本当の理由

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本当の理由

かくして、直子は沸々とわきあがる怒りを抱えながら、塾へと向かっているのである。 イライラしていると、人は自然と早歩きになるもので、直子も例外ではない。その証拠に、授業が終わる10分も前に着いてしまった。 顔を見たらなんて言ってやろう。 隠し通せると思ったら大間違いなんだから! そんなことを考えているうちに、塾から授業を終えた小学生達がぞろぞろ出てきた。その中に、たっぷり昼寝をした後のような、のほほんとした隆の顔を見つけて呼びかける。 「隆、こっち!」 気付いた隆が駆け寄って聞いてきた。 「ママ、もう大丈夫? よくなった?」 「うん、元気になった」 すぐに問いただしたいところだが、まだ周りには子供たちや講師がいる。駅に向かいながら、周りと少し離れたところで切り出した。 「隆、お腹の具合は大丈夫?」 「えっ、なんで?」 「今週、ずっとお腹が痛かったんでしょ? それで、塾に遅刻したって。先生から聞いたよ」 「……」 直子の予想したとおり、隆は黙り込んだ。自分に都合が悪くなると、何も言わなくなるのは隆の悪い癖だ。話上手でなくてもいいが、必要な時には言葉にしてほしいと、直子はいつも思っている。 「本当にお腹の調子が悪いなら、そう言って。もしかしたら、なにかの病気かもしれないから」 「……」 「本当にお腹が痛くて遅刻したの?」 「……ちがう。ごめん」 隆は立ち止まり、きまり悪そうにうつむいた。駅に向かう集団が見えなくなるまで待って、直子は聞いた。 「じゃあ、どうして遅刻したの? どこで何をしてたの? まさか、ゲーセンに行ってたなんて言わないでよ」  ついつい語気が荒くなる。追いつめるような話し方は逆効果だと分かっているのに、受験のこととなると、すぐにカッとなってしまう。しばらく沈黙した後、ある方向を指さしながら隆はポツリと言った。 「……あそこにいた」 そう言って隆が指さした先にあるのは、広い幹線道路にかかる歩道橋だった。何の変哲もない、ごくごく普通の。こんなところで、一体何をしていたというのだろうか。 「歩道橋……?あそこで何してたの…?」 「……見てた」 「見てたって、何を?」 「ママを……」  隆が歩道橋から私を見ていた?  一体どういうこと? 「あの歩道橋から見えるんだ。ママの病室が……」  そう言われて改めて歩道橋の周囲を見回すと、たしかに直子が入院していた病院がすぐ目の前にある。できるだけ自宅近くでと探した結果、隆の通う学習塾からほど近い、横浜駅の病院に直子は入院していたのだった。 「月曜日、塾に行く途中に、ママの病院が見えて、ちょうど近くにこの歩道橋があって、もしかしたら歩道橋にのぼったらママが見えるかもって思ったんだ。そしたらほんとに偶然、ちょうど歩道橋から見える窓が、ママの病室だった。それで、元気かなって思って見ているうちに、うっかり遅刻しちゃって……」 「……」 「次の日も、歩道橋の近くまで来たら、ママがどうしてるか気になって、またのぼったんだ。その日はカーテンが閉められてたから、開かないかなってしばらく待ってたら、また遅刻しちゃって。でも、先生に本当のこと言いたくなくて、ついお腹が痛かったってウソを…。歩道橋を通るたびに、塾の時間のことは分かってたけど、どうしてもママが元気でいるか気になって、のぼって病院を見てたら遅刻しちゃった」  そこまで言うと、隆は再び黙り込んだ。 「どうして、ママに直接元気かどうか聞かなかったの……?歩道橋にいる時に、連絡してくれてもよかったのに」 「だって、電話はするなってママが……。勉強に集中することのほうが大事だからって言ったでしょ?LINEでいろいろ聞くのも恥ずかしいし、そんな暇あるなら勉強しろ、早く塾に行けって言われるかと思って。パパにママのこと聞いても、大丈夫って答えしか返ってこないし。だから、自分の目で確かめたかったんだ」  胸の中に、さっきまで感じていた怒りにかわって、じんわりあたたかいものが広がっていくのを直子は感じていた。歩道橋は徐々にぼやけてかすんで見えた。    1週間ぶりにあらためて見る隆は、なんだかひどく小さく思えた。1人で電車に乗れても、毎日何時間も塾で勉強していても、まだたった12歳の子供なのだ。その心は、ほんのちょっとした不安に押しつぶされてしまいそうなほど、とても小さい。  直子は静かに言った。 「隆……、隆は間違ってるよ」 「ごめん」 「ちがう、謝ることが間違ってるんだよ」 「え……?」 「隆は、ママのこと、元気かなって心配してくれた。大切な人のことを思って行動した。それは、勉強より大切なことだよ。だから、謝ることない。隆は間違ってないんだから」    直子はそっとハンカチで涙をぬぐい、これでもかというくらい、満面の笑みで隆を見つめた。こんなに嬉しい気持ちは何カ月ぶりだろう。隆が6年生になってからは、心から笑ったことなんてなかったような気がする。 「さっ、帰ろう! 今日はママの退院祝いだよ。隆にもたっぷりつきあってもらうからね!」  はしゃいだ声の直子をじっと見つめて隆が言った。  「ママ、やっぱりまだどこか悪いんじゃない?そんな笑顔、見たことないよ」
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