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百聞は一見にしかず。
「ご理解いただけたでしょうか?」
僕の目を見て、イナミさんは、では、とカウンターから「魂洗濯中」と印刷された黒Tシャツを取り出した。
「これに着替えてください」
シリアスな気持ちになっているところで、誰がこんなあからさまなものを着るのだろう。イナミさんと僕しかいないが、さすがに恥ずかしすぎる。達筆な四文字熟語を目の前に広げた。
「水色のヨゴレを落とすには、洗濯しないと取れませんよ」
「……その間、これを着て過ごす、んですか?」
「もちろん」
それ以外選択肢が? と、無言の笑顔は逃げる隙さえくれなかった。しぶしぶその滑稽なシャツに着替えた。
「よくお似合いです」
「はぁ」
兄貴なら眉を寄せ、鼻で笑っていただろう。
「では、次に金貨を下さい」
ポケットに手を入れ、先ほどと同じように金貨をイナミさんに渡した。映像が映っていたドラム式洗濯機は洗濯と乾燥機を兼ねているらしく、水色の汚れたシャツを放り込む。金貨を投入するとまた赤いボタンが光った。
「どうぞ、あなたのヨゴレです。ボタンを」
ボタンを押すと水の音がして、ドラムが回転を始めた。
「では、洗濯中に思い出話でも。コーヒー、紅茶、烏龍茶、3つしかありませんが、どれがお好みですか?」
悠長に飲み物を飲んでいる場合ではない。でも、問われたらなんとなく喉が渇いてきた気がした。
「コーヒーで」
「かしこまりました」
すぐにカウンターの中から缶コーヒーが出てきた。なんでも出でくるカウンターだと感心していると、イナミさんは僕に椅子を勧めてくれた。近くにある白い丸椅子に腰掛け、コーヒーを口にすると冷たい苦さが喉を過ぎていった。
「……洗濯が終われば、僕は帰れますか?」
イナミさんは笑顔のまま僕を見た。
「いつ帰れると言いましたか? 私はしかるべき場所に行けるとしか申しておりません」
その温度のない言い方は、この店の裏にあった漆黒の海を思い起こさせた。
小波の音だけ聴けば、優しいB G Mだが、現実はブラックホールのような底知れない恐怖だった。一寸先は闇どころか、地獄へ続くような不穏さ。
ぞくぞくと肌が逆立っていく。
やめとけばいいのに聞かずにはいられなかった。大事な言葉を僕は聞き過ごしていないか。イナミさんがこの姿でいるのは、親近感を持ってもらうためだと言った。本当の姿であると、話すら聞いてもらえない場合が多い、と。
「……イナミさん、」
「はい」
丁寧な笑顔は兄貴、そして僕の顔にも酷似している。
「……イナミさんの本当の姿は……」
彼が身につけている黒いシャツにはくっきりと「仕事中」と印字。先ほど手にしていた銀貨と金貨に刻まれていた姿は、異形なものだった。
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