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一 鹿鳴館の夜
「松子。窓辺の葡萄酒の金髪は向こうなんと申しておるのだ」
「増田の旦那様はなかなかお強いと申されています」
「左様か。フハハハ」
大正時代、東京、洋館鹿鳴館の優雅な宴。財界の大物や上流階級たちが集う華やかな会。この男、政府御用達、専売砂糖業、増田屋。その名を増糖商事といった。
この社長、増田勘兵衛は紋付き着物の正装で笑みを見せた。実業家でもある彼、隣にいたドレス姿の増田松子。彼女は母親違いで歳差が四十もある妹。彼女はそっと目を伏せた。一緒にいれば父と娘に見えてしまう兄妹。父親が同じ二人はどこか似ていた。
外国人も参加しているパーティー。彼らには通訳がいるがこちらにはいない。しかし松子は外国語ができる。この夜も外国人の本音のおしゃべりを異母兄に秘かに告げていた。
「他にはなんと申しておるのだ」
「……おじ様とお話ししたいようです。今、話しかけてきます」
「二人いるが、偉いのはどっちだ」
「お背の高い、口髭の方です」
松子が言い終わらないうちに向こうの通訳が声をかけてきた。ここは商談の話。日常会話程度の語学の松子。さらに彼女が外国語が理解できるのは秘密。松子はそっと勘兵衛の背後に立ち、そっと会話を聞いていた。しかし、心は窓の外だった。
……月が綺麗だわ。
夏の終わりの夜風。ほんのりの月明かり。人に疲れた松子。ただの付き添いの松子。今宵も異母兄の仕事のため夜の宴で楽しむことなく通訳の仕事をこなしていた。
その時。パーティー会場の壁にて。杖を持った老人の男性が疲れている顔が見えた。
……立食だから。お疲れなんだわ。
周囲の人が椅子を進めるが、拒む老人。明治生まれの男性のプライドに関わるのであろう。松子。頑固に一人で立っている彼がどこか亡き父に似ていたため、そっと近づいた。
……立っているのがお辛そう……それに、私も疲れたし。
「あの、旦那様。恐れ入ります。ご一緒に隣の部屋で絵画をご覧になりませんか」
「わしか?」
「はい。私、一人では心細くて」
「絵画か、ではわしも観てみようか」
こうして老人を誘った松子。隣の部屋にやってきた。絵画が飾ってある部屋。松子。ここを通った給仕に小声で頼み、老人と何気なく絵画を見上げていた。
すると給仕がやってきた。
「お客様。よろしければこちらにどうぞ」
並べてくれた椅子、松子、微笑んだ。
「ありがとうございます。さ、座ってゆっくり見ましょう」
「……そうじゃな」
椅子を用意してもらった松子。この頑固老人と一緒に座り、絵を見ていた。この部屋には二人しかおらず、静かだった。
「しかし。人を呼んでおいて立食とは。異国の会は失礼じゃな」
「文化の違いでしょうね」
「ははは。それもそうじゃな」
頑固老人。松子と笑った。二人は絵を見ていた。
「なんじゃ、この絵は」
「……ゴッホの『ひまわり』とありますね」
「わしはこんなの絵とは認めんぞ」
「ふふ」
二人は静かな部屋で美術鑑賞をしていた。
「どれも有名な絵ですけど。実は日本の浮世絵が世界では大変な評価を得ているんですよ」
「浮世絵が?なぜに」
江戸時代の庶民のチラシの程度の価値のもの。松子、美術品を眺めながら話した。
「江戸時代。日本は西洋に陶器を輸出しましたよね?その時、割れないように古い浮世絵で包んで送ったのはご存知ですか」
「ああ。割れてしまうからの」
「この時、西洋の人はびっくりしてんですって。こんな綺麗な絵を包み紙に使用するなんて。そこで西洋の人はこの包み紙だった浮世絵を集めているんですよ」
「浮世絵を?あれは版画なのに」
「ええ。この西洋の絵『ひまわり』にも、影響を与えたと聞いています」
「これに?」
「ふふふ」
この時。部屋に外国人が入ってきた。
「Is this Mr イチジョウ?(ここにミスター一条はいませんか?)」
「あの。一条さんはいませんか、とっ仰っていますけど」
「わしじゃ!何用じゃ?」
彼の側近が探していると外国人は言った。松子、老人を連れ出したことを英語で詫びた。
「Oh!I'm sorry。一条様。みなさんの元に戻りましょう」
「ああ。それにしても。お前さんは英語はできるのかね」
「……挨拶程度です。さあ、参りましょう」
誤魔化した松子。廊下に一条老人と出た。そこには老人の側近が慌てていた。
「大旦那様!先ほどから探してましたよ」
「うるさい。ちょっと休憩しておったのだ。この娘さんと」
松子、咄嗟に謝った。
「申し訳ありません。私がお誘いしてしまって。どうぞお許しくださいませ。それでは」
松子、名乗らずに頭を下げて廊下を去った。老人、じっと見ていた。
「おい」
「はい。帰りましょう」
「違う!あの娘の正体を確認して参れ!早う早う!」
「は、はい」
黄色いドレスの娘。一条建設の大御所、鋭い目で見つめていた。
◇◇◇
そして翌朝。増田の屋敷。朝顔よりも早くに起きて朝ごはんの支度をした。早朝の水は冷たく。米を研ぐ手は真っ赤だった。ここに使用人のお千代がやってきた。
「松子様。昨夜は遅かったのですから。今朝は私がやります」
「いいのよ。お千代。これは私の仕事だから」
老齢の使用人は昨夜の遅い帰宅の松子を案じた。しかし松子、今朝もいつも通りの仕事をこなしていた。そこに勘兵衛の妻が起きてきた。割烹着の松子、頭を下げた。
「奥様。おはようございます」
「松子。玄関の前を掃除したの?落ち葉が落ちているじゃないの」
「申し訳ございません」
「言い訳にならないわよ、昨夜遅くなったのは」
落葉の季節。庭の落ち葉が舞うこの時期。彼女は冷たく言い放った。
砂糖商、増糖商事。当主、増田勘兵衛、五十八歳。その妻、キイ。娘は梅子である。
勘兵衛の亡父、惣兵衛。彼が若い愛人に産ませたのが松子。奇しくも松子と梅子は同じ十八歳である。
この松子。生みの母と東京の下町、花街で育った。そこには異国人の屋敷も近く、松子は幼い頃から外国人の子供と遊び、語学に長けていた。そんな母が若くして亡くなり、十歳で松子は増田家に引き取られた。
それは親族としてではなく、使用人としての事。勘兵衛にしてみれば、腹違いの妹の松子は惣兵衛亡き後、多額の遺産を相続している。彼は未成年の異母妹の財産を預かる理由で管理し、時には運営に使用していた。
この松子。勘兵衛にしてみれば老父の勝手さから生まれ、母を精神的に苦しめた妹。初めは憎かった勘兵衛であるが、両親が没した今。その品の良さは祖母に似て。その頭脳、父に似て。その美しさは彼女の母親に似て。他に兄妹がいない勘兵衛。娘とはまた違った思いで松子を手元に置いていた。
日頃は家事をさせているが、外国人がいる会には優秀で美麗な松子を伴うことがあった。
「そして?梅子は起きたのかしら」
「まだです」
「まあ、いいわ?ふわ」
そんな話の中。勘兵衛が起きてきた。松子もキイも頭を下げた。
「おはようございます、おじ様」
「おはようございます。どうぞ新聞です」
「うむ」
キイが渡した新聞。勘兵衛は受け取り火鉢の前に座った。
「ん?梅子はどうした」
「あの、その。まだで」
「私よりも遅いとはなんだ?けしからん!」
怒り出した勘兵衛。キイはオロオロした。
「昨夜遅かった松子がここにおるのに。梅子はいかがした!?」
不機嫌な勘兵衛。松子は気にせずお茶を出した。
「おじ様。日章銀行からお手紙が届いていましたが」
「なんだと?持ってこい、松子」
「はい」
我ままな梅子のことで朝から怒っている勘兵衛。松子、ハサミを持って手紙を持ってきた。
「こちらでございます」
「いい。開けてくれ」
「はい」
こうして渡した時にはもう、勘兵衛が梅子のことを忘れているようだった。
やがて梅子も起きてきた。三人は食べ始めた。その間、松子は給仕を使用人に任せて洗濯に回った。
……はあ、もう秋、か。
女学校を出てから実家の手伝いの松子。できれば自立して家を出たかったが、勘兵衛がそれを許さない。反してわがまま梅子は習い事の日々。一人娘の彼女は嫁入り支度を進めていた。本家の梅子が結婚するのは先。なんでも一番の梅子よりも先などあり得ないのである。
松子、女らしい支度もしてもらえず家事ばかりの日々を送る十八の娘時代。
落ち葉の庭の世界。松子、ただひたすら、箒を持っていた。
◇◇◇
そんなある秋の日。増田の屋敷にて亡くなった先代社長の法事が行われることになった。たくさんの親戚が来る席。屋敷は支度に追われていた。
「松子!床の間の生け花はまだなの?!」
「はい、ただいま」
「その前に。仕出しのお料理の手配はしたんでしょうね」
「はい。おば様、あの、こちらの名簿の人数に変更はありませんか」
松子、参加者の名簿を見せた。キイはちらと見て突っ返した。
「これでいいわよ」
「わかりました。この人数でご用意します」
口を出すだけで自分は何もしないキイ。松子は乳母のお千代と一緒に支度を進めていた。
「松子お嬢様。この名簿には紫夫人がいらっしゃいませんね」
「そうなんですよ」
紫夫人とは増田家の親戚の大御所の老婆。いつも紫の着物を着ているので自らそう名乗っている彼女。なぜか名簿になかった。
「紫のおば様がお越しにならないなんて、ご病気かしら」
「……お年ですからね」
名簿にない彼女。松子は気にしていたが、当日を迎えた。
「どうも。奥の座敷へどうぞ、どうぞ」
出迎える本家の勘兵衛。隣には妻のキイ。そして梅子。松子は割烹着姿でひたすら仕事をしていた。
その時、廊下に声が響いた。
「勘兵衛、元気そうね」
「紫さん?!今日は、欠席のはずでは」
「何を言っているの?私はちゃんと電話でお伝えしましたよ」
「そ、そうですか」
気難しい紫夫人。勘兵衛は慌ててキイに彼女の席を用意させた。
……全く。誰よ。電話で聞いたのは。
立腹のまま廊下を歩いたキイ。そこにいた梅子にこの話をした。
「あ?それは私だわ」
「え」
「お母様に言ってなかったかしら。不参加のお手紙を出したけど、やっぱり行くって電話が来ていたわ」
「梅子……」
ここで責めても仕方ない。キイは松子に急いで席を用意させた。
「粗相の無いようにね」
「はい」
松子。並べていた座布団を思案した。
並び方には上座と下座がある。紫夫人はもちろん上座になる。しかし、この急な変更で、困ったことになった。
……紫夫人を一番上に座っていただくと、ずれた人が後方になってしまうわ。
部屋の配置により横並び。床の間に向かって前列が上座、その後ろ列がまだ上座であるが、二列目で上座扱いだった人が、夫人の加入により三列目になってしまう。松子は誰にどこに座ってもらうか、困っていた。
その時。二列目に座る予定である女性で、腰の曲がった人を見つけた。
「あの。奥様」
「あら。松子さん、すっかり大人になったわね」
優しい親戚の老婆。松子の出生を知っているが、優しい笑みを見せてくれた。
「恐れ入りますが、本日の正座はどうですか?良ければ椅子を用意します」
「……そうしたいけど、行儀が悪いでしょう」
腰や足が痛い彼女、椅子にしたいが、そうもいかないとこぼした。そこで松子。他にも椅子がいい人を探した。一人よりも数人なら平気な雰囲気。
こうして松子。椅子が良い人を三人発見した。本来、この三人は上座。しかし一番後ろに椅子を出して欲しいと申し出てくれた。松子は勘兵衛に断りを入れ、和室の部屋の奥に椅子を置いた。
そして。速やかに法事が行われた。
読経の間。松子は椅子席の三人の横に介助のため正座していた。本来は松子とて上座のはず。しかし、微妙な立場。この日は介助の言い訳で下座にいた。
……でも。ここの方が心地いいな。
松子の配慮で椅子になった三人。親戚に会いたくて痛い体を押してきた老人達である。法事の席ではあるが、三人は縁者に会えて楽しそうだった。
「お松や。ありがとうね」
「一人では恥ずかしいけど、私達は歳だから仕方ないもんね」
「痛み止めを飲んできたんだけど。助かったよ」
「皆様。どうぞ、無理せず、何でも仰ってくださいね」
読経が済んだ席、今度は食事になる。松子は三人に声をかけて食事の支度に取り掛かった。
「松子。ちょっと」
「はい?」
キイ。静かに尋ねてきた。それは紫夫人の食事の件だった。
「支度はあるのでしょうね」
「はい、問題ありません」
自分の分を譲った松子。キイにそう返事をした、
「そう。じゃ、よろしく」
自分は親戚と酒を交わして話をしているキイ。梅子もまた同年代の従姉妹とおしゃべりに興じていた。そんな中、松子は食事を乗せたお膳を運んでいた。
「まあ。お松も座って食べなさいよ」
「はい。支度が済んだらいただきますね」
気にしている親戚に笑顔で答えたが松子の分はない。そんな配膳をしているうちに食事の時間は終わって行った。
食事が済んだ席、酒も進んだが、ここで松子は熱いお茶を配り出した。
「どうぞ。紫のおば様」
「松子や。今日の席、大義であったな」
冷遇されている松子を知る紫夫人。まるで使用人の如くの松子がこの場を取り仕切っていること。紫の慧眼はそれを見抜いていた。しかし、松子は謙遜した。
「いいえ。私などとんでもないことです。紫夫人がお元気そうでよかったです」
松子、そっと熱いお茶を彼女に出した。受け取った紫。大口でお喋りをしている梅子を眺めていた。
「それにしてものう。お前は家にいてばかりで退屈であろう。松子、私の屋敷に来ぬか?」
「おば様の?」
急な申し出。そばにいた勘兵衛、飲んでいた酒をおちょこを置いた。
「ま、松子は向こうに行け。紫さん。松子は私の妹です。困りますよ」
焦る勘兵衛。紫はふっと笑った。
「何を申す。妹であればお主の隣に座るべきであろう」
「そ、それは」
動揺する勘兵衛。紫、ため息をついた。
「おお嘆かわしい?亡くなった惣兵衛殿が今の松子を見たら。何というであろうな。して、松子の縁談はいかがするのじゃ」
「……そ、それは」
どもる勘兵衛。紫の冷たい目の前に俯いた。
「まだ。それは」
「勘兵衛。早く松子を嫁に出せ。そしてあの娘に婿を取れ。このままでは松子が不憫で見ておられぬ」
「それはもう。私とて考えておりまする」
「……ならば良いが」
ここにキイが入ってきた。
「紫様。松子はうちの娘ですので、ご心配なく」
「娘?ふ」
紫、ここで笑った。
「ばかな?お前の娘は、あそこでだらしなく喋っておるのがそうであろう。松子はキイの娘ではないぞ」
紫。ここで扇子で仰ぎ出した。
「勘兵衛よ。お前の気持ちもわかるが、お松は先代の娘でお前の妹だ。私とて先代の惣兵衛殿には世話になった。お松の待遇がこれ以上何かあれば、私も黙っておれぬ」
「は、はい」
「松子に何かあれば私の屋敷に引き取る。良いな」
「はい」
こうして法事は済んだ。
◇◇◇
その後。勘兵衛は大きな商談のため大陸へ出かけていった。数ヶ月帰らないこの屋敷。代わりの主人であるキイ。大きな顔で屋敷を仕切っていた。
そんなある日のことだった。松子、洗濯の途中、居間にキイに呼ばれた。
「お呼びでございますか?」
「ええ。お前に縁談ですよ」
「私に縁談ですか?」
「ああ。ここに行きなさい」
「でも、あの」
火鉢の前。キセルを吸うキイ。その目はどこか笑っていた。
「遠慮しなくていいのよ。旦那様は梅子が先だと言っているけれど、私にすればお前が邪魔なのよ」
「邪魔」
「ええ。私にはお前は使用人ですけど。世間体にはお前は梅子のおばよ。そんなお前を先に嫁に出さないなんて。ご近所さんが何を言うかわからないもの」
この席に梅子がやってきた。粗末な紬の着物の松子に反し、梅子のなんと見事な絞りの振袖。これは梅子が家事などを一切しない証拠。紅を挿した梅子、微笑んだ。
「お松。喜びなさい。お前に初めて結婚の申し出があったのよ」
「私に?」
恐ろしいほど上機嫌。松子は不吉な予感がしていた。
「喜びなさい。お前になんか一度も見合いの話が来なかったのに。今回、初めて来たのよ?良かったわね」
「まったくだよ。お前に縁談なんて。相手の人は何を考えているのかしらね」
二人の嬉しそうな顔、松子、震える思いだった。確かに縁談が来るのは全て梅子を所望するもの。自分のような娘に見合いの申し込みなどない、と勘兵衛に言われていた。
「で、でも。おじ様にお伺いを立てないと」
「旦那様が今は大陸に行っているのはお前も知っているだろう」
「ふふふ。だからお前にこうして結婚を進めているじゃないの」
勘兵衛が長期の留守の屋敷。キイは嬉しそうに笑った。
「お前で良いなんて、どうかしている相手だよ?でもね、今のお前になんか選ぶ権利などないだろうよ」
「そうよ。話があるだけありがたいと思いなさい」
「は、はい」
確かにそう。松子は胸の鼓動を抑えて二人を見つめていた。
……きっと、前から計画していたんだわ。
自分が嫁に行くのはずっと先。いや、嫁に出してもらえないとさえ思っていた松子。突然の話に頭が真っ白になっていた。
「いいから。さっさと荷物をまとめて行ってきなさいよ」
「そうよ!今まで育ててくれただけでも感謝しなさいよ」
勘兵衛が留守時。しかも大陸に船で行ったのなら数ヶ月帰らない。キイと梅子はこれを利用し、松子を追い出すことにしたのだった。
……これは、従うしかないわ。
逆らえない。松子は覚悟を決めた。
「わかりました。今までありがとうございました」
「あら?聞き分けがいいこと」
「今すぐよ!もうお前の顔など見たくないんだから!」
キイと梅子に頭を下げた松子。居間を後にした。そして自室で身支度をしていた。その部屋の戸の向こう。小さな足音が近づいていた。
「失礼します松子様。ご結婚で出て行くとは、本当ですか」
襖を開けた白髪の使用人。その顔、血の気が引いていた。
「お千代。今までありがとうね」
「そんな?松子様……」
老齢の使用人。大粒の涙を袂で拭いた。
「なりませぬ。松子様はここにいる権利がございます」
「もういいのよ」
「なぜでございますか?今までは、そうやって、辛抱されていたではございませんか」
十歳で引き取られて以来、虐められていた松子。これに刃向かわずじっと耐えていた娘。しかし、今回は出て行くという。お千代は松子を引き止めた。
「どうか。どうかお考え直しを」
「お千代。私は、このままでは旦那様にはお嫁に出してもらえないと思うの」
「松子様……」
勘兵衛にとって松子は腹違いの妹。自分が嫌なら嫁に出せば良いのにと松子は思っていた。しかし、最近の勘兵衛は梅子の結婚を気にしていた。その相手は松子の目から見ても婿養子候補ではなく、嫁に出す相手としてである。
理由は定かではないが、勘兵衛は梅子を嫁に出し、自分を一生、この屋敷で奴隷のようにこき使おうとしているように思えていた。
この推理。松子、そこまではお千代に言わなかった。
「それに。梅子様もそろそろお婿さんをもらうはず。私はこの家にいない方が良いわ」
「それはそうですが、でも。旦那様のお留守に。こんな事になるなんて。松子様があんまりで」
涙を流すお千代。松子、微笑んだ。
「……お千代。ありがとう」
そして松子は荷造りをした。恥ずかしいほど何もない身の回りの品。持っていた一張羅の着物、これは勘兵衛がくれた仕事向きの着物。松子への愛でも義理でも何でもない。仕事でそばに立つ自分の見栄のためである。この桃色の小紋に袖を通した。お千代は悲しい顔でこれを手伝った。
「まさかこんな事が。許されません、決して」
「泣かないでお千代。もしも何かが遭っても。私は仕事を見つけるから。心配しないで」
「ああ、どうぞ。どうぞ……お千代は松子様を思っております」
東の日差しが眩しい鏡の前、美しくきりりと帯を締めた松子。最後にキイと梅子に挨拶をした。
キイ、封筒を投げつけた。
「それがお前の相手だ。せいぜい頑張りな!」
「待って。お母様。その前に松子。その風呂敷をお見せ」
「これですか」
梅子。松子の風呂敷を畳の上に広げさせた。その中。母の形見の櫛、着替えの着物、裁縫道具、割烹着。その古い。これに梅子は片眉を上げた。
「置いて行け、その櫛は」
「こ、これは母の形見です」
高価なものではない。古いつげの櫛。これを梅子は指した。
「それを買ったのは惣兵衛お爺さまでしょう?お金は家が出したのよ」
「いいから置いて行きなさい。松子」
「お許しください。どうか」
亡き母の形見の品はとっくにこの母娘に焼かれていた。しかし、その火の中で残っていた唯一の櫛。松子の母の思い出はこれだけだった。
土下座の松子。するとこの櫛、梅子が足で踏もうとした。
「この」
「お願いです!」
咄嗟に松子。守ろうと足の下に手を入れた。
「お許しください。これだけは」
母親の思い出はたったこれだけ。これを置いていけという梅子の顔。鬼だった。
「しつこいわね!この!この」
「く……」
梅子。どんどんと松子の手を足で踏み続けた。松子、櫛を必死で守った。
「この!こいつ!お前なんか、お前なんか!」
「お許しください……」
鬼の形相の梅子。これをキイは冷ややかに見ていたが、梅子に踏ませたままにした。
「おお嫌だ?卑しい身分のくせに」
キイ。火鉢に向かった。そして真っ赤になった火かき棒を取り出した。
「奥様?……な、何を」
嬉しそうな寄り目のキイ。松子、息を呑んだ。
「悪い手には、お仕置きだよ」
「う!?あ、ああああ……」
松子の白い手。真っ赤な棒をジュッと一瞬、刺した。この痛みに歪みながら櫛を胸に抱いた松子の顔。部屋の隅。青い顔、痛さを堪えて俯く松子、母娘は微笑んだ。
「おお?さすがの松子も苦しいか?」
「お母様。梅子は許せないわ。お松、それをお寄越し!さあ、さあ」
ジリジリ追い詰める梅子。松子、思わず土下座をした。
「申し訳ございません。どうか、お許しください」
「……ふん!出来損ないが!こいつ!こいつめ」
松子を足蹴にする梅子。その髪は乱れ、息も上がった。キイはここで止めた。
「梅子。お止め。それ以上では家から出せなくなる。松子。出ていきなさい」
松子。髪は乱れ唇は切れ、腕からは血が出ていた。そんな松子、正座で頭を下げた。
「……今まで……お世話になりました」
そう言った松子。風呂敷を握った。そして櫛を抱き廊下を歩いた。廊下には松を慕う丁稚奉公の若い使用人達が涙を流しながら立っていた。
「松子様」
「みんな。ありがとう」
「お嬢様。どうぞ、達者で」
「いいのよ。みんなが叱られるわ」
そう言って松子は勝手口から出て行った。思えば幼少時、やって来た時もこの裏口だった。そんなことを思いながら松子、柳が揺れる川沿いの秋の表通りを歩いていた。
「松子様!」
「お千代……」
「ああ、ひどい火傷を」
この惨事を見ていた千代。勝手口からそっと屋敷から松子を追ってきた。そして屋敷から離れた小川にて手を冷やした。
「痛みはいかがですか」
「もういいわ。帰らないと、お千代が叱られるわ」
「それはいいのです。そして。縁談相手はどなたなのですか」
二人。柳の下。縁談相手の資料を確認した。お千代が見ると封された袋。その表書きには相手の名前と住所が記してあった。
「一条淳之介様。この一条家と言えば、建築関係でございますね」
「そうなの?」
「きっと、この中に写真ありますよ」
開封を進める千代。しかし、松子は首を横に振った。
「いいえ、このままでいいの」
「しかし」
「お千代。今の私に殿方を選ぶ権利などないし。それにこんな外でお顔を拝見するの失礼ですもの」
写真在中の文字。松子、この封筒を風呂敷にしまった。お千代、ため息をついた。
「良いのですか?ご覧にならずに」
「ええ。では、行ってきます」
まだ痛い痛しい手。ここに晒しをまいた松子。痛みを堪えて立ち上がった。この時、千代、着物の袂に封筒を押し込んだ。
「これは?」
「亡くなった惣兵衛様から預かっていたお金です。あなた様に何か遭った時、渡してくれと、言われていました」
分厚い封筒の感じ。松子、驚いた。
「でも」
「お金はまだあるんです。ですが、大金をそんなに持たせられません。何か遭ったら、電報でこの柳の下にお千代を呼んで下さい」
「お千代」
お千代、流れる涙をそのままに見つめた。
「松子様。どうぞ。お気をつけて。千代に、文をくださいませね」
「ええ。お千代。行ってくるわね」
お千代に心配をかけないように松子、笑みを見せた。こうして松子。バスを乗り継ぎ一条家の住所にやってきた。
◇◇◇
……ここだわ。大きな洋風のお屋敷。
松子の家は幕府時代からの砂糖の老舗。この一条家は建築関係とあって、流行りの洋風の建物だった。正門から洋館への小道を進んだ松子。玄関をノックし、家人を尋ねた。
「恐れ入ります。私は増糖商事。増田勘兵衛の家の娘でございます」
「増糖商事のお嬢様」
「はい。縁談の件で伺いました」
「少々お待ちくださいませ」
品の良さそうな中年使用人。あわてて奥に引っ込んだ。松子、玄関にぽつと立っていた。
そして。松子を客間に通してくれた。しかし、使用人の困った顔。松子、不安になった。
豪華な客間。素敵な洋食器。出された紅茶を見ていた時、部屋のドアが開いた。
風のように入ってきた青年。松子を見ずに憮然とした顔をそのままに窓辺に向かった。
そして背を向けたまま話だした。
「いきなり何なんだ。縁談とは」
「恐れ入ります。私、こちらに参るように言われた、増田と申します」
「断ったはずだ、それは」
「え」
彼は松子の顔も見ず窓辺に立ち、背を向けた。藍色の着物。品よくスッと姿勢が綺麗だった。背が高い広い背中。どこか武道をしているような逞しい身体だった。
「というよりも。私は全ての縁談を断っておるのだ」
彼はそういうと頭をかいた。
「それはそちらの家柄とか君にせいではなく、私の都合だ」
……そうか、だから。私の顔を見ないようにしているのね。
縁談の相手に失礼な態度の彼。これは松子の家柄や容姿のせいではなく、自分の都合で断りたいための彼なりの誠意と受け取り、その背を見ていた。
「そう、ですか」
……やっぱり。おば様の話は違ったんだわ。
「ああ。現在、私は、非常に重要な仕事を仰せ使っている。ゆえに結婚などは考えておらぬのだ」
……忙しいのね。それに真面目なんだわ。
すっかり信じた自分が愚かだった。松子、彼に謝ろうとした時、彼は冷たく言い放った。
「女子の君は、この家に嫁に来れば贅沢ができると思ったのかもしれないが、私にすれば迷惑な話だ」
「え」
イライラとした怒った声、松子、胸が真っ白になった。
「時間が貴重なのに。君とこの話している時間さえ、惜しいくらいだよ」
なんという冷たい言葉。松子。胸が締め付けられる気がした。自分の訪問が彼には迷惑だったとやっと理解した。
……そうよね。この人には何の関係もないもの。
彼に対して松子、心苦しくなった。
「……申し訳ありませんでした。お忙しい中、突然押しかけてしまって」
背を向けたまま頭をかく彼。その広い背に松子、痛めた胸を抑え平謝りをした。
思い返せば。キイと梅子の持ってきた見合い話である。すでに断られた見合いに自分を行かせた可能性がある。むしろこの一条に心底申し訳なくなっていた。
……それにこの方の言う通りかもしれない。私は増田の家から逃げたかっただけで、この人に甘えようとしていたんだわ。
彼の理論にはっとした松子。悲しい心を諫めた。
「こちらの勘違いです。一条様、どうぞ、ご無礼をお許し下さいませ」
「ご理解いただけて、何よりだ」
必死に押し殺した涙声。松子、スッと立ち上がりやっと深呼吸をした。
「こちらこそ。お忙しいところご面倒をお掛けしました」
松子。再度、彼の背に頭を下げた松子。縁談の二人、互いの顔を見ることなく部屋を出た。
……ああ、私はなんという失礼なことをしようとしたのかしら。
この家に嫁げば今よりも幸せかもしれない。そんな甘い思いを一瞬でも思ってしまった松子。その思いを悔やんだ。
そして涙を拭うとその廊下では中年使用人がハラハラ顔。松子、彼女の心境を思い、笑顔を作り会釈した。
「お紅茶。ごちそう様でした」
松子の悲しそうな顔。乳母、それ以上に悲しい顔になった。
「申し訳ございません。私は乳母でございます。坊っちゃまが大変失礼な態度で」
「いいえ。私がいけないんです、あ、そうだ、これをお返します」
「これですか」
松子、封筒を使用人に渡した。
「個人の情報が書いてありますものね。一条様にお返しします」
「は、はい」
一条の態度をまだ気にしている様子の乳母。確かに増糖商事の令嬢に対しては有り得ない態度だった。しかし、松子、彼女のために本音を打ち明けた。
「あの、私、一条様のお返事に納得しておりますので、ご安心下さいませ」
「そうですか」
「はい。仕事に邁進されておいでなんですもの。殿方として、とても立派で、誠に真摯な志と思いました」
松子。玄関で草履を履いた。乳母、ごくと息を呑んだ。
「本当に押しかけてしまってすいません。どうぞ私のことはお気になさらないでください。一条様のお仕事の成功、お祈りしております。それでは……ご機嫌よう」
松子。頭を下げて一条の家を出て行った。心細げな娘のその真っ赤な目。乳母、慌てて頭を下げていた。
◇◇◇
「はあ」
素直に出て行った娘。淳之介、胸を撫で下ろした。父が盛んに勧める見合い。今は仕事でそれに構っていられない彼。今日は休暇でたまたま実家にいた彼、ここに断ったはずの縁談相手が来てどこか苛立っていた。
「全く。休暇だと言うのに、失礼な話よ」
「坊っちゃま。お嬢様からこれをお預かりしました」
「はあ?中身は、書類か」
乳母が持ってきた封筒、見るとそれは自分の見合い用の資料だった。大きな文字は一条の祖父の書。淳之介、手が止まった
「なんだ。これは開封しておらぬのか」
「そのようですね」
「どう言うことだ?見ておらぬと言うことは」
淳之介。断るために相手を知ろうと自分に来た見合いの資料は目を通してはいた。しかし、今の娘、自分という男を知らずにやってきたという証。これの意味を彼は模索していた。
……誰でも良かったのか?しかし、素直に出て行ったし。
部屋着である藍色の着物。これの袂に手を入れて、淳之介、思考した。
「おい。今の娘の見合い資料はあるか」
「お待ち下さい」
待っている間。彼は彼女が座っていたソファを見ていた。娘の顔を見ていなかった。どんな娘なのか、知らない淳之介。ここに乳母、あわてて資料を持ってきた。
「坊っちゃま。おそらくこれだと」
「増糖商事。ああ、これか」
淳之介、読んだ。そこに書かれていた文字。やはり一条の祖父の筆跡だった。
「何だこれは?全てお祖父様ではないか」
淳之介の今までのお見合いは全て娘側からの申し込み。なのにこれだけは一条の祖父の薦めの様子。淳之介、眉を潜めた。
「思い出しました!そうです。大旦那様のお薦めでした」
乳母の声の中、淳之介の秘書の日向が客間に入ってきた。買い物に行っていた彼、淳之介の顔を見つめた。
「どうされました?大声で」
「日向。これを知っているか」
淳之介のお付きの日向。親の代から一条家に仕えている。彼と同世代の日向、思案した。
「……増糖商事、令嬢……ああ、娘の件ですか」
一条家の内情を知る日向。この見合いの経緯を説明しようと椅子に座った。
「これは。鹿鳴館でお会いした増糖商事のお嬢様を大旦那様が気に入った話ですね」
「どう言うことだ」
「興奮なさらずに?このお嬢様は、鹿鳴館のパーティーで大旦那様にそれは親切にしてくださった娘さんなんですよ」
日向。大旦那の話をした。絵画を一緒に観ようと誘った優しさの話。淳之介、眉を顰めて聞いていた。気難しい祖父の珍しい話、耳を傾けた。
「それで?」
「はい。調べてみると彼女は娘ではなく、増糖の社長の親戚とかで。夜の席ではいつも連れてくるんです。でも、増糖の社長は彼女をなかなか嫁に出さないことで有名なのです」
「なぜに?」
足を組んだ淳之介。その対面、日向、乳母が入れた紅茶を飲んだ。
「これは噂ですけど。最近の増糖さんの急成長は、彼女のおかげと言われてるんです」
「どういうことだ」
「増糖さんはいつもその娘を同席させて商談を成立させてまして。それで成功させているらしいんです。それを知った大旦那様がぜひ、淳様の嫁に欲しいと話を決めてしまったんですよ」
「話を決めた?聞いてないぞ」
呆れた様子。日向は続けた。
「話はここからです!増糖は一人娘さんで、この娘さんは同居している親戚娘。なので彼女を気に入った者が嫁に欲しいと言うと、彼女ではなく。娘の方をもらってくれと言われるんですよ」
「詳しいな」
日向。静かに肩を落とした。
「だって。その縁談の話をつけたのは私ですので」
「お前だったのか?」
「はい。大変でしたよ?でも、最初は増糖の社長も困惑していましたが、うちの大旦那様に負けて、淳之介様なら嫁に出しても良いとおっしゃって下さって」
淳之介、椅子に倒れるように座った。
「全然、聞いてないぞ。そんな話」
金目当てで来たんだろうと酷いことを言い、追い返してしまった淳之介。そんな貴重な娘が自分のために来てくれた心情に眉間に皺を寄せた。
「すいません。ですが、淳様が誰とも結婚をしないと言うので、旦那様が増田家に断りを入れたんです」
「……見合いではなく……決まっていた縁談なのか」
てっきり。お見合いの段階と思っていた淳之介。でもこの話は決まっていた話であり、今の娘は自分と結婚するつもりで来たんだと彼は知った。
「そうです。決まっていたんです。でもこの縁談を断ったと言って。うちの大旦那様がカンカンでしたが。それで、何か遭ったのですか?」
「来たんだ。今さっき。この娘が」
「え?……もしかして。道ですれ違った桃色の着物で、色白の娘さんかな」
顎に手を置いた日向。うんうんと乳母はうなづいた。
「でも。彼女は腕に包帯をして怪我をしていましたが」
「怪我?」
「ええ。本当に増田様でしたか」
淳之介、みるみる怒りで眉間に皺が寄った。そして乳母を見た。
「どう言うことだ」
「は、はい。こう、確かに右手をサラシで巻いていました。うっすら血が見えましたので、怪我をしたばかりかもしれませんね」
相手を見なかった淳之介。娘が怪我をしていたとは想定外。知っていたら手当てをするくらいしてやりたかった彼。背中に汗をかき出した。乳母は松子の別れの言葉を教えた。
「今の話を聞くと。確かに先程のお嬢様はお見合いではなく、手荷物も持っておいででしたので、この家に入るおつもりだったかも知れません」
「くそ」
驚きと戸惑っていた娘。乳母は態度に納得していた。
「坊っちゃまのお言葉に、少々、涙を拭いておいででしたが、帰る時には仕事に邁進している坊っちゃまは、その、殿方として立派だと、そして、ええと、自分のことは忘れて欲しい、と。そして、あ!お仕事の成功を祈っています、と頭を下げて帰られました」
嫁のつもりで来た娘。自分が意地悪を言ったのに。健気にそんな立派な言葉を残した娘。すっかり悪者の淳之介、悔しくて頭を振った。
「くそ!俺としたことが」
「……向こうが上手のようですね」
「うるさい」
日向の言葉に髪をかき上げる淳之介。娘を知りたくなった。そして書類を広げた。
「おい、この資料には写真がないぞ?日向、これはどう言うことだ」
「娘さんの写真はいただけなかったんです。増糖さんは気乗りしない縁談話でしたから」
「坊っちゃま。お嬢様は清楚な方でしたよ。まだ幼なげでしたが、お綺麗な人でした」
「……怪我をした娘を、そのまま帰すなど、なんてことだ」
頭を抱えた淳之介。日向、ちらと時計を見た。
「そろそろお仕事の時間です。それに、どうせ断る話。向こうも納得されたのでしょう?」
「あ、ああ」
「では問題ありませんよ」
「ま、なあな」
こうして淳之介。着替えて仕事場に向かった。
……くそ。なぜ私が苦しまねばならぬのだ。
金目当てでやって来たと思い娘の顔も見なかった淳之介。その澄んだ声、柔らかい話し方。印象はそれだけだった。
誰も見合いできぬ貴重な娘。堅物の祖父が勧めた娘。それなのに自分の資料も見ずに来てくれた今の出来事。腕の怪我はどうなのであろう。なぜ自分に嫁に来ようとしてくれたのだろう。自分の冷たい態度、どんなに傷つけてしまったのだろう。
……しっかりしろ!俺は仕事をするために断ったんじゃないのか。
自分を叱咤する淳之介。落ち葉の道を馬で疾走していた。まるで嫌なことを払拭するかのよにイチョウを吹き飛ばしていた。
一話 完
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