一日目 事の始まり

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 今まで父や兄達に守られて、耳のことがあったからだろうが、必要以上に過保護に扱われてきた。そんな状況に甘んじ、自分のことだけ考えて過ごしてきたと思う。  けれど、士信と、恐らく兄も捕らえられている今、のんびりとこのままいていいはずがない。 「……兄上も、士信も、謂れのない罪を着せられています。濡れ衣を晴らしたい」  範玲は顔をあげて彰高と壮哲に訴えた。 「無論。このままで済ますつもりはない。何のための誰の仕業か知らないが、英賢殿の濡れ衣を晴らし、藍公と承健殿の仇を打つ」  壮哲が低く冷えた声で言った。 「じゃあ、一旦家に帰って何か手がかりを探して……」  理淑が言いかけたところを彰高が遮った。 「ただし、これは危険を伴う。君たち二人は大人しくしているように」 「そんな。兄上が危険な目にあっているのにこのまま何もせずにいるなんて、無理です」 「足手まといになる。ここで大人しくしていれば状況は知らせよう」  冷たく彰高に一蹴される。  はっきりと足手まといと言われて、範玲の頬が熱くなる。  確かに、今までろくに外に出たこともなく、体力もないし彰高の言うとおり足手まといになる可能性は極めて高い。けれど、この状況でこのままじっと待っているなんて嫌だ。  理淑も握っていた範玲の手を離し、彰高の前に立った。 「私はそこらの兵士より腕が立つと思う。足手まといになんてならない」  理淑が自分の腕に自信を持っているのはただの自惚れではない。  小さな頃から武門の誉れ高い秦家の当主で壮哲の父親でもある縹公に鍛えられてきた。近頃は屋敷を抜け出しては兵士に混じって剣術の稽古をしていたほどだ。  聞くところによると禁軍の兵士に混じっても、壮哲以外には手合わせで負けたことがないらしい。 「そう言われても駄目なものは駄目だ」  彰高は取り合わない。しかし理淑も後には引かない。険悪な雰囲気だけが漂う。  見るに見かねて壮哲が助け舟を出した。 「まあ、理淑が剣の達人であることは事実だよ。それに、自分で言うのも申し訳ないが、私は追われている身のようだから、人手は多い方が良いだろう」 「だが理淑殿自身も人目につかない方が良いだろう」  あくまでも彰高は渋い顔だ。 「ではその点、私は大丈夫です」  範玲が不意に横から口を出すと、どういう意味だと彰高が怪訝な顔をする。 「ずっと引きこもっていたので、私の顔は家の者以外知らないはずです」  自虐のようだが事実だ。現に壮哲は青公三家の一員だというのに範玲の顔を知らなかった。 「それに、私は剣術は出来ませんが、耳が良いので諜報に向いていると思います」  これまで足枷にしかならなかったこの能力が、まさかここにきて役に立つかもしれない。  範玲はわずかに光明が見えた気がした。 「ちょと待て。耳が良いって……それだけで諜報は無理だぞ?」  壮哲が少し呆れて言う。  範玲は自身の耳について説明をしたが、半信半疑の様子で信じてはもらえない雰囲気だ。  実演して見せるしかないか。 「では、今あちらの食堂で話されていることをお知らせしましょうか。申し訳ありませんが、音を立てないでいてくださいますか」  そう言って範玲は耳飾りに手をかけた。 「ちょ……」  突然の行動に壮哲が声をかけようとすると、理淑が慌てて唇に人差し指を当てて、声を出さないように合図をした。  範玲は大きく息を吸うと、両の耳飾りを外した。  耳飾りを取り外した途端、範玲を音の波が襲う。その波に翻弄されないように目を閉じ、じっと耐えて慣れるのを待つ。  慣れてきたところで、先ほど通ってきた食堂の方向に意識を集中する。押し寄せてくる音の中から、交わされる会話を選別して手繰り寄せる。  一つ会話を選ぶと、急いで耳飾りを付け直した。  大きく息を吐くと、顔を上げた。 「男性が、履物の紐が切れたので、代わりになるものをもらえないかと聞いています。宿の方でしょうか、隣の店で売っているから、明日の朝買えば良いと言っていました」  範玲は聞いた会話の内容を伝えた。  顔は青ざめ、額には汗が浮いている。声も震え、息も若干荒い。  そんな範玲の様子を彰高が眉間に皺を寄せて見ている。壮哲が二人を見比べると、佑崔に言った。 「……佑崔、すまないが食堂に行って確認してきてくれないか」  佑崔は頷くと、音もなくするりと出て行った。 「姉上、大丈夫……?」  理淑が心配そうに覗き込む。  範玲は青ざめたまま微笑んで理淑を安心させた。  無意識に握りしめていた手を開くと、手のひらに爪の跡がついていた。  範玲は彰高が見ているのに気付かないふりで手のひらを摩っていると、間も無く佑崔が戻ってきた。 「範玲様のおっしゃった通りのことがあったようです」 「は……」  困惑ぎみの佑崔の言葉に、壮哲から思わず驚きの声が漏れた。 「凄いな」 「……ああ」  彰高も渋々ではあるが範玲の能力を認めた。  範玲はほっと胸をなでおろし、耳の青い亀甲形の耳飾りを触りながら微笑む。 「この耳飾りは玄亀の甲羅でできていて、これを着けることで普段は聞こえ具合を鈍くしているのです。これを外すと、離れたところの音も聞くことができるんです」  範玲はそう説明すると、彰高に向かって改めて言った。 「……私にも手伝わせてくださいますね?」  彰高が歯切れ悪く頷く。 「ああ。まあ……そうだな……」 「ちょっと待って」  彰高の言葉に理淑が待ったをかけた。 「姉上が良いのなら私も良いよね?」  彰高が嫌な顔をする。  しかし、結局壮哲の取りなしによって、理淑もなし崩し的に手伝うことを認めさせた。 *  範玲と理淑にも状況を共有させるため、彰高がこの罷免文書を作るに至った経緯を説明してくれた。  現王である啓康王は二十六年前の三十五歳の時、前王が崩御したことにより、次の王に選ばれた。以来、堅実に国を治めてきた。災害に備えた護岸工事などの土木事業、教育施設の整備など、派手さはないが着実に国政に励み、民の生活をより良いものにと心を砕いてきたため、民から賢王と慕われてきた。  それが半年程前からだろうか、少しずつ王の言動に違和感が感じられるようになった。  それはまるで少しずつ油の染みが広がっていくようだった。  朝議で決めたことを翌日には覚えていなかったり、王の指示通りに行ったことに対して、無断でやったと声を荒げたり。  常にそうであるというわけではなかった。普段は以前と変わらない穏やかで賢明な王のままであったから、青公や極々限られた側近によりそれは厳重に伏せられてきた。  しかし、ここふた月ほどはそういった状態が頻繁に起こるようになった。更には突然怒り始めることもあれば、呆けたように(くう)を見つめていることもあった。  青公たちは王の名誉を慮り、自発退位を進言した。ところが、王は頑なに(だく)とはしなかった。けれどもその後も一向に王の状態が良くなる兆しは見られなかった。  そろそろ一般の官吏の間にも王の言動に不審を感じる噂話が出始めてきた。  そこで青公たちは協議を重ねた結果、已む無く罷免という形を取らざるを得ないという結論に至ったという。  啓康王の兄である藍公は、最後まで王の名誉を守るために王自らが道を譲る形を望んでいたというが、ここにある文書を見るに、致し方ないと判断したのだろう。 「実際に我が軍でも、夜中に陛下がご寝所から抜け出して、禁苑を彷徨っておられたのを何度かお探ししたことがあった」  壮哲が言う。  確かにそのような状態が頻繁に起これば、王としての責務を果たすことが難しいと言える。青公たちの決断は間違っていないように思われた。  英賢や壮哲に濡れ衣を着せようとしているのは、それに対する報復なのだろうか。  しかしそれが王の意志なのかは現時点ではわからなかった。 「私たちは陛下に歯向かうことになるのでしょうか」  範玲が不安を覗かせると、彰高が範玲を鋭い眼差しで見た。 「壮哲たちを捕らえろというのが啓康王の意志ならば、そういうことになるのかもしれない。しかし英賢殿や壮哲が無実であるのなら、間違いを犯しているのは啓康王だ。間違いを正すのも君ら臣下の役割だろう」  彰高がきっぱりと言い切った。 「何だ。怖気付いたか。抜けても良いぞ」  眉を下げている範玲に、そうしろとばかりに付け加える。 「そのようなことはありません。兄上の無実の罪を晴らします」  範玲がむっとして言い返す。  それを彰高が何か言いたげに見たが、ふいと顔を背けた。 「よし。では話を進めよう。今、圧倒的に足りないのは情報だ。佑崔、できれば英賢殿が今どういう状況にいるか探ってくれないか。安否がとりあえず知りたい。それに壮哲たちが藍公たちを害したとされる動機も」  彰高の指示に佑崔が頷き、音もなく部屋を出て行った。  範玲と理淑は祈るように見送り、自分たちは何をすれば良いかを尋ねたが、彰高の答えはそっけなかった。 「今は君らに何もできることはない。明日に備えて少しでも眠っておけ」  そう言う彰高に範玲と理淑は抵抗したが、明日宮城へ行くから、寝不足で足手まといになりたくなかったら言うことを聞けと言われ、諦めて用意された部屋へ撤退した。  しかし、休むようにと言われたが、とても眠れる状況ではない。亡くなった藍公たちや斬られた士信、捕らえられたであろう英賢のことを思うと、胸が痛くなった。  今すぐにも英賢の元へ駆けつけたい。しかし自分が行ったところで英賢が救い出せるとは思えない。  そんな能力がないことは範玲が一番よくわかっていた。  先程までいた部屋では彰高と壮哲が、範玲と理淑を追い出した後、何か話し合っているようだった。耳飾りを外して盗み聞きをしようとしたが、部屋に防音が施されているのか、余程注意深く話しているのか、ほとんど聞き取ることはできなかった。  範玲が何度も寝返りをうっていると、理淑もやはり眠れないようで声をかけてきた。 「兄上は大丈夫かな……」  範玲に聞いても詮無いないのは承知の上でも、聞かずにはいられなかったのだろう。気持ちは十分にわかる。範玲自身が誰でも良いから尋ねたいことだった。 「きっと大丈夫。仮にも青公だもの。いきなり処罰されることはないわ。それに兄上はああ見えてしたたかで図太い方よ。やられっぱなしでいるはずがないわ」  範玲は理淑に答えながら、自分にもそう言い聞かせた。
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