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1 持て余した感情
「幸野、行きたい高校はないのか」
茹だるような暑さでじりじりと肌が焼かれているような気がする中、向かい合うように座った担任の野間が、清月の目を覗き込むようにして聞いてくる。真剣な目つきだが、志望校を書く用紙に置かれた野間の右手の人差し指は、いらいらと時を刻むように机を叩いていた。
野間からすれば、何一つ志望校を書かない清月のような生徒は厄介極まりないだろう。一つでも書いていれば、その学校に行くためのアドバイスや、似たような校風の学校を第二志望として勧めることもできる。
そして、何も書かない生徒に教師が聞くことは限れていた。清月が黙り込んでいるのを見て、野間は溜息混じりに問いを重ねる。
「行きたい学校がないにしても、何か将来やりたいことはないのか」
予想通りの問いが野間の口から出てきた時、言った本人も苦々しい表情をした。ありきたりな台詞だと野間も感じたのだろう。
「……特に、ありません」
輪郭に沿って伝い落ちる汗を感じながら答えると、野間は立ち上がり、窓辺に近寄りながらぼやいた。
「暑いな……。冷房は壊れているのか?」
いくつか冷房の不調について文句を並べ、窓を全開にすると、清月の方を振り向いた。
「幸野」
「はい」
「お前、αであることが嫌なのか」
突然核心を突くようなことを言われ、言葉に詰まった。
およそ100年程前、日本は少子高齢化が急速に進み、絶滅の危機に追いやられた。それをどうにかしようと国が様々な政策に乗り出した時、人類の研究をしていた科学者がある発見をした。
それは、男性の体が絶滅の危機に直面したことで進化し、Ω、α、βという新たな3つの性別を生み出したというものだった。
αは見た目や身体能力、頭脳に至るまで様々な能力に優れている。
一方でΩは何もかも能力には恵まれていない代わりに、αと番という関係になれて、女性のように子どもを生むことができる。
残るβは女性の中にも存在し、αやΩのように特殊なものは持ち合わせていないが、大多数を占めていた。
そして近年、新たに獣人という、人が半分獣化した種族も現れ始めた。獣人は主にαだけが成りうる種族なのだが、突然変異のようなもので、未だに生態は明らかになっていない。
ちょうど同時期にΩが減少し始めたことで、獣人に対する世間の目は冷たい。獣化することで人としての理性が奪われるという噂もあった。
その新たな性別のうち清月はαで、何もかも恵まれていると言えた。だが一方で、恵まれているからこそ、将来こうありたいという夢や希望を思い描けなかった。
αであることで周囲から受ける期待やプレッシャーが疎ましく、本来自分が何をしたかったのか見失ったのだ。
それを目の前にいる野間に言ったところで、贅沢な悩みだと一蹴されるだろう。
「……好きでは、ありません」
「そうか」
「先生、もう帰っていいでしょうか」
「あ、ああ……」
立ち上がり、一礼して立ち去ろうとした時、野間が声を上げた。
「ああ、そうだ。幸野」
振り返ると、カラー印刷された冊子のようなものを差し出される。
「これ、明旺学園のパンフレットなんだが、もし他に行きたい学校が浮かばなかったら考えてみてくれ」
シンプルなデザインのパンフレットに少しだけ興味が引かれ、受け取ると、今度こそ教室を出た。
「あ……」
戸を開いた途端、黄昏色に染まりゆく廊下に見慣れた姿を見つける。白銀の髪が夕陽に反射していて、彫りの深い顔立ちにくっきりと陰影ができていた。
外国の俳優の名前を挙げて笑い合ったのが遠い昔のようだ。
「グレイス……」
呼びかけると、海の色をした瞳が清月の姿を捉え、波間のように何かの感情が揺らいで見えた。
今ならば、態度が変わった理由を答えてくれるのではないか。そう期待して足を踏み出しかけた時。
「あ、来ていたんだな。アッフォード。冷房が故障しているみたいだから、別室に移動するぞ」
「はい」
清月の横を擦り抜けるようにしてグレイスの前に出た野間が、廊下を職員室の方へ歩いて行く。それに続こうとしたグレイスは、一瞬だけちらりと清月を一瞥し、そのまま廊下を歩いて行った。
「なんだよ……」
遠ざかる均整の取れた後ろ姿に投げかける声が、悔しげに言ったつもりが、酷く寂しげに響いた。
ーーグレイス、しっかりしろ!グレイス!
窓際の木に止まった蝉の鳴き声が、あの時の記憶を呼び覚まそうとしている。
胸の内で燻る感情は、苛立ちか、焦燥か、喪失感か。そのどれもが当てはまり、どれも違った。
廊下の奥に消えたグレイスは戻って来たりはしない。あの時に戻れないのと同じように。
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