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「最初にお伝えした通り、その“ヨゴレ”を落とすのには一夜かかります。それほど、下界での“ヨゴレ”は強力です。そして、根深い理由は、お客様の心と繋がっているからです」
「ヨゴレが心と繋がっている?」
ピンとこなくて思わず首を傾げた。イナミさんは続ける。
「わかりやすく言いますと、心のヨゴレとも言えます」
「心のヨゴレ……」
僕は自分の着ていた服をまじまじと見た。水色のべっとりしたものは、やはりガソリンの匂いがしている。
「心がこんなに汚れているのか……、目で見るとショックだな……」
「……ショックを受ける方はまだいい方です。まず、自分の心が汚れているわけがない、と否定します。皆さん、心が汚れていることを認めたくないのでしょうね。気づかないうちに“ヨゴレ”は溜まっていくものです」
「……落とさないと、どうなるんですか?」
イナミさんは僕の顔を見ず、首を振った。
「落とさないと、ここから動けません。この空間は隠り世ですので、時間の概念はありません。汚れを落とすためだけに、存在している場所です。汚れがなくなるまで、ここは夜です。キレイになると夜が明けます。そして、しかるべき場所に行けます」
「しかるべき場所……」
まさか……、と言葉を失った。
説明されても、はいそうですか、と、簡単にこの状況は受け取れない。
僕の不信感はバレバレだったのか、イナミさんは続けた。
「先ほど、あなたはバイクで国道を滑走していましたね?」
「はい……、気づいたらこの空間に居て……」
「その記憶には続きがあります」
にっこり、と口角を上げた笑顔はやっぱりうさんくさい。兄貴は滅多に笑わなかったから、違和感しかない。
「あなたのポケットの銀貨をお預かりします」
彼は立ち上がり、僕に掌を広げた。言われるままに、銀貨を取り出す。
「これ、何に使うんですか?」
イナミさんは一番近いドラム式乾燥機の前に行き、銀貨を投入した。点灯した赤いボタンを押す。ごおん、ごおん、ごおんと唸るモーター音。丸いドアに長方形が浮かび、映像が流れはじめた。
「こちらをご覧ください」
バイクに跨った僕を空中から撮影したようなアングル。片側三車線の国道を滑走し、街灯をシュンシュンと何本も通りすぎて高速道路に乗った。
そのままじっと画面を眺めていると、後方からすごい勢いで向かってくる大型トラックが隅に映った。
そのトラックは勢いを増し、僕のバイクに近づいてきた。バイクを追い抜こうとして、トラックはさらに速度を上げた。
ウインカーも出さず、カーアクション映画の暴走車さながらにトラックが蛇行を始めた。ドライバーに何が起こったのかは分からないが、明らかに異変が起きているようだった。そのままトラックは予測不可能な動きをスピードをゆるめず繰り返し、僕のバイクに迫った。
危険だ、と目を背けたくなった瞬間、派手な爆音が轟いた。
互いの速度は、最悪の相乗効果を発揮して、僕の体はコントロールを放棄し、宙に浮く。
その後は、ぐでんぐでんと人形のように投げ出された。後方から来た車は、ブレーキ音を響かせたが、間に合わず僕の上を無惨に通り過ぎた。
ぐしゃり、と骨と肉が潰れた音。それは僕に明確な死を刻んだ。
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