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確か彼が初めて秘書室に来たのは、専務が就任した翌日だった。新しい専務が予想に大きく反していたことに、室内は何となく浮ついた空気になっていたので、朝のミーティングでみんなの気持ちを引き締めた後だった。
『専務、いますよね』
聞き慣れない声がカウンターの前を通り過ぎようとして、安西さんが制止する声が聞こえた。
『お待ちください。専務は、ただいまお電話中です』
『そう。じゃあ、中で待つよ』
『あの、』
安西さんの言葉を聞く気のない返事に、少しイラっとしながらカウンターに向かう。
『お取次ぎいたしますので、お待ちください』
私がそう言って後ろに駆け寄ると、足を止めた彼が静かに振り向いて私を見下ろした。
たぶん、専務と同じくらいの背の高さがある。ネームプレートには営業部の文字があったけれど、見覚えがない。
『磯村、様』
『様じゃなくていいでしょ。“身内”なんだから』
『…失礼しました。磯村、副部長』
プレートをもう一度よく見て、敬称を確認する。営業部に、専務と同じタイミングで若い副部長が配属されたことを思い出した。爽やかなネイビーのシングルスーツは、定番な筈なのに何か惹きつけられるものがある。案の定、専務室の入室を咎めていた筈の安西さんは、頬を染めて彼を見つめている。
『専務に確認してまいりますので、お待ちください』
少し厳しい声になってしまったのは、安西さんの表情のせいかもしれない。彼女の気持ちに共感した、自分を諫めるつもりで。
『大谷さん』
名前を呼ばれてそちらを見ると、こちらに向かって森下専務が歩いてきた。彼の隣に並ぶと、やっぱり二人の身長はほとんど変わらない。
『磯村は、いいんですよ。通してもらって大丈夫です』
『…そうですか。申し訳ございませんでした』
私は、一歩下がって彼の方にお辞儀をする。
『…同僚なんだから、そんなに丁寧じゃなくていいのに。それに僕、専務とは、特別な関係なんで』
専務の肩に少し頭を預けるように首を傾けて、こちらを見た磯村さんは意味ありげににっこり笑う。
『…』
特別な関係。特別って…?
『冗談きつすぎるぞ。引いてるよ、みんな』
あきれたような顔で専務がその頭をあっさり手で払うと、イテッと呟いた磯村さんは肩をすくめて私を見た。
あの時、今までになく和やかな空気になった役員室のフロアで、思わず私も笑顔になったのを思い出す。初日から緊張している表情だった専務が、安心したように笑う機会を作ってくれたのは、間違いなく磯村副部長だった。
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