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Ⅰ.開 演
「……再、婚…。した?」
今日も息つく間も無く大忙しだった、夕餉時の飲食店のバイトを終えた立花要は、摘まんだ蓮根の天麩羅を箸から取り落とした。
疲れきった怠い身体を入浴で癒し、やっと夕飯に有りつけた瞬間に、母親が軽い調子で事後報告をしだしたのだ。
「そう!七つ上の、秋庭 昴さんって人とね」
隣で汁椀を持つ弟の充と、思わず顔を見合わせてしまう。
「秋庭、って確か…。母さんが働いている会社の、社長の名前…だよね?」
母親の立花 あやめは三年前から、プロパンガスを販売している会社で、事務員として働いていた。
『 秋庭ガス産業 株式会社 』
地元で知らぬ者はいない大手のガス会社であり、富裕層向けの介護事業でも、手堅く成功を収めている会社だ。
まさかね。と一笑したが、母親の再婚相手は本当に、その秋庭社長だった。
驚いて目を見張った二人だったが、充は理知的な顔立ちを、さっと曇らせた。
「…でも、秋庭さんって独身だった?確か跡継ぎが、いたよね」
ー実は不倫の末、略奪したとか言わないよね…?
言外に疑惑を滲ませた、しっかり者の次男に頭を振る。
「充が心配してるような事は無いから、安心して。三年位前に、前の奥様との離婚が成立しているから」
ビールグラスを豪快に傾けて飲み干し、美しく華やかな美貌で、長男の要を見た。
「秋庭さんには、男の子が一人いるのよ。要の二つ上で、同じ高校に通う、三年生ですって。一樹って子。知ってる?」
美しい母と瓜二つの要は、黒い縁取りのある珍しい伽羅色の瞳を瞬かせた。
「上級生と関わる事って殆ど無いから、知らないな…。明日、友達に訊いてみるよ」
のんびり答えると、あやめは口元を上品に吊り上げた。
「ふふっ。昴さんも一樹君も、あなた達と一緒に暮らすのを楽しみにしてます。って、言ってたわよ」
再び、充と顔を見合わせてしまう。
「え…?!俺達も、秋庭さん達と一緒に…暮らすの?」
当たり前でしょ。と膨れてみせる。
「家族なんだから、当然よ」
「で、でも。新婚な訳だし…、向こうにも、高校生がいるんでしょ。邪魔じゃ、ないかな…」
つい心配を口にした要だったが、あやめは全く気にせず、出来合いの南瓜の天麩羅を取って齧った。
「気にしないで大丈夫よ!昴さん、要と充の面倒も是非、見たいんですって」
「…流石、有名企業の経営者だね。懐の広さが一般人とは違う」
揶揄するように笑う充に、要は優しい微笑みを向けた。
「俺は良いけど、充は大丈夫?母さんの事だから、週末には秋庭さん宅に引っ越すからね!って、言い出すと思うけど」
「御名答。流石、要ね」
嬉しそうに言い、注ぎ足したビールを飲む。
「僕も、大丈夫だよ。兄さんと一緒なら、何処で暮らそうが気にしないもの」
おっとりとした兄を慕う純粋な笑顔に、要は胸がじんわりと、暖かいもので満たされて行くのを感じた。
充は中学二年生だが、何かと多感な年頃にも関わらず、家族に訳もなく反抗したり拒絶する子では無かった。
自由気ままに生きる母親に、子供の時から振り回されがちな要の事を、心から支えてくれるのだ。
「…よし。今日バイト代入ったし、明日、三人でお祝いしようか」
要の嬉しい提案に、あやめは喝采した。
「やったぁー!すき焼きでいい?ビールも発泡酒じゃ無くて、生ビールを箱で買っていい?!」
一気に捲し立てるビール党のあやめに、くすっと吹き出す。
「良いよ。飲み過ぎはダメだけど」
しっかり釘を刺すと、充が言った。
「それじゃ僕、明日学校の近くにある精肉店で、牛肉買って来るよ。母さん、すき焼きだと無限にお肉食べるから…4kgあれば、足りるかな?」
学校帰りに精肉店で4kgもの牛肉を買って帰る中学生なんて、充しかいないだろう。
「ありがとう。お肉は充に任せるね。俺は他の食材買って、準備しておくから」
ごちゃついた、狭いリビング兼ダイニングに、家族達の眩しい笑顔が満ちる。
決して裕福とは言えないが、ささやかで慎ましく、愛情に溢れた掛け替えの無い生活。
ずっとこのままで居たいと願っても、それは叶わないだろう。
あやめが再婚しないとしても、要も充も成長して、いずれは独立するのだから。
( だからこそ、母さんと充と一緒に居られる今を、大切にしたいな… )
和気あいあいと、すき焼きに入れる具材を話し合う二人に微笑みかけ、要は今度こそ、蓮根の天麩羅を摘まみ上げた。
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