幸福なデパート

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幸福なデパート

 ある夜のこと、一組の夫婦が巨大な建物を見上げていた。  先日このデパートが閉店し、明日の朝には改修工事が始まる。  その前に隣町に住む息子のところに行かなければならないのに、なかなかそこを離れられずにいた。 「私たちの生活の全てが、ここにありました」 「ああ、全てがここにあった」 「ここに決まるまで、色々なところに行きましたわ」 「ああ、色々なところに行った」  うんうんと頷いてひげに手をやる。 「あなたがここで働くようになって、生活も楽になりました。息子に娘たち、私たち子宝に恵まれましたから」 「子供たちもここが大好きだった」  夫は目を細める。 「五階のおもちゃ売り場、もう何も残ってないのね」 「お菓子をすくうクレーンゲームも取り外されていたよ」 「一日中歌うポップコーンの機械は苦手だったわ」  妻がそう言って顔をしかめる。 「四階の本屋も、大きな家具のあった三階もがらんとしていた」 「二階の服屋、一階の化粧品売り場。そう行くことはなかったけれど寂しいわね」  家族みんなが大好きだったのは地下の食品売り場だ。 「世界中の食べ物が集められていた」 「あなたのお土産は珍しいものばかりで、今でも忘れられないわ」 「時々みんなで行ったね。子供たちには大人しくするように言ってたのに、走り回って怒られたなあ」  懐かしいと顔を見合わせて微笑む。  その子供たちも大きくなった。しばらくは同じ家にいたが、やがてそれぞれが家庭を持ち、別の町や村に移り住んだ。  そして今回のデパートの閉店を知った隣町の息子夫婦が、一緒に暮らそうと言ってくれた。今のところよりはコンパクトだが、必要な物は揃っている。  早く行こうと思うのに、次々と楽しかった日々がよみがえって、足を止めてしまう。 「まだこんなところに。夕方うちに来るんじゃなかったんですか?」  いつまで待っても両親が来ないので、心配した息子が迎えに来た。 「思い出にふけっていてね」 「それは家に来てからゆっくり子供たちに聞かせてやって下さい。大きなカマンベールを持って帰った話や、僕たちを守るために警備員と格闘したお父さんの武勇伝を。明日になったら工事の人が大勢やって来ますよ。そうじ屋もね」  息子に促されたが、大事なことを聞いておかねば。 「きみの家には、例のアレ……おらんのだろうね?」 「アレって『猫』ですか?もちろんいませんよ」  息子は前足でひげをなでて、長いしっぽをくるりとまわす。  五階建のここは電器店になるが、食品売り場のない建物は彼らに用はない。  三びきのネズミはチュウと鳴いて、目の前に見える隣町の小さな食料品店に向かった。
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