33人が本棚に入れています
本棚に追加
「助けて……、福猫……」
自然と、その名が口から飛び出る。
しかし、いつものニマッと笑った顔はどこにも現れない。
今朝の感じだと、来ているはずなのに。
「福猫、どこかに隠れて見ているんでしょ? 出てきてよ!」
ポンッと、目の前に現れた。
「やれやれ、手の掛かる子だね」
「やっぱりいた」
空中に浮いたまま、四つ足を折り曲げて丸まるその姿は、猫そのもの。
「お願い、どうにかして。このままじゃ、私、歌えない」
「たくさん練習したんだろ。ありのままに歌えばいいのさ。変に恰好つけようとか考えない。平静を失わなければ、必ず歌えるよ」
「そんなつもりはないんだけど……」
心のどこかで、いい恰好しようと思っていたのだろうか。
絶対ない! とは、言い切れない。
小さいころから可愛がってくれた商店街のみんなの前で、初めて歌うのだ。
父に恥を掻かせてはいけないと考えれば考えるほど、歌詞を忘れたらどうしようとか、音程が外れたらどうしようとか、緊張してしまう。
青ざめたままの私を福猫が見かねた。
「しょうがないねえ。どれ、緊張が和らぐ指圧をやるから、手をお出し」
「こう?」
両手を前に出すと、福猫がクリームパンのような前足で、手首と手のひらの間をフミフミと押してくれた。
それがあまりに可愛いらしくて、思わず「プッ」と、吹き出した。
「どうだい? 落ち着いたかい?」
「ええ。すごくリラックスできた」
指圧と福猫のクリームパンが相まって、驚くほど肩の力が抜けて落ち着いた。
「ありがとう。もう怖くない」
自分の足でしっかり立った私は、マイクを握り締め、舞台袖で呼ばれるのを待つ。
魁が、「今日は嬉しい報告がみんなにある。ザ・フローイングクラウドに新メンバーが加入することになった。紹介しよう。エミ!」と、舞台上から私の名を呼んだので出て行った。
「ワー!」
大きな歓声が場内に響き、人々の動きが大きな波のように揺らいだ。
「待ってました!」
「エミちゃん!」
さっきまでの恥ずかしさはどこかに消え、自分でも驚くほど落ち着いて口上を述べられた。
「私のデビュー曲になります。赤いキャンドル。聞いてください」
それまでの激しいロックから一転、しっとりしたイントロが流れた途端、客席が恐ろしいほど静かになった。
「赤いキャンドル 灯火が揺れる~」
大勢の前で、切ない歌を堂々と歌い上げた。
中が一番盛り上がっている頃、外では兆と清太郎が受付を続けていた。
「なあ、兆。もし本当に来たら、どうやって止める? 制止といっても、体に触れられない。脅すわけにもいかない」
「相手が男なら、拳一発で済むのにな」
兆は、シュッシュとシャドーボクシングの真似事をした。
「暴力は絶対にダメだ! エミと魁たちに迷惑が掛かかる」
「じゃあ、どうやる?」
「説得しかないな」
「説得だって? ハッ! そんなことが出来ると信じているなんて、清太郎はおめでたいな」
兆は、鼻で笑った。
「そこまで言うか? 同じ人間。話せば分かるはずだ」
「予言しよう。あいつらに言葉は通じない」
清太郎は、驚いた。
「同じ学校の生徒だぞ。言葉が通じない訳ないだろ」
「あいつらは、理屈じゃなくて感情で動いている。だから、説得なんて無駄だ。こちらの話を聞いて、大人しく引き下がることは絶対にない」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「だから、ちょっと脅してやればいいんだよ。逃げかえるだろ」
「ダメだ。そんなことをしては、あとで騒ぎになる。やはり、説得しかない」
「それで引き下がるようなら、初めからこんな騒ぎなんて起こしていないだろ」
意見が真っ向から対立した。
福猫は、前足をなめて顔を洗う仕草をしつつ、背後で二人の言い合いを眺めている。
「ホホン……。人間とは、面倒な生き物だのう。おや? やってきたようだね」
いち早く、近づく脅威に気づく。
次に気づいたのは、兆だった。
兆は、清太郎と話しながらも常に警戒を怠らず、遠くから近寄る人影を見定めていた。
そこで、硬い表情の女子集団がやってくるのが見えた。例のファンたちだ。
「清太郎、ついに来たぞ!」
兆の声に、清太郎も目を凝らす。
「あれ、そうだ。ついに来てしまった」
グダグダ喋っていたから、まだ方針が定まっていない。
「どうする? 兆……」
隣の兆が、突然苦しそうに自分の顔を手で掴んでいる。
「ウウ……」
顔をゆがめて唸っているので、清太郎は心配になった。
「どうした、兆。体調でも悪くなったか?」
「違う……」
「変だぞ」
「やべえ……、やべえよ……、興奮してきた……」
「こんな時に?」
「こんな時だからだ」
手を離した兆の顔つきが、別人に変わっている。
「たまんねえ……」
興奮を抑えきれず、身もだえている。
つい先ほど、爽やかスポーツマンと言われた男とは思えぬ変貌ぶり。
これでは、暴走ファンを止める前に、こっちを止めなければならないんじゃないかと、清太郎は危惧する。
「くれぐれも、手荒な真似はするなよ。あと、その興奮を悟られるな。俺まで同類に思われたくない」
「分かっているって」
本当に分かっているのかどうか、怪しいものだ。
最初のコメントを投稿しよう!