デート前夜

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「坊ちゃんは愛をご存じないのです」 ばあやさんの言葉に「本当にそのセリフいう人いるんだ」と思った。本でしか知らない言葉だったから。でも、愛を存じ上げないのは私も一緒なので黙ってうなずいた。ちなみにその「坊ちゃん」は私の夫である。昨日から。「坊ちゃん」は伯爵の第一子で何不自由なく生きてきたが、それは金銭面の話だった。彼の両親、つまりは私の義理の父母は子育てに向いていなかった。なにせ子供嫌い。しつけは学校とばあやに任せきりで抱っこもロクにしなかったらしい。だが、それも私と大して変わらない。変わるところと言えば精々、私が貧乏貴族であらゆる不自由の中で生きてきたぐらいだ。 「ですから、その」 「気になさらないで。私は本が読めればそれでいいんですから」 坊ちゃんは結婚しても私を見向きもしなかった。大方、子供を産む道具にしか見ていないのだろう。だが、そんな夫婦は社交界では別段珍しくなかった。なにより、私も読書以外のことに全く興味がなかった。そこそこ食べられて好きなだけ本が読めればそれで十分だった。幸い、嫁ぎ先の屋敷には立派な図書室があり、それはかなった。私は暇さえあればそこに入り浸った。坊ちゃんと滅多に会えなくてもなにも困らなかった。 そうして数か月が過ぎたころ、坊ちゃんと思いがけない場所で出会った。図書室である。読書が一段落して顔をあげるとドアの前で突っ立っている坊っちゃんと目があった。 「そんなところで何をなさっているの? 調べものですか」 「いや、その」 坊っちゃんは 珍しく 歯切れ悪く言った。 なんとなく顔が赤い。 「すみません。 お邪魔でしたわね。 すぐにどきますから」 私は立ち上がるとドアの方へ向かった。 外に出ようとして坊っちゃんに捕まった。 「芝居は好きかね」 坊ちゃんの言葉に唖然とした。 「好きですけれどあまり行ったことはありませんわ」 なにせ貧乏育ちだ。 「明日見に行こう」 私はまた唖然とした。坊ちゃん私を誘うとは! 「明日は何かあるのかい」 「いえ何も 」 「では決まりだ」 坊っちゃんは言うだけ言って去っていった 。図書室に用事があったのではないだろうか。私は首を傾げた。 夕食後 坊ちゃんはやることがあるから先におやすみと言った。私は更に驚いた。そんなことをいちいち言うような人ではなかった。一体今日は何があったというのだろう。顔が赤かったようだが、熱でもあったのだろうか。 私は驚きのあまりか、妙にどきどきして眠れなかった。私がたかだか芝居に行くくらいでねむれないなんて! 本に出てくる初デート前夜の少女のようだ。 坊っちゃんとしてもどうかしているが、私も今夜はどうもおかしい。坊っちゃんはともかく、私は平熱のはずなのだが。 数年後、あのときの君の本を読む姿があまりにも美しくて誘ったという信じられない言葉を聞くことになるとは夢にも思わなかった
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