7 7日間の試練

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7 7日間の試練

 グレイスのことを考えながら寝たせいか、グレイスが泣いている夢を見た。  なんとも言えない心地で目覚め、身を起こそうとして、ぐるりと景色が回った。 「……っ」  ベッドに逆戻りしながら額に手を当てると、寝汗でも掻いたのか湿っていて、熱いかどうかは分からない。ただ、風邪を引いた時のような倦怠感があった。  もう一度ゆっくり起き上がると、自分の鼓動が異様に速く感じ、呼吸も荒くなる。  スマートフォンを操作して誰かを呼ぼうとした時、ちょうどグレイスからメッセージが届いた。昨日の話がしたいという内容を見て電話をかけようとしたところへ、大河からもメッセージが届いた。 「グレイスのことで話がある……?」  どちらの内容も気になる。こういう時に悩ませないでほしい。  二人からのメッセージを睨んだ後、やっぱりグレイスにしようと決めた時、部屋の外から悲鳴が聞こえた。続いて、人が走る音、叫ぶ声、何かが床を鳴らしながらのたうっているような、そんな音も。  部屋のドアを数センチ開けて様子を見ると、廊下の向こうにいたのは。 「ライ……オン……?」  正しくは動物園にいるようなライオンではなく、頭部だけがライオンで、体の方はこの学園の制服を着ている。その半分ライオン、半分人間の姿をした生物が、一人の生徒を下敷きにして、その服を破り取ろうとしていた。  ここからは下敷きになっている生徒はよく見えないが、声も出せないほど怯えているか、気絶したのだろう。  他の生徒は全員授業に出ているのか、騒ぎを聞きつけて出てくる者はいない。だとすれば、どうにかできるのは清月だけだ。  持っていたスマートフォンでこっそり助けを呼ぼうとした時、最悪のタイミングで着信音が鳴り始めた。  相手を確かめる余裕もなく、慌てて切ろうとしたのを、間違えて出てしまう。 「幸野、メールの件だが……」  ライオンの獣人がこちらを振り向くのが、やけにスローモーションに見えた。 「幸野?」 「あっ……」  驚くほどの速さで獣人がこちらへ走ってくる。恐怖で竦み、一瞬反応が鈍ったのがいけなかった。 「ひっ」 「幸野?幸野っ!!」  スマートフォンを取り落とし、咄嗟にドアを閉めようとしたが、向かって来た獣人がドアの隙間に口を挟み、力づくで開けようとする。  ライオンそのものを相手にしているような強さで、とても抗うことができずに、呆気なくドアを開かれてしまった。  ぐるぐると喉奥で唸りながら、じりじりと清月に迫ってくる。制服を着ていることからここの生徒なのかもしれないが、その目には既に正気の欠片もない。  窓から逃げようと背を向けた途端に襲われそうで、身動きが取れずにいると、ついに獣人が飛びかかってきた。 「っ!!」  悲鳴も上げられないまま、後方へ押し倒され、頭を何かの角で打ちつける。その衝撃で意識が薄れていく中、獣人が興奮したように荒く息をつきながら、清月の股座に頭を伏せようとしているところが微かに見えた。  名前を呼ばれた気がして、ゆっくりと意識が浮上していく。すると周囲で何かが暴れ回っている音がし始めて、それが一つではなく、二つあると気が付いた。  あの獣人以外にも?  疑問を抱きながら目を開くと、白く美しい毛並みをしたヒョウのような生き物がライオンに噛みつかれている瞬間が見えた。  血を流しながらも、獣人に果敢に挑む姿は、どこからどう見ても獣人ではなく、動物のヒョウそのものだ。それなのに、その姿を見た途端に一つの名前が口をついて出た。 「グレイス……?」  ヒョウの目が、一瞬清月を捉える。青い目をしていた。 「グレ……っ」  確信を抱いたのと同時に、ヒョウは獣人を壁に叩きつけ、気絶させた。  そして、清月が見ている中でゆっくりとその姿を変化させて、一人の男の姿に変わった。全身傷だらけで、髪は乱れ、酷い有様だというのに、変わらずに美しい男だ。 「グレイス……」  再度呼びかけ、近づこうとした時、放送が入った。 「全校生徒に緊急のお知らせです。授業中ですが、手を休めて聞いてください。現在、寮の方で獣人が現れています。生徒が1名襲われました。幸い大事はなかったようですが、しばらく寮には近づかないようにしてください。繰り返し……」  放送に気を取られている隙に、グレイスは満身創痍とは思えない速さで清月の部屋から飛び出し、立ち去ろうとする。 「グレイス、どこに……っ!」  手を伸ばし、追い縋ろうとするが、グレイスは振り返ることなく走り去ってしまう。慌てて後を追いかけようと立ち上がると、後頭部に激痛が走る。 「っ……」  痛みを堪え、グレイスが行ってしまった方向へ行こうとしたが、廊下の向こう側からいくつかの足音が響いてきた。 「こっちでしょうか?」 「分かりません。あの生徒も我々に伝えた後、すぐにまた気を失ってしまいましたしね」 「仕方ありませんね。我々だって、獣人を目にしたらどうなるか分かりませんし。噂では、獣人は人を殺すだけでなく、少しでも多くの個体を残そうと見境なく交わるという……」  二人の職員がこちらに気づく前に、清月は自室の窓から外に出た。会話の内容を聞いて鼓動が乱れる。  ただでさえ獣人として欲望が制御できないというのに、体を作り変える薬を飲んだりしたら。そして、それが誰のためなのかと考えるのはもう愚問のような気がした。  自分の想いも確実に形になろうとしていて、目を背け続けるわけにはいかない。 「グレイス……っ」  頭痛からくる吐き気を無理やり抑え込みながら走り出しかけたところで、海岸の方向から悲鳴が上がった。嫌な予感に突き動かされて駆けつけると、学園から出て少しのところにある浜辺に半分獣化したグレイスと、グレイスに押し倒されている学園の生徒が一人いた。 「グレイス!」  慌てて声を張り上げ、こちらに注意を向けようとすると、グレイスは唸りながら顔を上げ、生徒を放って清月の方に突進してきた。  逃げた方がいいのかもしれないが、自分が逃げたらまた他の人を襲いに行くと思うと、じっと待ち構える他なかった。 「グレ……っ」  もう一度名前を叫ぶ間もなく、グレイスは清月に掴みかかり、押し倒そうとしてくる。物凄い力で、すぐさま押し倒され、砂浜に尻もちをついた。 「グレイス!やめろ、正気に戻れ!」  荒れ狂う海のように激しく揺らめいている青い瞳を見つめながら強く言うが、グレイスは喉奥で低く唸るばかりだ。その姿は野生の獣そのもので、もう駄目なのかと諦念が浮かびかけた時だった。  ぽた、ぽた、と水滴が頬に当たり、はっとすると、グレイスの青い瞳から涙が溢れているのが見えた。 「グレイス……?」  頬に手を伸ばそうとしたのだが、その手が彼に触れる前に、耳をつんざく銃声音が響いた。肩を打たれたグレイスが清月の上に倒れ伏していく。  眼の前で起きていることがなかなか信じられず、駆けつけてくる警察官の声や周りの騒音を聞いても咄嗟に反応できなかったが、パトカーに連れて行かれていくグレイスを見て、繰り返し彼の名前ばかりを叫んでいる自分の声だけが反響していた。 「君は、彼の恋人なのか?」  その問いかけが降ってきた瞬間、まるで夢から覚めたようにはっとして、一気に現実感が襲いかかってきた。  取調室だろうか。青い制服を着た警察官が机の向かい側に座り、清月が犯人ではないからだろうが、穏やかな目をして尋ねてくる。 「俺は……」  どうしてここに、と口にしようとした瞬間、グレイスが肩を撃たれた光景が蘇る。 「そうだ、グレイスは。グレイスは無事なんですか?グレイスを解放して下さい!」  警察に捕まった獣人の末路を恐れるあまり、居ても立っても居られずに訴えかけるが、警官は首を振った。 「残念ながら、解放することはできない。我々の目の前で君に襲いかかっているのを見たからな」 「違う、違います。あれはただ、喧嘩をしていただけで。友達と喧嘩をすることなんて、誰だって……」  苦し紛れの弁解をするも、警官はまた首を振り、残酷なことを告げる。 「たとえそれが本当だとしても、彼が獣人である限り野放しにはできない。辛いだろうが、彼は我々の監視下の元、一生をここで過ごしてもらう。もしここで手に負えなければ、やむを得ず殺処分も免れない」 「殺処分……」  まるで人間ではなく動物の扱いの言葉に、余計に突きつけられた現実の重さが伸し掛かる。 「ただ、檻越しに面会することはできる。もし彼にひと目会いたければ」  無論、頷く以外の選択肢はないのだが、グレイスが流した涙が目に浮かび、ある考えが閃いた。危険な賭けかもしれないが、グレイスを救う方法はこれ以外にない。  清月は息を整え、しっかりと警官の目を見ると、嘘のように落ち着いた気持ちで口にした。 「会う前にお願いがあります。どうしてもグレイスを解放できないのであれば、俺をグレイスと同じ牢に入れて下さい。気づいていると思いますが、俺はフェロモンが強く、彼はそんな俺が傍にいると襲わずにいられないはずです。もしそんな状態でも、1週間彼が何もせずにいられたら、そしたら解放して下さい。お願いします」  深々と頭を下げると、警官は厳しい顔つきをした後に。 「駄目だ」 「……っ、お願いです!」 「我々は君にもしもがあった時に責任が負いきれない。君にはご家族も、友人もいるのだろう?そんなことがあれば……」  当然の言葉だった。脳裏に静紅や大河の顔が浮かぶ。彼らが悲しむ姿は見たくはない。だが、それでも。 「グレイスは」  警官の渋面をしっかり見つめながら、きっぱりと強い意思を言葉にする。 「他の誰よりも俺にとって大事な人なんです。もちろん、母や友人も大事ですが、彼のいない未来なんて考えられない。考えたくもない。だから、彼を助けるためならば俺はどんなことでもします。もし責任問題を気にされるなら、俺のこの言葉を録音して、それを証拠に責任から逃れてください。これは決して誰かに言われたからではなく、俺自身の意思で決めたのだと。あなたは止めようとしてくれたのだと」  しばらく二人で向かい合い、睨み合うようにしていたが、清月の意思が固いのだと理解したのか、警官は深い溜め息を吐いた。 「……分かった。録音の代わりに、君に万一の時のために書類にサインをしてもらう。それからこれを」  差し出されたものを見て戸惑う。 「護身用だ。特例で許可するよう、上に掛け合う。これを受け取らないなら、この話はなかったことにする。そもそもこの話自体、今から上に確認しないと分からないが、事によっては私の首が飛ぶかもしれないな」 「すみません……」 「謝罪はいい。私もいい加減こんな仕事はしたくないからな」  警官の言葉も、受け取った銃もずしりと重く感じられた。  上に確認するために立ち去ろうとする警官に、これだけは言っておかなければと引き止める。 「あの、できれば俺の家族や友人には黙っていてほしいです。母は体が弱いので余計な心配かけたくないし、友人の大河はこのことを知ったら止めようとするはずですので」 「分かった。私も元よりそのつもりだ。公にされて困るのは我々の方だからな。……だが、万一の時は」 「分かっています」  スマートフォンを差し出すと、警官は重々しく頷きながら受け取った。      グレイスが収容されていたのは地下牢だった。暗い通路に鉄さびの匂いが充満する中、あちらこちらから獣の唸り声が聞こえてくる。  ここにいる彼らにはやがて悲惨な末路が待ち構えているのだろうが、清月にはグレイス以外はどうすることもできない。いるだけで息が詰まる用な場所だ。  一番奥まった場所に来ると、警官が足を止めて清月に視線を送る。急いで牢の中を覗き込み、その姿を目にした途端、胸が苦しくて堪らなくなった。  檻の中には一頭の見事なユキヒョウがいて、壁から伸びた鎖に四肢と首を繋がれ、眠っているようだった。ライオンとの戦いで負った傷は処置されていないらしく、美しい毛並みには血が滲み、床には血痕が飛び散っている。 「……救急箱があればください」  グレイスの名前を呼びたいのを堪え、眠りを妨げないように静かに傍らの警官に言う。 「分かった。後で他の者に持ってこさせよう。他にも何か必要なものがあればその都度教えてくれ。この牢は私含め、必ず誰か一人が常に外に控えて監視する。君は基本的に出入りは自由なので、出たい時はいつでも声をかけてくれ。ただし、書面に記した通り、長時間離れることは許されない」 「はい。分かっています」  清月の返答を聞くと、警官は慎重に牢の鍵を開けた。鍵の音で目を覚ますかと思ったが、麻酔銃でも撃たれたのかグレイスは眠ったままだ。起こさないようにそっと扉をくぐり、中に足を踏み入れると、後ろで鍵を閉められた。  まずは怪我の具合を確かめようと、そろそろとグレイスに近付く。他にも傷がいくつもあったが、首の噛み跡が一番酷いようで、そこから血が滴っている。これは清月を守るために負った傷だと思うと、罪悪感で胸が潰れそうだ。  苦しそうな息遣いをしているグレイスの体に、傷を避けながらそっと触れようとした。 「無闇に触らない方がいい」  潜めた声で注意を受け、ぱっと振り返る。先程の警官が救急箱を手に牢に入ろうとしていた。 「牢に入れる時も、我々が手当てをしようとしたら暴れた。強力な麻酔銃を撃ってようやく今は眠っているが、怪我を負っているせいか警戒心が強く、ちょっとでも近付こうとするものなら……」  警官の声が途中で途絶える。同時に、金属が擦れ合う耳障りな音が背後から響き、振り返ろうとした瞬間、獣の咆哮が鼓膜を激しく叩いた。咄嗟に動いた警官に引っ張られるまま、出入り口付近に引き下がると、たった今清月が立っていた場所をグレイスの前脚が勢いよく横切った。  礼を言おうとした清月の言葉を遮り、警官が苦笑交じりに言う。 「これでもまだ彼と7日も閉じ籠もろうと思うのか?引き返すなら今だ」  起き上がったグレイスが鋭い牙を剥き出しにして低く唸るのを見ながら、確かに無謀なことを言っていると自覚した。だが、清月は意思を曲げるつもりはさらさらなかった。 「引き返すつもりはありません。何が何でも、俺はグレイスと一緒に帰ります」 「……そうか。これを渡しておく。治療できないとは思うけどな」  救急箱を受け取ると、警官は清月を残して牢から出て行った。  その背を見送った後、グレイスに向き直ると、毛を逆立てた猫のように警戒していた。実際はそう可愛いものではないのだが、怖いとは思わなかった。  喉奥で低く唸り続けるグレイスの目をじっと見ると、そこには怒りではなく、怯えや悲しみが浮かんでいる。今口にすべきか迷ったが、悲しみを取り除いて落ち着かせないと治療もできない。迷いを捨て、あえて一定の距離を保ったまま想いを言葉に乗せた。 「グレイス、俺を守ってくれてありがとう。今回のことだけじゃなくて、身の危険を顧みずに薬を2回飲んでαになってくれたことも、仮の番になろうと言ってくれたことも、俺のためなんだよな?ただでさえ獣人として理性がコントロールできないのに、辛かったよな。一人で秘密を抱え続けて苦しかったよな。お前がどれだけきつかったかは、想像するしかできないけど、俺なら耐えられなかったと思う。お前には感謝しかない。……いや、違う。感謝だけじゃなくて、俺は」  言葉を続けようとして、目の奥が熱くなり、視界が歪んだ。大きく息を吸い、呼吸を整えてから一番伝えたかった気持ちを吐き出した。 「俺は怒ってるし、悲しい。なんでそんな大事なことを話してくれなかったんだ?今さらかもしれないけど、俺は気づいたんだ。お前が一番大事だって。ずっと昔からお前が大事で、なんで大事かにも気づいた。俺はグレイスが好きなんだ。お願いだから、一人で抱え込まないでほしい。早く良くなって、お前の返事を聞き……」  グレイスがのそのそと近付いてきて、口を開く素振りをした。だが、その口から漏れるのは人の言葉ではなく、喉を鳴らす音と息遣いだけだ。  飛びかかってこないだけマシかもしれないが、絶望的な事実に思い当たる。獣人になると理性が失われると聞くが、もしかしたらグレイスは人としての感情を失ってしまったのかもしれないと。
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