腕の温もり

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腕の温もり

「お久しぶりね、大谷さん」  ドリップコーヒーを手にした時に掛けられたのは、聞き覚えのあるあまり好きではない声だった。  蓋付きカップのコーヒーは簡単には零れないのに、気を使うようにしてゆっくり振り向いた私に、やっぱり彼女(・・)が鈍く微笑んでいた。  スレンダーなスタイルを引き立たせているオフホワイトのパンツスーツに、ウエーブが綺麗なロングヘアー。ベージュのハイヒールの硬い音をコツコツと響かせて、私に更に近づいてくる。  企画部営業企画課主任、脇田 梓(わきた あずさ)。同期入社の彼女は、男性の多い企画部という花形の部署で主任の地位にある。秘書室の主任とは、訳が違う。 「どう?新しい専務は。お坊ちゃまのお守も大変ね。その服、専務の趣味?」  私の隣に居た安西さんが、明らかに彼女をけん制するような空気を醸し出した。 「本当、ご無沙汰ね。休憩時間?」  私は彼女に聞かれたことには答えずに、社交的な返事をした。彼女には昔から、こうして突っかかられることが多い。こんなことを言うなら声をかけてくれなくてもいいのに、社内で”あいさつ”してくれるのは必ず彼女の方だった。 「自分の周りに艶福の材料(・・)をそろえるなんて、さすがお気楽な後継者ね」  彼女の言うことは左から右に流すつもりでいた私も、お気楽という言葉にカチンときた。社員はもしかしたら、専務のことをそんな風に見ているんだろうか。 「専務は、お気楽なんかじゃありません。毎日、真剣に新しい環境に慣れようと、お忙しくしてらっしゃいます」  私の代わりに、安西さんが一歩踏み出して喰いついた。彼女のその言葉を聞いて、もう少しで私まで、脇田さんの誘導に引っかかるところだったと気がついた。 「艶福の材料に見えたなら光栄だけど、残念ながら新しい経営人はすこぶる真面目なのよ。社長は超がつく愛妻家だし、専務とは、仕事以外のことを話題ににしたことないわ。プライベートのお相手も、良家のお嬢様ばかりみたいだし」  顧問が準備したらしいお見合いの話を、お茶を出しながら聞くともなく耳にしてしまったことを思い出してそう言った。脇田さんは、一応申し訳なさそうに言った私に、少し面白くなさそうな視線を送る。 「私たちも、今までみたいに言われた通りにしてなくてもいいって言っていただいて、とても充実した仕事ができてるの。だからごめんなさいね。安西さん、まじめに(・・・・)上司を庇ってしまって」 「上司と充実した仕事って、言ってることが相変わらず可愛らしくて(・・・・・・)、羨ましいわ」  更に表情をきつくして私たちを順番に睨むと、彼女は、リフレッシュルームの奥に入っていった。  同期だから、以前は何かと一緒に過ごす機会があったけれど、いつも遠くにいるか、今日みたいにたまにそばに来るとこうして絡んでくる。広い社内で、あまり会うことがないのが幸いだった。 「主任、なんなんですか、あの(ひと)。チョー感じ悪い。主任が新しい制服似合ってるから、悔しいんですよ」  彼女の背中を睨んだ安西さんは、可愛らしく鼻をしかめて私の仇を取ってくれた。    
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