記号として語られた、ありふれた男の話

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記号として語られた、ありふれた男の話

 銃を片手に冷たい廊下を歩く。  コツ、コツと皮靴の奏でる足音だけが辺りに響き渡る。考えの纏まらない熱っぽい頭も、この場の雰囲気さえもが夢の最中(さなか)にあるような気がした。私はこれから、人生で初めてとなる殺人を犯す。そしておそらく、その後の人生においては数えきれないほど……。  上官に命じられ、父の命を奪った独裁者の秘書として仕えて一年が経とうとしている。クーデターによって成り上がった軍事政権。独裁者による統治。発展途上の地域の国としてはありふれた話。そして独裁者を排除しようとする動きもまた、長い歴史の中ではありふれた出来事でしかない。たとえそれが私にとって初めての殺人であっても……。  張り巡らせた考えも覚束ないまま、通り慣れた通路を亀のようにノロノロと進む。それでも私の頭はこの空気のように冷える事はなく、とうとう彼の居る部屋の前まで来てしまった。私は自分の中の迷いを断ち切れないでいる。しかし、タイムリミットだ。たとえ迷いが断ち切れていなかろうと、今は熱に浮かされたまま上官の命令に従うのみ。扉を前にして、大きく深呼吸をする。  さぁ、覚悟を決めろ、独裁者を殺すのだと。
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