往日 ある日の記憶

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**  あの事件の日に新しい耳飾りになってから、以前と比べものにならないほど範玲の日常は楽になった。  音に怯える必要がなくなったからだ。  人に慣れるために、昼間少しずつ出かけるという余裕までできた。  外の世界は書物の中よりもとても刺激的だった。目的もなくあちこちを見ながらぶらぶら歩く。時々大きな物音には驚くこともあるが、街中には書物に書かれていなことがあちこちに転がっていて楽しかった。そうしているうちに、人と会うのが苦にならなくなってきた。  ただ、依然として直に人に触れてしまうと、相手の心を読んでしまうのは変わりなかった。新しい耳飾りのお陰なのか、若干感情や思考の流れ込み方が緩やかになっているようではある。とはいっても、やはり人との接触はしないように細心の注意を払わなくてはならなかった。 **  範玲がそんな風に毎日を過ごしている間に、周家では昊尚が藍公を引き継ぐことが決まった。  ただし、承健の嫡子の昌健が成人し、家長として独り立ちするまで、と昊尚自身が条件を出して引き受けたとのことだった。  啓康王の状態は相変わらず良くなく、王としての職務を全うすることはできないため、結局罷免が正式に執行されることになった。  啓康は東の離宮で静養することになった。離宮にはその子ども達も共に移った。しかし、心を病んでしまった怜花妃だけは西の離宮に幽閉されることになった。  王の不在を長く引き延ばすわけにはいかないため、早速三師による次王の推薦者の選定が始まった。 *  王不在の中、政務を執り行う中心である青公三名のうち、縹公は意識を取り戻したものの、まだ(とこ)からは起き上がれないでいる。そして藍公は十二年ぶりに公の場に出た昊尚だ。その皺寄せのほとんどは、残る青公である英賢にのしかかってきており、相変わらず英賢は激務に追われている。屋敷に帰ってきても、誰かしら尋ねてきては、夜遅くまで仕事をしているようだ。  その日も夜更けに英賢を尋ねて来た者がいた。  範玲は既に(とこ)に入っていたが、一体誰なのか何故か気になって耳を澄ませた。英賢と言葉を交わす声を耳にして、昊尚が来ていることを知った。  藍公らの葬儀の後も昊尚と顔をあわせる機会はなく、喜招堂に訪ねるのも遠慮している。人に慣れる訓練代わりに街中をそぞろ歩く時、喜招堂の前にさしかかると、ちらりと通りしなに覗いてみるが、やはり昊尚らしき人物は見当たらなかった。  その昊尚が来ている。  その事実に範玲はそわそわした気分になり、落ち着かない気持ちですっかり目が冴えてしまった。しばらく夜具の中で何度も寝返りを打ち、もぞもぞとしていたが、とうとう寝台から抜け出した。夜着の上に厚くて丈の長い綿入れを羽織ると、中庭に出た。  夜の風にあたると、喜招堂の庭で昊尚と話した時のことを思い出された。  あの時も自分のことばかりだったなぁ、と思い返しては自己嫌悪の溜息が出る。  範玲は夜中に庭へ出た際いつも座る場所に膝を立ててうずくまった。  喜招堂で昊尚と話をした夜よりも随分と空気が冷たい。  厚い綿入れを着て来てよかった、と範玲は思った。  月がとても綺麗でとても静かだ。冷たい空気がより静けさを際立たせている。  新しい耳飾りは、あの時壊れてしまった物よりも優秀だ。  以前はこんな静かな夜でも、耳にはいろんな音が混じり合った雑音が常に聞こえていた。だけど、この新しい耳飾りになってからは、それがほとんどない。"静か"という状態を実感した。  この夜中の"静か"を一人堪能するのが、範玲にとって最近の密かな楽しみだ。  膝を抱えて中庭の池の水面をぼんやり見つめる。  そうしてどのくらい経っただろうか。 「眠れないのか」  喜招堂でかけられたのと同じ言葉が背後から聞こえた。  声の方へ振り向く。 「しょ……昊尚殿」  英賢との面会を終えて帰ろうとしているところだった。 「君は夜中出歩くのが好きだな」  範玲は、昊尚の苦笑する顔を見るのが随分久しぶりな気がして言葉に詰まる。 「もう遅いから戻った方がいいぞ。今日は特に冷える」  せっかく会えたというのに、じゃあ、と言って立ち去ろうとする昊尚に範玲は慌てた。 「あの! ……藍公と承健様のこと……何て言っていいか……。ごめんなさい。しょ……昊尚殿の方が大変だったのに、自分のことばっかりで……」  最後の方が尻窄まりに声が小さくなる。  言ってどうなるわけでもなく、自己満足であることはわかっていたが、範玲はずっと昊尚に謝りたかった。  昊尚は足を止め、一瞬怪訝な顔をしたが、再び苦笑する。 「律儀な奴だな」  俯く範玲に向けた声が優しい。 「そもそも私が言わなかったんだから、知らなくて当然だし、君が謝る必要は全くない。むしろ、騙されたと怒ると思っていた」  騙したと言うが、範玲が思い返すに、全くの嘘というのではなかった気がする。  周家の類縁であるのも、祖母が梁氏の系統というのも言うなれば事実。名前も元から商売用に用いていたものを名乗ったにすぎないのだろう。壮哲と随分親しかったのが不思議ではあったから、注意深く観察すればその正体に気づけたことかもしれない。  言ってくれてもよかったのに、とは思ったが、そこまで打ち明けるほど親しくはなかったから仕方がないとも思っていた。 「怒るだなんて。お世話になった身ですから」  範玲が言い、もう一つ聞きたかったことを続ける。 「……それから、あの……耳飾り、ありがとうございました」  あえて、耳飾りをくれたのは貴方なのか、という聞き方を選ばなかった。  昊尚がくれたのが事実であるとして礼を述べることで確認しようとした。  しかし、昊尚は一拍間を置いた後、素っ気なく言った。 「……いや、私は頼まれて仕入れただけだ」  範玲はそれで引くことはせず、追求することにした。 「誰に頼まれたんですか?」 「商売の信用上、言えないな」 「どうしてあの時持ってたんですか?」 「紅国に行ったついでに受け取ってきたからだ」 「……」  あくまでも自分ではないと否定するつもりだな。  どういう理由で隠すのかわからない。  いや、本当に頼まれただけなの?  昊尚をじっと見つめてみても、暗がりで読み取れる表情はない。  範玲は初めて、人の心を読める自分の能力を使ってみたいと思った。  きっとこんな時、普通の人なら触れてみれば何を考えているのかわかるのだろう。  ただ、それは昊尚には無効だということがわかっている。  もどかしい思いが範玲を焦れさせる。  が、これ以上は追求しても何も教えてくれそうにないから、今日のところは引き下がることにした。  しかし、感謝している気持ちは伝えたい。 「では、くださった方に伝えてください。……とても助かりました。とてもとても感謝しています。それに、今度いただいたものはとても快適です。今までのものと比べても、より素晴らしいものだと思います。"静か"という状態を初めて知りました。本当に、ありがとうございます。この感謝の気持ちをどう伝えたらいいかわからないくらいです」  範玲は、精一杯、心からお礼を言った。  そんな範玲を、昊尚は夜の暗がりにもかかわらず眩しそうに見る。 「……それはよかったな。きっと依頼主も喜ぶ」  いつもの昊尚らしからぬ少し歯切れ悪い口調で言うと、じゃあ、と昊尚は再び立ち去ろうとする。範玲は再び昊尚の背中に向かって呼びかけた。 「……随分前に、会ったことがありますよね?」  昊尚は足を止める。 「……いつ? そんなことがあったか……?」  振り向いて範玲をまっすぐに見た。 「もう十年以上前です。この家の書庫に来ましたよね?」 「……すまない。そういったことがあったのかもしれないが、覚えてないな」  少し考えた後、昊尚が言った。  嘘をついているようには思えなかった。そもそも嘘などつく理由はないだろう。 「そうですか……」  範玲の気落ちした様子に、昊尚はもう一度謝ると、もう遅いから寝るように言って去って行った。  昊尚の背中を見送り、呟く。 「覚えてないか……」  昊尚が範玲に会った時のことを覚えていなかったことに、残念な思いが広がる。  しかし、気まずい思い出なので昊尚が覚えていなくて良かったのかもしれない、と範玲は思い直した。
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