ため息の余韻

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 休憩時間にリフレッシュルームに向かおうと秘書室を出た私を、パタパタと足音が追いかけてきた。 「大谷さん!”絶対”ですよ」  目をキラキラさせて、グーにした手を胸の前で握りしめながら、安西さんはエレベーターの前に一緒に並んだ。 「なに?」 「磯村ふ、じゃない、磯村さん。さっき絶対に大谷さんのこと気にしてましたよね」  彼女は、あんな風に頬を染めて磯村副部長に応対していたのに、なんだかとても嬉しそうだった。 「気にして、って」 「私、応援します。専務に負けてませんよ、磯村さん。専務は堅すぎる気がして緊張しちゃいますけど、磯村さんは程よく楽しいし、専務とは違うタイプのイケメンですし。お二人、お似合いですよ」 「ちょっと、待ってよ。そんな風に言ったら、磯村さんに失礼だわ」 「だってあの時、大谷さんに名前で呼んでほしいって、言ってたじゃないですか」  一応、私にもそうは聞こえた。前に名前の呼び方を確認したから、揶揄(からか)われたのかもしれないとも思った。確かに、全てが整っている専務とはタイプが違う。整っていないわけじゃないけれど、もっと自由に整っている、っていう感じかもしれない。専務は、その自由さを頼りにしているような気がした。  でも。  私はいろいろな意味で、今は専務を支えていきたい。専務との仕事のペースに慣れるのにもまだまだ時間がかかるだろうし、専務のことを、もう少し知りながら(・・・・・)補佐したいと思っている。 「新しい体制に、慣れる方が先よ。安西さんも、お願いね」  心の中では、さっきの磯村さんの視線を思い出しながら、開いたエレベーターのドアに足を踏み入れる。 「もちろん仕事は、きちんとやります。でも、恋愛もしたいです。大谷さんには勝ち目がないので、今回は参戦しませんけど」  少し遅れて一緒にエレベーターに乗り込んだ安西さんは、真剣な声でそう言った。もちろん、恋愛を否定するつもりはない。良い恋愛は、仕事の質を上げる事だってある。私だって、そのくらいは分かっている。 「恋愛は否定しないし、人生にとって大切なことだわ。安西さんなら、きっと上手く両立できるだろうけど。私は、どうかな」 「大谷さんに、できないわけないじゃないですか。秘書室みんなの憧れなんですよ」  そんな風に素直に言える安西さんにこそ、憧れる。  いつから、自分の気持ちを、斜め上から見下ろすようになったんだろう。相手が気になっていても素敵だと思っても、その気持ちを引き留めるような冷めた視線が心の中を通っていく。  30が近くなったから?  若さでは勝てない後輩たちが増えたから?  仕事の責任が、増しているから?  安西さんの、きらきらした瞳が羨ましくなったのを誤魔化すように”ありがとう”と呟くと、思わず長い溜息が後から私を包み込んだ。  
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