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6 グレイスの覚悟
トイレでの一件の後、グレイスは教室の方向へ戻って行った。顔色はまだ悪かったが、もうふらついてはいなかった。
Ωよりは軽いが、αにも発情期がある。清月もαの時に何度か経験したが、一人で性欲処理をするだけで済んでいた。中にはどうしても他人と性交しないと収まらない人もいると聞くが、グレイスもそれで具合が悪かったのだろうか。
……いや、でも。
その時、蘇った言葉の数々があった。
ーーただし、一度は必ず配られたカードの性別にならなければならず、二度飲むと体に相当な負担がかかるため、挑戦した者はほとんどいない。
ーーアッフォード君は昨夜、もう一度薬を飲んでαになったんですよ。
そうだ。だからグレイスが具合が悪かったのはそのせいで、そこへ清月が強烈なフェロモンをチラつかせて近寄ったのならば、余計に負担がかかったのではないか。半ば流されるかたちで性交をしてしまったが、良かったのだろうか。
そして、いくらΩになったからとはいえ、なぜ自分はもっと嫌がらなかったのだろう。なぜあそこまで感じてしまったのだろう。
……いや、その答えはまだ出すべきではない。なぜなら、グレイスがどう思っているか分からないのもあるが、何よりもグレイスの体のことを考えるとそれどころではない。
思考が堂々巡りになりながら、タブレットでオンライン授業を受けていく。すると、3限目の生物の授業の中盤、教科担当兼担任の万城が獣人の事件について離し始めた。
「一昨日、獣人による殺人未遂事件が起きたのは知っているか。……いや、正しくは、強姦殺人未遂事件というのかもしれないが。知っている者は、手を上げてくれ」
教室内がざわつき、ちらほらと手を上げる生徒がいた。
清月は知らなかったために手を上げなかったが、内容は大方予想がついた。
「知らない人もいるようだから説明するが、一昨日の晩、一人の20代の男性が仕事から帰宅中に獣人に襲われた。事件の名前から想像がつくだろうが、無理やり犯され、そのまま興奮した獣人に食い殺されそうになった。幸いそこに通りかかった警官が発砲し、獣人を麻酔で眠らせて事なきを得たようだが、一歩間違えたらあの世行きだっただろう。しかし、重要なのはそこではない」
万城は一旦言葉を区切ると、教室中を見渡した。そして。
「その獣人が、明旺学園の卒業生だと分かった」
教室中がざわつき、不安気な声、好奇心を露にする声が飛び交う。
「静かに。私が言いたいのは、身近に獣人が潜んでいるかもしれないので、十分に気を付けてほしいということが一点。もう一点は、警察の取り調べが入るかもしれないので、慌てず、落ち着いて、冷静な判断で対応してほしいということだ。それから、生徒に聞き込みが入る時は、必ず我々教員を通すようにと伝えてあるので……」
それ以降の万城の説明はろくに頭に入ってこなかった。教室がざわついていたのもあるが、その話でなぜかあの時のことを思い出したからだ。
あの日は、グレイスの13歳の誕生日だった。
以前は毎年、グレイスと清月と大河の3人は、それぞれの家族と共に盛大な誕生日パーティーをしていた。大河がいなくなったことで、その年からはグレイスと清月の一家だけが揃ってパーティーをすることになり、学校帰りに庭でバーベキューを楽しんだ。
グレイスの一家は海外から移住してきたイギリス人で、金持ちでもあったのか家は大きく、パーティーをするにはうってつけだった。
その日も皆、グレイスの家に集まって談笑していたのだったが、日が落ちて月が顔を出し始めた頃、グレイスがトイレに行くと言ったきり戻って来なくなった。
「清月、グレイス君の様子を見て来てくれない?今日は満月だから、月見団子を今から出そうと思ってて」
静紅にそう言われ、分かったと返事をして家の中に入ると、外の賑やかさが一気に遠ざかった。
「グレイス……?」
薄暗い室内に、自分の声がやけに響く。明かりを点け、トイレがある方を覗いたが、グレイスの姿はない。
「グレイス?おい、どこだよ」
呼びかけながら2階に上がって行くと、グレイスの部屋がある方から息遣いのような音が聞こえ始めた。それも、酷く苦しそうな。
「グレイス……?」
そっと室内を覗き込むと、月明かりの差し込んだ部屋の中、グレイスの姿を見つけた。
なんだ、こんなところにいたのかと言いかけた言葉は消える。グレイスが蹲り、苦しそうにしていたからだ。
「グレイス!おい、大丈夫か?しっかりしろ!グレイス!!」
駆け寄り、慌てて背中を摩ったが、苦しそうなのは変わらなかった。その後すぐに両親の元へ行って知らせると、グレイスの元へ彼の両親が駆けつけ、パーティーは中断し、清月の一家は帰された。
グレイスが口を利いてくれなくなったのは、その後からだった。具体的に喧嘩をしたとか、そういう理由ならば仲直りをすればいいが、理由が分からないからこそ、理由を問い質す以外に方法はなかった。
けれど、清月が必死になって聞けば聞くほど、グレイスは頑なに口を閉ざしてしまい、結局ずっと分からないままだ。
あの日、グレイスの両親に帰るように言われてもその場に留まり、ずっと側に付き添っていたらよかったのかもしれない。あの日、ああしていれば、こうしていれば、と何度悔いたか分からない。
それでも過ぎてしまったことは変わらない。どうにもならない。それでも、それで済ませたくなくて。
物思いに沈んでいると、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
オンライン授業の時も教室にいる感覚で受けられるようにしてあるのか、映っているのはグレイスの後ろの席から見える景色だ。
グレイスが立ち上がり、どこかへ行くまでずっとその背中を見て、いなくなったと同時にタブレットを操作して映像を消した。
それから昼休みが始まるまでは様々なことを考えたせいか、ろくに授業に身が入らなかった。グレイスが言っていた話したいことについても想像を膨らませていると、いつの間にか4限目の授業も終わり、映像を消してじっと待つ。
落ち着かなくてスマートフォンの時間を何度も確かめ、部屋の外を行き来する生徒たちの声を耳にしては、今グレイスの声がしなかったかと思ったりした。
そして、それから5分程が過ぎた頃。ようやく部屋のドアをノックする音が響いた。
急いでドアを開けた途端、立っていたグレイスが、やや目元をきつくした。
「何?」
「……いや、不用心過ぎると思っただけだ」
「不用心?」
首を傾げると、グレイスは溜息をつき、ドアを後ろ手で閉め、いきなり清月を抱き寄せてきた。
「わっ、えっ……な、に……んっ……」
そして素早くキスまですると、至近距離で唸るように低く言う。
「ほら、こうやってすぐに襲われるだろ?」
「う……ん、そう、だな……」
頷きながらも、間近に綺麗な顔があるせいか落ち着かず、視線が泳ぐ。
「幸野?」
「……っ」
唇にグレイスの吐息がかかり、またキスをされると身構えて目を閉じたが、キスはされずに、頬を撫でられた。
「……?」
そろそろと目を開けると、グレイスが戸惑った顔をしていた。
「幸野、お前顔が赤いぞ。どうした」
「……な、んでも、ない」
添えられた手を払いのけると、そうかとだけ返される。
「それより、話って?」
勉強机の椅子に腰を下ろしながら聞くと、グレイスが床に座ろうとしたので、ベッドを指差す。
「そこ、座っていいよ。床は何も敷いてないし」
「ああ……。単刀直入に言う。俺と仮の番関係にならないか」
「え、仮……?」
「そうだ。お前のフェロモンが異常な時とか、互いの発情期の時は、やって、抑える。それから、お前が他のαとかに襲われそうな時は俺が助ける。その代わり、お前は俺以外のαと寝ないこと。間違って首を噛まれたらそれまでだからな。ただ、俺たちも本当の番にはならない。だから、仮」
「それって……グレイスにメリットあるのか?」
「あるな。大ありだ。知ってるだろうが、俺は2回薬を飲んだ。その弊害か発情期が安定しない上、普段から結構Ωの匂いに敏感になって、抑えるのが正直きつい」
「なら、俺の近くにいるのは相当きついんじゃ……」
申し訳なくなりながら聞くと、グレイスは苦笑いした。
「まあ、きつくないって言えば嘘になる。だから、さっきは抑えが効かなくなった。今さらだが、合意もなしに悪かった」
「いや、それは……俺も、嫌じゃ……じゃなくて、抑えられなかったし。それよりさ」
嫌じゃなかった、とうっかり漏らしかけたのを慌てて言い換える。そして、何より気になっていることを聞くためにグレイスの目を見る。
「……?」
「なんで急に、俺と口を利く気になったわけ?仮の番とかより前に、そこのところいい加減話してくれない?あと、なんで口を利いてくれなかったのかも」
「それは」
開け放った窓からざわりと風が吹き込む。カーテンの隙間から眩しい陽光が差し、目を細めた瞬間、グレイスの姿が一回り大きくなったような気がして息を呑む。
だが、瞬きをする一瞬の間に元の大きさになった。見間違いだったのだろう。
「……幸野を」
言葉を区切り、躊躇う素振りをした後。
「清月を守るためだ」
「俺を、守る……ため?それは、どういう……」
「それ以上は言えない」
目の前でシャッターを下ろすようにきっぱりと言い切られ、怯みそうになるが、引き下がれない。
「……んでだよ」
「幸野?」
また呼び方が戻ったことにも、さらなる苛立ちが込み上げた。
「口を利いてくれなくなった時も、俺がどんなに理由を聞いても教えてくれなくて。でも、最近は何かと助けてくれて、やっと口を利いてくれるようになったから、嫌われてなかったんだって嬉しかったのに。結局また隠し事して、しかも俺のためって意味分からない」
話しているうちに、苛立ちや悲しみが増し、説明のつかない胸苦しさも加わって涙が込み上げた。
「幸野」
すっと伸びてきた手を振り払おうとしたが、その手を掴まれ、強く引き寄せられた。
「はな……」
抱き込もうとする腕から逃れようとした拍子に、ベッドの縁に足を引っかけて後ろに倒れ込む。腕を掴んでいたグレイスも巻き込まれ、真上に覆い被さるように倒れた。
「っ……ん」
倒れた時にちょうどグレイスの鼻先が首筋に埋まるかたちになったのか、すん、と匂いを嗅がれる音がした。それに続いて、荒い呼吸音もし始める。
「グレ……っあ」
ぬるっと首筋を舐められる感触がして、まずい、と力の限り押し退けようとしたが、案の定力では勝てない。その間にも、グレイスは吸い付き、歯を立ててこようとする。
――その弊害か発情期が安定しない上、普段から結構Ωの匂いに敏感になって、抑えるのが正直きつい。
グレイスがつい今しがた言った台詞が蘇り、このまま衝動的に番にされては堪らないと叫ぶ。
「グレイスっ!!」
その途端、ぴたりとグレイスは動きを止め、顔を上げて清月の目を覗き込んでくる。その口元に牙が見えた気がして息を飲んだ時だった。
ノックをする音が響き、グレイスは素早い身のこなしで清月から離れ、ベッドの脇に立った。
「はい」
身を起こしながら返事すると、ドア越しにくぐもった声がした。
「牧田です。お話があるので開けてもらえますか?」
グレイスに目を向けると、ちらりと一瞬だけ清月を見たが、背を向けられた。
「今開けます」
できるだけ平常心を保ちながら応えて、ドアを開ける。するとドアの前には、牧田の後ろに万城の姿もあった。
「……あれ?」
後ろに下がって二人を中に入れようとした時、牧田が不思議そうに声を上げる。
「何ですか?」
「ちょっと失礼」
そう言うと、牧田はいきなり顔をぐっと近づけてきて、肩の辺りで何かを確かめようとする。
「あ、の……っ」
仰け反って逃げようとしても追ってこられて困っていると、グレイスが清月より前に出て、後ろにいた万城が牧田の首根っこを掴んで引き剥がした。
「ぐえっ」
「何をやっているんだ。私の前で堂々とするからには、覚悟はできているんだろうな?」
「ちがっ、幸野の匂いを確かめようとしただけなんだって。あ、というかアッフォード君もいたんですね」
「……」
頭を下げ、無言のまま立ち去ろうとする背中に手を伸ばしかけ、躊躇ううちにその姿は廊下の向こうへ消えた。
「匂い……ああ、なるほどな。わざわざそこまで近づかなくとも分かるだろ」
万城の鋭い目が清月に向けられたかと思えば。
「グレイス君と番になったのか?」
「は……え……」
「もしくは、ね……」
「わあっ、ストップ。タイム。続きは中で話そう。な?」
万城の口を手で塞ぎ、牧田はぐいぐいと万城を部屋の中へ押し込むと、自分も中に入ってドアを閉めた。
「慌て過ぎじゃないか?」
「万城の口から、寝た、とか言われると保たないんだよ」
「ふうん」
何やら恋人同士のやり取りを見ているようでこっちが恥ずかしくなってきて、どう割り込もうかと思っていると、それに気付いた牧田が咳払いをした。
「ですが、万城先生のおっしゃる通り、番関係になったかどうかは気になりますね。そこのところはどうなんですか、幸野君」
「か……」
仮の番関係のことを話しかけたが、やめておいた方がいいと思い当たる。そんなまどろっこしい関係になろうと持ちかけられた理由まで聞かれたら、上手く説明できる気がしない。
「か?」
「仮に番にならなくても、せ……ほ、他に方法があるって先生は言ってましたよね。その方法を……」
「ああ、性交ね」
万城が口にすると慌てていたが、牧田が自分で言う分には問題ないらしい。あっさりその単語を言って、顎に手を当てた。
「やっぱり、効果はそれなりにあるってことか……。でも」
「?」
牧田はしげしげと清月の顔を眺め、首を捻る。
「2回薬を飲むと言いに来た時のアッフォード君は、私がどんなにそれが危険なことかを説明して、引き留めようとしても聞かなかったんですよ。実際、過去に数名いましたが、全員漏れなく単なる体調不良では済まない状態になりましたし……。でも、アッフォード君は、そのリスクを顧みずに薬を飲みました。あの表情は並々ならぬ覚悟を決めたものでした。それが誰かのためだとしたら……。いえ、全て私の憶測でしかないんですけどね」
「……」
グレイス、お前は。
その後、体調についてや、オンライン授業について不都合がないかなどを聞かれて答えると、二人は部屋を出て行った。
一人になった途端、ベッドに倒れ込むように横たわる。白銀の髪を持つ美しい男が覚悟を決めて薬を飲む瞬間を想像しては、胸が詰まるような思いがして、涙が浮かんだ。
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