蕎麦屋に行こう。

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蕎麦屋に行こう。

 故国、芙蓉皇国を二週間前に出港する際に外装塗装も黒々と、(あで)やかに(つや)やかに新調塗装された巨大な軍艦が、舳先(へさき)で雲の海を巻き上げ掻き分け巡航速度で前進を続けている。  この軍艦。  正式には“芙蓉皇国海軍所属の戦列装甲艦 石蕗(つわぶき)”という。  通称を【戦艦石蕗(せんかんつわぶき)】と一般的にはされているこの(ふね)は、一隻の古いが堅牢な造りの“装甲巡航艦”を従えて、二週間前に出港した故国【芙蓉皇国】に向けての帰り道を快調に海上を走っていた。 「No matter how long you wait, soba will not come out(いつまで経っても蕎麦が出ない)」 「そんなことあたしに云われても致し方ありません」  その艦内の一角、士官食堂の端っこの、装飾の欠片もない無骨な鋼製テーブルの一つを占拠した男女二人組の背が低い若すぎる女の子が、生まれの異国で使い慣れたスプーンを左手に握りしめ、烹炊所から供され自身も見慣れたライスにはじめからカレーがかけられた“オーべラル風ポークライスカレー”と、ざく切りのキュウリとポピーシードに『バートン夫人の家政読本』でよく知られた“サラド(サラダ)クリーム”で和えた“オーべラル風キュウリのサラド(サラダ)”を幾度も覗き見しつつ、テーブル越しの安物の着物がよく似合う若いボサボサ髪の青年に向かって恨めしそうに(つぶや)いている。 「烹炊員長(ほうすいいんちょう)も自称オーべラル人のあなたに気を使ってくれてるんですよ。それに蕎麦は三たて。“挽きたて。打ち立て。茹でたて。”が一番美味いんです。艦内で作るのは難しいのですよ?」  青年は事前に烹炊所員から手渡された五日分のメニュー表が手書きで記載された藁半紙(わらばんし)を右手でピラピラさせつつ、異国(オーべラル)の少女を諭すように毎日の朝昼晩の献立を順を追って噛み砕いて教えながら指し示し、蕎麦の日はない事実を通達しながら彼女からの理解を得ることに腐心していた。 「I know, but I don't feel like leaving the country(わかった。でも、(オーべラル)を出た気がしない)」 「芙蓉に着いたら蕎麦は食い放題ですよ」 「…」 「さらに蕎麦料理の種類や食べ方はいろいろありますよ」 「For real?(本当?)」 「マジです」 「…endure(我慢する)」 「お聞き入れ頂き、誠にありがとうございます」  大志を(いだ)き田舎から出てきたものの、うだつが上がらないまま数年が経過した書生といった風情の青年は、大仰に右腕を頭の上から身体の前に振るい、一見するとオーべラルのどこか大店(おおたな)の小僧といった質素な身なりをした金髪碧眼の少女に対して、まるで舞台芝居の騎士がお姫様にやりそうなあざとい礼をしてみせた。  艦内生活ルーティンの将兵たちが食事を摂る時間より三十分遅く席につき、はや二十分。  現役の海軍軍人の平均食事時間よりも十分ばかり遅く昼食を終えたふたりは、自分たちの食器は自分達で烹炊所のカウンターまで運び、そのまま配線やら配管やらが壁面や天井に張り付いている通路を三分ばかり歩き、貴賓室の隣りにある質素な控室の自室にその身を滑り込ませて食後の休みに入った。  つまり、各々のベッドで食後の昼寝を楽しんだのである。
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