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往日 ある日の記憶
被った損失が大きかった上に朱国との関係はきな臭くなったままだが、一連の事件はとりあえず表面上落ち着いて見えた。
しかし、範玲個人にとってはもう一つ大きな問題が残っていた。
「兄上、お聞きしたいことが」
後始末に追われる英賢がようやく屋敷に帰って来たところを捕まえる。疲れていることは承知していたが、どうしても聞かずにはいられなかった。
「なんだい?」
目の下に隈ができるほど疲れているのに、そんな素振りは噯気にも出さず、いつもどおりにこやかに応じてくれる。
そんな英賢を範玲が心底申し訳なさそうに見上げる。
「お疲れなのにごめんなさい。あの、耳飾りのことで……」
そう切り出すと英賢は少し困った顔をしたが、範玲は言葉を続ける。
「あの亀甲形の耳飾り、どなたがくださったか、やっぱりどうしても教えてくださいませんか?」
何度か聞いたことがあるが、その度に英賢には困った顔をしてはぐらかされた。
「ごめん。私からは言えないんだ。言わないという約束だから」
予想どおりのいつもと同じ応え。
範玲は攻めに出てみることにした。
「この間……あの事件の日、呪禁師に腕を掴まれた時に、耳飾りが確かに砕けて壊れたんです。でも、気づいたら、いつの間にかこの新しい耳飾りが耳に付いてて……。あの時、近くにいたのって……一人しかいないんです」
範玲は何度も思い返してみたが、どう考えても浮かぶのは一人。
それに、紅国の皇太子が耳飾りを見た時の反応も、その人であることを裏付けている。
「……耳飾りをくださっていたのは……彰高殿、ですよね?」
範玲は鼓動が早くなるのを感じながら、考えていたことを言葉にする。
直接聞いてみようと、彰高を訪ねて喜招堂に何度か行ってみたが、いつも彰高は不在だった。
何時(いつ)ならいるのかと店の者に尋ねても、わかりかねるという答えが返ってくるのみ。
だから、英賢ならば知っているはずだ、と聞いてみたのだ。
英賢は眉を下げて苦く微笑む。
「ごめん。私からは言えないんだ」
範玲の心拍が跳ね上がる。
先程と同じ言葉だが、この応えは肯定と同じだ、と思った。
でも、どうして彰高殿が?
「彰高殿とはこの間会ったばかりですよね」
首をひねる。
「以前、会ったことはあるはずだよ。でも、覚えてないよね」
会ったことがある?
彰高殿と?
衝撃の言葉だったが思い当たることがない。
「まあ、もうすぐわかるんじゃないかな」
英賢は思わせぶりに微笑むと、それ以上教えてはくれなかった。
**
あの事件の中で亡くなった藍公とその嫡男承健の葬儀は、国葬として執り行われた。
英賢はもちろんだが、範玲と理淑も参列することにした。ただ、今度の耳飾りの性能が非常に良くなったとはいえ、まだ範玲が人混みに出るのが心情的に不安だったので、官吏たちの最後列にそっと参加することにした。
葬儀は粛々と進められ、最後、周家の代表が言葉を述べる段となった。周家の家長である藍公、嫡男の承健が亡くなり、承健の子息はまだ十二歳ほどということもあってか、藍公の次男として「周昊尚」の名が呼ばれた。
場内でわずかに騒めきが広がった。
「……昊尚様って、随分前に家を出ておられたのでは?」
「亡くなったんじゃなかったのか」
古くからいる官吏たちの囁きが聞こえてくる。
範玲は周家の家系図を思い起こした。
周家には承健の下に昊尚という男子がいた。歳は承健とはかなり離れていたはずだ。
随分前に家を出たまま帰っていないと聞いている。その後の消息は耳にしていなかった。
久しぶりに家に戻ったのがこんな用事だなんて、さぞやりきれないだろう。心中はいかばかりか…、とふと壇上に上がる人物を見た。
範玲は思わずあっと声を上げそうになった。
「……あれ……彰高殿じゃ……?」
理淑が代わりに範玲の心の内を囁いた。
え? 昊尚……って、え?
範玲はさあっと血の気が引くのを感じた。
なんてことだ。
彰高は周家の次男だったのか。名前を偽っていたのだ。
では、あの時、藍公と承健が亡くなったと聞いた時、彼は父親と兄が亡くなったということを知らされたということだったのか。
それなのに、彼は黙々と自ら事件の解決を目指していた。
知らなかったとはいえ、あの時の自分を振り返ってみると、自分のことで一杯一杯で、彼に対して随分無神経なことをしていたのではないか。
なんてことだ。
範玲は申し訳なさで泣きたくなった。
しかしそれも今更のことだった。
今、範玲にできるのは、藍公と承健の冥福を祈ることしかないのである。
範玲は心から哀悼の意を捧げた。
**
梁彰高が実は周家の次男、周昊尚だということを、範玲は周家の葬儀の時に知った。
昊尚はまだ少年の頃、周家を出て、以来十年以上戻っていないことになっていた。
実際は蒼国にいる時には周家に顔を出していたようだが、ごく親しい者のみが彰高の正体を知ってるだけだった。古くからいる者を除いて、周家の使用人たちすら彰高が主家の子息であることを知らずにいた。
今までの様子から、英賢や壮哲、佑崔は彰高が昊尚であるということを知っていたようだ。
彰高と範玲は以前会ったことがある、と英賢が言っていた。
最近まで基本的に屋敷に引きこもっていたのだから、昊尚が夏家に来たことがあるということだろう。昊尚とは年齢が三つ違いだと聞いた。
そんな人と会ったことは……。
範玲は記憶を手繰ってみる。
そういえば。
あった……。会ったことが、確かにある。
あれは、おそらく十歳の頃だ。
まだ耳飾りもなく、人を避けて、毎日毎日、防音を施された屋敷の書庫に引きこもって過ごしていた頃だ。
範玲は記憶の底に沈んでいた出来事を手繰って引き上げた。
**
範玲はその日もいつもと同じく、書庫で読み物をしていた。
人の気配を感じてふと顔を上げると、知らぬ間に見たことのない少年が立っていた。
人がいると思わなかったのか、彼は範玲に気づくと、驚いたように目を見開いた後、声をかけて来た。
「誰?」
決して大きな声ではなかったが、範玲にとっては大音量だった。
とっさに耳を押さえて、”声を出さないで”、と慌てて手元にあった紙に書いて見せると、少年は怪訝な顔で首を傾げた。
”耳が良すぎて音が聞こえすぎるから”
続けて書き付けると、それを見て少年は自分を指差し、”うるさい?”という口の動きをした。範玲がこくこくと頷くと、少年も了解という意味でか、こくりと頷いた。
そこからはお互い筆談で話をした。筆談でそれぞれ自己紹介をした。少年は、昊尚、と名を書き記した。
”頭、怪我した?”
昊尚が範玲に筆談で問う。その頃の範玲は、音を遮るように、耳に詰め物をして、更にその上から布を巻いていた。その姿のことだろう。一見、頭を怪我しているようにも見える。
”違う。耳にふたをしてる。音を小さくするため”
そう答えると、不思議そうな顔をしてまじまじと見てくるので、範玲は居心地の悪さを感じた。
それでも、昊尚は立ち去ろうとはせず、範玲に色々と聞いてきた。
何を読んでいるのか。面白い本はないか。学校へは行かないのか。これは知っているか。あれは知っているか。
昊尚が面白がったのは、範玲が詩経などを諳んじていたことだった。昊尚が一節を書き付けると、その続きを範玲が書く。二人はそれを遊びの感覚で何度も試し、時間を過ごした。
範玲は、書かれたものは一度読むと覚えてしまう。日がな一日書庫にいて、色んな書物を読んでいるのだが、それも全て覚えていた。わずか十歳の子どもなのに。
そのことを知ると、昊尚は驚き、感心して、”童試を受けろ”と勧めてきた。
官僚になるための第一歩である童試のことは知ってはいるが、範玲にとっては遠い世界のことで、現実的に考えて、今の自分が試験など受けられるはずもないし、正直全く興味もなかった。
それを伝えると、昊尚は信じられないという顔をして、その勿体無さを力説し始めた。
範玲にとっての世界は家族とこの書庫のみ。それ以外の世界は考えも及ばない。外に出たとしても、とても無事に過ごしていける気がしない。
そんな状況や範玲の気持ちなどわからないくせに、勝手なことを言う。
徐々に腹が立ってきた範玲は、とうとう昊尚に我慢ならなくなった。
「うるさい。あっち行って。嫌い」
癇癪を起こし、つい声をあげた。
大きな声ではなかったが、範玲は自分の声に驚き、耳を押さえて書庫の奥に逃げ込んだ。
突き放され、残された昊尚はひどく傷ついた顔をして佇んでいたが、しばらくすると静かに出て行った。
**
昊尚と会ったのはその一度きりだった。もう十年以上前のことだ。その後、喜招堂で"彰高"を訪ねた際も全く思い出すことはなかったのだ。
当の昊尚はあの時のことを覚えているだろうか。
範玲は思い出してしまったあの後味の悪い出来事に、少なからず胸の痛みを感じた。
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