ピアニストと准教授の恋

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 これは飽くまでも例え話だが、もし閑職から要職に就く為には幹部の三遍回ってワンと吠えろとの命令に、韓信の股くぐりとばかりに従わねばならないとしよう。従った結果、昇進後、いい女が手に入ることが確約される、となれば世間的な名誉や利益を求める俗物は、是が非でも三遍回ってワンと吠えるだろう。しかし世間的に言ういい女は概して教養の欠片もないから男にとって見た目が美しいほんの僅かな期間しか楽しめない。逆に自然の美それに本物のロックやクラシックや絵画や純文学といった芸術に精通している閨秀と付き合えたら長きに亘って人生を奥深く楽しめる。第一、見た目ばかりに拘っていたら目移りしてしょうがない。浮気もするだろうし、薹が立てば見捨てもするだろう。そう理屈では分かっているのだが、矢張り教養があっても不細工では話にならない。どうしても男は見た目が美しい女を求める。だからと言って三遍回ってワンと吠えるかと言うと俺は吠えない。自分の良心に反していても世間的な名誉や利益を優先して事を為して行き、自ら嘉する自己欺瞞者にはなれないのだ。確固たるプライドがあるからだろう。そう聞いて、へへ、何がプライドだ!出世の為ならプライドも糞もあるものか!気取りやがって!と冷笑的に返されれば、俺はいい面の皮だ。  全く義にさとらず利にさとってお世辞を言ったり、ペコペコ頭を下げたり、へらへらしたり実に卑しい奴ばかりだ。こいつらは金の為なら恥も外聞もなく醜態を晒すチャットガールや人を騙す詐欺師や汚職する政治家と同等だと俺は位置づけている。俗物は境遇に違いはあれど、悉皆、卑劣な真似をしているのだ。  高貴であれ!俺はそう言いたい。そうなれれば皆、正しくなり世の中が清浄になる。  斯様な見解を持ち、義を見てせざるは勇無きなりという論語を心得、義を実践する藤三郎は、俗物にとってうざくてめんどくさい奴に違いなかった。実際、水清ければ魚棲まずで藤三郎は友人と呼べる程の人物が身近にいなかった。そして理想が高いことが仇となって女も中々できなかった。  藤三郎は高踏的だから妥協できないのだ。だからそこらの女に甘んじて結婚し、浮気がばれて、いやあ、女の勘って怖ろしいよな、ほんと敵わねえと参っている男を見ると、自業自得というもので妥協するからそんな目に遭うんだろ、お前はもろに顔に出るからな、俺だってお前の女房の立場なら容易く見抜けるわ、第一、何でもお見通しの四大聖人は皆、男なんだぞ、少しは男であることに誇りを持てと思うのだった。また子供が出来、女は偉いなあ、赤ちゃんを産んで子育てして全く大変なもんだ、男にはとても真似できないよなんて感心し切りの男を見ると、当たり前だろ、そんなこと、アホか、俺だって女に生まれたらそうするわ、第一、女には作れない物を、そして発明を芸術を男はどれだけ生み出し育んで来たことか、少しは男であることに誇りを持てと思うのだった。  そう芸術。芸術を知ることがいい女を知ることより価値があると藤三郎は常々思うのだ。それは確かに遥かに奥深いことなのだ。だから男に生まれたからっていい女をゲットすることが最大の目標とはならないと思うのだ。  しかし芸術を知るだけでは性的な欲求不満は解消されない。だからいい女を知ることも必要だ。芸術の分かる教養あるいい女を知れれば猶よいのは論を俟たない。  例えば、小さい頃からオルガンを習っている、お嬢様育ちでバッハの「トッカータとフーガニ短調」を弾きこなせる美女なんてのがいたら嘸かし絵になるだろうが、だからと言って教養があるとは限らない。偶々それが弾ける環境で育つ運命にあっただけであるかもしれないのだ。教養とは辞書にある通り学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力だ。敢えて今の流行りの言葉で一言で表現すれば、リテラシーだ。だからオルガンが得意だけでは、もっと言えば学校の勉強が出来て一流大学を出ているだけでは教養とは風馬牛と言っても間違いないのだ。と瑠川真知子という高学歴の美人ピアニストフィーチャリングパイプオルガンコンサートの前夜、チケットを見ながら藤三郎は思うのだった。
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