると。 「……あた……ま……いた……きもちわる……」  眉間にぎゅっと皺を寄せて、真っ青な顔で途切れ途切れに範玲が呻く。  意識はある。  彰高は安堵の息を吐いた。 「よしよし。よく頑張った。もう少し我慢だ」  そう言って、そのまま範玲の頬に手を当てた。  少しすると、真っ青だった範玲の頬に少し赤みがさし、呻き声が収まってきた。  呼吸も整ってくる。  眉間の皺が緩み、長い睫毛が震える。 「……あれ……しょーこーどの……」  範玲の長い睫毛の下から僅かに碧色の瞳が覗き、彰高を認識した。 「……しょーこーどのが、あたまのなかを、そーじ、してくれたのですか?」 「うん? そーじ? ……ああ……掃除か。なるほど。まあ、そうなのか?」  彰高が触れることで、彰高の無の状態の意識を吸い込み、古利から注ぎ込まれた憎悪と強制された意志を洗い流した形になったようだ。  範玲は大きく息を吐き、そしてゆっくりと息を吸った。徐々に頭にも新鮮な空気が回ってくる。  だんだん頭が正常に動くようになってくる。  そして、ぼんやりとしていた目の前が焦点を結んできた。 「……ありがとう……ございます。らくに、なりまし……」  と言ったところで、範玲は自分の状況を認識した。  彰高の膝の上に抱きかかえられて、暖かい大きな手が頬に触れている。 「!!」  範玲は彰高の膝の上から勢いよく飛び退いたが、足がもつれて派手に転ぶ。 「姉上! どうしたの? 大丈夫?」  そこへ理淑が馳けて来た。 「な、何でもない。何でもないわよ? 大丈夫に決まってるわ。大丈夫。ほほほほほ」  慌てて立ち上がると、不自然この上ない応えで恥ずかしさを誤魔化す。 「あ、ほっぺ! 血が出てるっ。何があったの?」 「えっ?」  理淑に聞かれて、頬を触ってみたところで、耳飾りが砕けてしまったことを思い出す。  頬に当てた手でそのままとっさに耳を塞ぐ。  が、耳飾りは壊れてしまったはずなのに、音は正常に聞こえていた。  それに。  壊れてしまったはずの耳飾りが手に触れた。 「え? どうして?」  耳飾りを指でなぞってみて存在を確認する。  右頬を触った手を見ると、ほんの少し血がついていた。  やはり耳飾りは壊れたはずだ。  片方の耳飾りを外して確認すると、それは確かに亀甲形の耳飾りだった。しかし、今までつけていたものよりも、若干小さく、明らかに青色が深い。  それに、改めて着け直して気付いたが、つけ心地が格段に良い。常に聞こえていた雑音が、ほとんどなくなっている。  どういうことだ。 「範玲」  混乱している範玲の元に英賢が青い顔をしてやってきた。 「兄上」  はっと気付いて英賢に駆け寄る。 「大丈夫かい?」  自分の身の方が危うかったにも拘らず、英賢は範玲を案ずる言葉を真っ先に口にした。 「ああ。頬から血が出ている。誰にやられた?」  範玲の磁器のような頬に赤い筋を認めて、英賢の眉が上がる。  自分は冤罪を着せられて、牢に入れられ、爪まで剥がして心身ともに疲弊しているはずなのに、妹の心配ばかりする姿に範玲は目の奥がじわりと痛くなる。 「兄上の方こそ……。ご無事でよかった……」  英賢の無事を目の当たりにして、範玲は安堵のあまりベソをかく。 「心配かけたね」  英賢が優しく微笑む。  顔色が悪いが、変わりのない英賢に範玲は思わず抱きついた。  英賢が目を見開く。  人に触れることを極端に避けていた範玲から抱きつかれた。そのことに一瞬躊躇した。  しかし、そっと範玲の背に手を回し、片方の手でその頭を撫でた。そして血が滲む右頬に痛々しそうに触れる。   触れているところから、英賢の範玲と理淑を案じている気持ちがじんわりと流れ込む。  ああ、こんな風に感じられるなら、この力、悪くない……。  範玲の胸は温かい気持ちで満たされた。 「あ、ずるい! 私も!」  理淑が飛びついて範玲と英賢にぎゅうぎゅう抱きつく。  英賢が理淑の頭も撫でると、理淑はふへっと幸せそうに笑い、ぐりぐりと額を擦り付けてきた。 「痛い痛い」  笑いながら範玲が文句を言う。  しかし理淑の嬉しくて仕方がないといった気持ちも静かに流れ込んできて、範玲は更に温かい気持ちになる。  三人兄妹は笑いながら手を離し、顔を見合わせてもう一度笑った。
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