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きし。とベッドが軽く沈み込み、ひんやりした何かが額に触れ、薄く目を開けた。
「……あ…」
目の前に無表情の一樹がいて、じっと要を見下ろしていた。
「あき…。かず、き…さん」
咄嗟に、這いずって彼から離れる。
ーなぜ、ここにいるのか。
昨夜の恐怖と痛みを思い出し、抑えようとしても、身体が小刻みに震えてしまうのを、止められない。
怯えている要に、静かに言った。
「…もう、夕方の18時だ。まだ何も食べて無いだろう」
言って、サンポーチを指差した。
円形のテーブルに、トレイに乗った食事が置いてある。
「…食べたく、ありません」
顔を逸らせて素っ気なく答えると、一樹は冷たい声を放った。
「駄目だ。嫌だと言うなら、無理やり詰め込むぞ」
むっとしてつい睨んだが、彼の表情は先程と変わらない。
「熱はもう引いている。ほら、こっちに来い」
「うわっ」
要の手を握り、強引にサンポーチへと連れ出した。
ふかふかとした一人掛けのソファに、戸惑う要を座らせる。トレイには二人分の食事が乗っていた。
向かいのソファに腰を下ろすと、一樹は当たり前みたいに食事をとり始めた。
要の戸惑いはますます深くなったが、お出汁の良い香りがする雑炊を前に、やっと空腹を感じた。
「…いただき、ます」
漆塗りの椀と、黒柿材で作られたスプーンを持ち、一匙口に含む。
「美味しい…」
温かく、優しい味がじんわりと身体に染みた。
一樹はゆっくりと食べ進み出した要をちらりと見遣り、彼と同じペースで、自分の分を品良く食べ終えた。
「風呂に入って来い」
食事を終えて一息つくと、また上から命令された。
「…わかりましたよ。嫌だって言ったら、どうせ無理やり、浴槽に沈めるとか言うんでしょ」
返す言葉がいちいち刺々しくなってしまう。
だが、一樹はふっと容の良い口唇に笑みを浮かべてみせた。
「良く、分かってるじゃないか」
「……」
ー何だか、調子が狂う…。
一樹が怖くて仕方ないのに、彼は昨夜とは全く雰囲気が異なっていた。
妙に優しいとすら思えて、また戸惑ってしまうのだ。
ジャスミンの香りが漂うお湯に時間をかけて浸かり、緩慢な動作で、全身を隅々まで洗い流した。
新しいガウンを纏い、髪を乾かして、ついでに歯磨きも終えてバスルームを出る頃には、身体はスッキリと軽くなっていた。
「やっと、まともな顔色になったな」
部屋に戻ると、一樹はロッキングチェアに腰掛け、ゆったりと要の蔵書を読んでいた。
「…ええ。お優しい、生徒会副会長様のお陰で」
皮肉を籠め、ぼそっと返事する。本を閉じ立ち上がると、彼はずかずかと早足でこちらに近付いて来た。
ーお、怒らせた…っ?
びくっと縮こまり目を閉じた要を、さっと抱きかかえ、ベッドへ向かう。
「か、一樹さんっ!」
要が入浴している間に交換したのか、シーツ類が新しい物に変わっている。
きちんと整えられたベッドに横向きに寝かされ、情けない位に狼狽えてしまう。
おまけに、背後から密着された状態で右腕を回され、身体が恐怖で強張った。
「…い、嫌です。離し、て…」
抱き締める腕を引き剥がそうとするが、全く動かない。
「断る。…何もしないから、黙って大人しくしていろ」
要の飴色の髪に鼻先を埋め、低く囁く。
「君はいい香りがするし、抱き心地が、良い」
「ちょ、っと…」
眠そうな声…。と思っている内に、一樹は本当に、寝息を立てて眠ってしまった。
( 随分と、自分勝手な人だな )
これまでの彼は何だったんだろうと思う位、印象がまるで違う。
ー学校の生徒達が素の一樹を知ったら、どう思うだろう。
多分…間違いなく、ドン引きする。
( どこが、面倒見が良くて優しい、人間の出来た先輩で、男女を問わず全生徒に絶大な人気がある貴公子…。なんだか )
そう評価した碧川の両肩を掴んで、全力で揺さぶってやりたい気分だ。
( でも、俺の体調を心配してくれた、みたいだし… )
治りきっていない状態でまた犯されるのかと恐れたが、そうでは無かった。
しかし、要の体調を最悪なものにした張本人なので、お礼を言うのもおかしな話だ。
ーだから、何度も戸惑ってしまう。
( 一樹さんて、変な人なのかな…)
背中に彼の体温をじんわりと感じ、自分まで瞼が重たくなって来た。
一樹の温もりと腕に包まれている内に、要も深く、眠りに引き摺り込まれてしまった。
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