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俺はやっぱり死にたくない。
特別になるなんて無理だ。
普通の俺には普通が相応なんだ。
死にたくないし、確実な明日がほしい。
それでいい。
こんな状況なんだ、ここで逃げても誰も文句は言わないだろう。
「っ……」
俺は二人に背中を向けて走りだした。
日常へ戻るための出口へ。
その俺の背中で、水菜と理沙が何か話していたのも、聞き取りもせずに。
他の職員達に交ざって走ること数分。
「ペースが落ちてる」
「っ、うわっ、なんでここに!」
後ろから水菜に声をかけられて驚いた。
「まさか、倒したのか?」
信じられなかったが、他のエージェントが無事で力を負わせて倒したのかもしれない。
「いいえ。あなた達が確実に逃げられるよう、私がバックアップにつくことにしたの」
「なんで」
そんな事したら。
「じゃあ、理沙は……」
「エージェントになった時から覚悟はできてるわ」
心配じゃないのかよ、なんて聞けなかった。
心配じゃないわけないだろう。水菜を傷つけたくないという思いがあった。
だがそれとも、と思う。ひょっとしたら自分は彼女という保険が引き返してしまうことを恐れているのかもしれない。
そんな複雑な心境の俺を見てか、水菜は口を開く。
「私の名前は、苦流水菜。苦流というのは家名ではないの」
彼女は語りだす。己の生い立ちを。
水菜は拾われた子供だった。
衣食住を組織に保証してもらう代わりに、エ―ジェントとして戦うことを余儀なくされた。
彼女にそれ以外の選択肢はなく、来る日も来る日もナイトメアと戦う為だけに日々が消化される。
そんな生活がある程度経って、兼ねてより考えていた自分の苗字を決める日が来た。
水菜は苦しみと共に流れていく生活から自らの名前を、苦流と決める。
名前は自分を現すもの、ならば現実にそった名前をつけるのが一番だと思ったからだ。
「ずっと、私の毎日は苦しみしかないと思っていた。けど、あなたが……、私の容姿を褒めてくれたから」
「……え?」
「エージェント以外の私の生きる道を初めて見た気がしたから」
だから安心していい。貴方は必ず守る。
水菜はそう言った。
「それだけ……なのか? そんなんで」
自分の身を呈して、親友を置いていってまで俺を守ろうとしてくれるのか?
「それで十分。私にそう言ってくれたのは貴方が初めてだったから」
一体、彼女はどんな毎日を送ってきたというのだろう。
淡々とした口調の水菜の説明では、伺う事の出来ない何かがきっとたぶん、あるのだ。
「言っとくけどな。俺じゃなくったって、皆言うと思うぜ」
「そうだといい」
「そうなんだって」
だからそんな過剰に恩を感じたりする必要はないんだ。
こんな普通で情けない俺を守ってくれなくったっていいんだよ。
でも彼女にはそれを信じられる環境がなかった。
連れていきたい、と思う。
俺なんかの世辞がかすむくらいの世界を見せてやりたい、と思う。
ここを出たら、
色んなものを見て、聞いて、知らせて……。
でも、
『グ ル オ ォ ォ ォ ォ ォ ォ ォ!!』
そんな時間はどこにもなかった。
―――
それでも逃げる機会はあった。
けれどそこまで知ってしまったのに、逃げるなんて出来なかった。
結果はこのありさまだ。
一度見捨てたくせに、二度目は見捨てられなかった。
「っ……」
視界が暗くなっていく。
手足の感覚がなくなって。
世界が曖昧になっていく。
吐く息は白く凍っている。
辺りが冷凍庫なのだから当たり前だろう。
俺の力が発現したのだ。でも遅すぎだ。
近くで倒れているはずの彼女はどうなっただろう。
もう、……んでしまったのだろうか。
ナイトメアに挑んで敗れた。
皆死んだ。
結果はそれだけだ。それが結末。
何も残るものなんてない。
間違えたな、と思う。
一体どこで、なんて言わない。
分かりきったことだ。
馬鹿なことをした。
……ああ、最後まで俺、普通だったな。
……。
…………。
苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
誰かの苦しみが流れてくる。誰かの心が流れてくる、
耳を塞ぎたくなるような辛い声だ。そしてひっそりとその声に交じる声がある。
助けて。
身を引き裂かれそうな、苦しみの中、彼女は助けを求めていた。
「……」
俺はその苦しみにそっと寄り添う。
彼女の辛い思いが少しでも減るように、と寄り添い続ける。
それが何なのか、俺はまるで分からない。
今の状況がどんなものなのかも。
けれど。
せめて、最後だけは彼女に安らかに眠ってほしいから。
俺は彼女が苦しみから解放される時まで、そっと寄り添いつづけた。
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