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湧き上る怒りを抑えようと、一樹は手のひらに爪を立てた。だが、ずっと言われっぱなしだった要の方が先に、堪えきれなくなってしまった。
「言わせておけば…!無断で人の家庭を調べておいて、勝手なことばかり、言わないで下さい!」
気付けばベッドから立ち上がり、彼の真正面で、怒声を張り上げていた。
「母さんが、金目当てで昴さんと結婚したなんて…。そんなの秋庭先輩の、単なる妄想じゃないですか!」
一樹は昴とあやめに、直接問い質した訳では無い。
興信所を使い、あくまで表の部分を暴き出し、普通の一般家庭とは呼べない立花家を、偏見を持って判断しただけだ。
「そうだな。ただの、俺の妄想だ」
要の発言を認めつつも、突き刺さる様な視線は先程と変わらない。
いや…。
今や、憎しみの感情までもが、薄く視線に混じって来ている。
「だけど俺は、妄想では無い真実を、一つだけ知っている」
立ち尽くす要に、瞬きもせず言った。
「父親の昴は、俺の母…利香と結婚するずっと前から、あやめに片想いし続けていた」
「へ……っ?」
初めて耳にする話にとぼけた声が漏れる。冷たい表情に苦みを走らせ、一樹は呟いた。
「あやめが高校生の時から、ずっと、だ…」
一目であやめに心を奪われた昴だったが、彼には既に、両親が決めた生まれも育ちも申し分ない婚約者がいた。
家の為、身を切る思いであやめを忘れて利香と結ばれたが、結婚しても他の相手を秘かに恋慕う、昴と利香の結婚生活は、最初から上手く行かなかった。
それでも何とか一樹は授かったが、二人の結婚生活は、早々に破綻してしまったのだ。
利香は北の間と呼ばれる離れた部屋で一日の大半を過ごし、忙しい昴と会う事すら無くなった。
「…寒々しい家庭だった。両親が仲良く会話をしている所なんて、見たことがない。親と一緒に食事をしたり、ささやかな行事を祝う経験すら、一度も無かった」
鬱々と日々を過ごす母親は部屋に籠りがちで、食事は全て北の間に運ばせていた。
一樹は物心が着いた時から一人で食事をとっていたが、それが普通なのだと思っていた。
そして、学校に上がって同級生達の話を聞く内、彼は自分の家が一般的で無い事に、気付いてしまった。
「俺が高校に上がった頃、あやめが父親の会社に事務員として入社した。…それを知った母は、とうとう父に愛想を尽かし、離婚してこの家を…出ていったんだ」
秋庭家の事情を知らない要には、何も言い返せなかった。
あやめの性格から言って、昴と不倫をしていた訳では…無いと思う。
利香との離婚が成立してから、二人は付き合い出したのだろうと、信じている。
しかし、あやめの存在が長く利香を苦しめ、息子の一樹にも、子供の頃から孤独と苦痛を間接的に与えて来たのだと理解すると、胸が苦しくなった。
裕福な家に生まれ、誰からも羨ましがられる優等生の一樹が、裏では常に、煩悶し続けて来たのだ。
沈痛な面持ちで押し黙っている要を、ベッドの上からじっと眺める。
トロリとしたシルクガウンを纏う要は、身体の線の細さが浮き彫りとなり、ガウンの裾から覗く白い肌までもが、一樹の目に艶かしく映った。
チリッ…。
とした痺れが、目許を軽く擦って行ったのを、微かに感じ取った。
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