第28話 第1部最終話・未姫の祈り

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第28話 第1部最終話・未姫の祈り

「あらあ、そうなの?いやですねえ」メグの告白に、美歌は優雅に白い手をひらひらさせた。 「でも考えてみてくださいな。お芝居の「愛と欲の蠱毒」なら、姫君は秘密を知ったとたんに殺されちゃいますけど、本物の未姫をそんな目に合わせようものなら、庶民には憎まれ宗教界にはソッポを向かれ、子々孫々まで悪逆非道の名が語り継がれちゃう。御家老だろうが他の国の偉い人たちだろうが、晴れて嫌われ者天下一になる度胸があろうとは思えない」 「そうかなあ」 「そうですよ」美歌は自信ありげにうなずくと、楽しそうに指を差し上げた。「えー、思わず長くなっちゃったけど、ここで年上の女としてぜひお伝えしたいことを謹んで申し上げます」  目の前の海上には特大の化け物が伴走中だ。考えたらすごい度胸だなとメグは思った。自分とは腹の座りぐあいが違うのだろう。 「ひとつ。まず全部ご自身で被らなくちゃって思わないこと。私はともかく、この船にいるのはできる人ばかり。遠慮なさらず頼って下さい。たとえ海獣に飲み込まれたりしても大丈夫。狐くんとお蘭ちゃんがお腹を裂いて出してくれます。クボさんもいるし」  とまでいって美歌は声を潜めた。「でも狐くん、絶対に見た目より若い。年寄りぶってるのが痛々しい。わたしより若いかな?無事に陸に着いたら、酔っ払わせて聞き出してやろう」 「お酒、飲むかしら」 「警戒心は強いかな。空き時間は素振りばかりだし。いやそれより、次」  美歌はまた指を差し上げた。「第二に、鐘になにかお願いなさるなら、メグ様に犠牲のないようお願いします。特に、命を差し出すから家来どもを助けよ、なんて頼み方は決してしないで。それは間違ってます。失礼を顧みずに申せば、傲慢というものですよ」  心にある考えを指摘され、メグは思わず身の竦む思いがした。 「私たちのことを想ってくださるなら、メグ様にはぜったい生きていただかないと。たしかに相手は未姫の生死ばかりを気にしている。ということは、もしお命になにかあれば、私たち家臣団の価値は暴落どころか邪魔にしかならない。だからそんな事態になったら、結果的にみんな死ぬってわけです」 「えっ、そういうものなのかな」 「ええ、そういうもの」とまで言って美歌は笑った。「われながらひどいことを言上していますね。世が世なら斬首だわ」  メグまで一緒に笑ってしまった。 「でもね、メグ様にはどうしても無事でいてほしい、そのためなら自分の命を投げ出しても悔いはないって、この船に乗る者はみな思ってます。お福さんは言うまでもないし、お蘭ちゃんもあの孔雪ちゃんだってそう。お蘭ちゃんは冷たく熱いすてきな女、あんな情に厚い娘が大切な人をなくしたら、絶対に自暴自棄になっちゃう。だからよくよく考えて」  声が聞こえたのか聞こえないのか、油樽に縄を結び付ける作業中だったお蘭がふたりに顔を向け、ニっと笑いかけた。美歌は片手をあげ笑顔を返したが、 「あ、そうそう。雪ちゃんの裏話はまだご存知じゃないですよね」と言って、メグの耳元に一歩顔を近づけた。孔雪本人は一心に望遠鏡をのぞいて黒狐たちの奮闘を見守っている。 「表向きは、いまや藤の国だけに存在する現役の祝祭人に仕え、神学の実務的研究を深めるため都から移ってきた。でも、事実は違うんです」 「?」 「都において開闢以来の秀才と讃えられた彼女は、それはそれは高貴な方のお世継ぎの御学友というか傅役にただ一人任じられた。学問を志す者なら身の震えるほどの光栄だし、将来の栄達も望むがままですよね。ところが、しばらくするとあの娘、『我が身命を捧ぐに値せず』って自分から相手を見切って退いちゃった。それで都にいられなくなって旧知の灘の方様を頼った」 「そうだったの……」 「なのに今は毎日とっても機嫌よく、貴方に仕えて充実しまくってる。自分をわかってくれる人に出会えるってそういうことなんだなあって思う。だから」  美歌は未の守り手を持ったままのメグの手を取った。 「わたしたちが絶望の中で死んでしまわないよう、メグ様はまず、ご自身の命を大切に考えて。そして、ごく気楽に鐘に頼んであげて。頼みごとをするのはいいと思います。ダメ元でもなんでも、どんどんなさって。わたしも現役の頃はおねだりが大の得意でした。代わりにしてあげたいぐらいですけど、こればっかりはね」  ついにメグは吹き出した。ふたりはしばらくの間、手を取り合って笑った。  そして、「そうね、そうします」と、メグはうなずいた。「まずは気楽に頼んでみましょうか。ダメ元のおねだりですね」 「ね、約束ですよ。それじゃ、気楽にいきましょう」  美歌は下がった。残されたメグは、微笑みを残したままふっと息を吐いた。そして、今度は清々しい笑顔になって、島のように大きい海魔の顔に向き直った。  –––– そうだ。失敗してもいいや。わたしは一人じゃないんだ。ここにいるみんなが一緒にいて、手伝ってくれる。  メグは大きく息を吸った。潮の香りをようやく味わうことができた。  気分が少し楽になれば、凄まじい迫力のある海魔の顔だって、親しく思えないわけではない。   メグは、その巨体からすればわずかでしかない距離へと迫った海魔に笑いかけ、美歌を真似してウインクもした。あいつが理解できたかはわからないが、ちょっとだけ楽しい気分にはなる。  ふたたび彼女は鐘を紐ごと両手に包んだ。海魔が巨体をうねらせ、尾びれを水に叩きつけた。その場で跳ねる感じだ。頭の上の司令船ががくがく揺れているのがわかる。水しぶきがメグの船にまで飛んできて、目に見えない障壁に当たって海にすべり落ちた。  –––– あら、頭でも痒いのかしら。掻いてあげたいけど、大きすぎるかな。  メグはあらためて大海魔について考えた。 (あの生き物は、強い呪いによって沢山の命を無理やり集めて生み出した不自然な存在。そしてどうやら、完全にひとつの意識へと統合されてはいない。心がいくつにも引き裂かれ、悲鳴をあげている。混沌というより、こんがらがって悲鳴をあげる、ただの混乱)  倉健の白い眼をメグはあらためて見つめた。  –––– そうだ、縺れた毛糸。  メグの脳裏に、言葉が浮かんだ。これが願いの手がかりとなるだろうか。  –––– 未の守り手は武器ではないし、懲罰をあたえる道具でもない。けれど。  上手に頼みさえすれば、もつれにもつれた心の糸を、ときほぐす手助けぐらいはしてくれるにちがいないとメグは考えた。  呼吸をととのえ、気分を楽に保ちつつ、守り手にささやきかける。 「未の鐘よ、守り手よ。そしてそれにつながるすべてへ。わたくしはいま、仲間と共に海の上にいて、大きな海魔に追われています」  メグは黒に近い灰色になった空を見上げた。「空は曇り、波は荒れています。乗っているのは祝福された妖精の船ですが、あとどれだけ力が続くかはわかりません。とても不安です。これをどうにかするには…」  ここまで言って、メグはさっきの美歌との会話を思い出した。 (そうだ。軽々しく己の命を差し出すなんて言っちゃだめなんだ) 「目前に迫る海魔がいて、それには操る者がいて、わたくしたちに害意を持っています。しかし、海魔がわたくしたちを憎んでいるとは思えません。混乱し、怒りを抱えたまま指示に従っているだけのように感じます」  メグは、こんがらがった毛糸玉をほぐすようなイメージを脳裏に浮かべた。 「でき得るなら、乱れた心をときほぐして怒りを鎮めたい。そして海に解放したい。ただ、わたしの能力では足りません。これに力をお貸しください」  暗い海の上には大海魔がいて、その先を行くクボの小舟には、海面から激しいしぶきが吹き付けている。おそらくミゲルの呪力による攻撃が行われているのだろう。助けたいと焦る気持を自覚しつつ、メグは落ち着くようつとめた。 「わたくしはこれから、友と鐘と共に、この荒れた波の上から穏やかな海へと抜け、先祖も暮らした土地、碧海の国へと向かいたいと考えます。いまこそわれわれをお導きください。わたくしはそれを」メグは目を閉じた。「鐘に祈ります」  海風にさらされているため、手に持つ鐘がほんのり暖かくなったのはすぐにわかった。ただそれは、彼女の体温が伝わっただけなのだろう。  待っていても別に海が割れもしないし、渦巻が海魔を打ちのめしたりもしなかった。雷だって鳴りはしない。  そのかわり、波が次第に穏やかに、吹き荒れていた風がやさしくなった。  そして海魔の速度も遅くなった。いまでは流している感じだ。  次第に黒い雲が薄れて消えてゆき、代わりに薄い色の雲がもくもくあらわれた。依然として陽は遮られているが、さっきよりずっと船上は明るくなった。  メグは倉健を見た。大海魔の白い目が動き、かすかに感情が伝わってくる。  内容はわからないが、とにかく戸惑っているようだ。そして牙の生えた大きな口を小さく開いた。  –––– まるで、夢から覚めたよう。 「お福、船の速度を落としても構いません」  驚いた顔をしたお福だったが、自信ありげにうなずくメグを見ると彼女もうなずいた。 「速度変更、微速前進」と船に声をかけた。  帆がゆったりと垂れ、船はさっきの半分以下の速度で進む状態になった。  暗かった空を映して黒く静まっていた海面に、波紋が広がるように明るさが広がって行った。追いかけるように雨が降ってきた。霧雨だった。 「雨だ」「あら、明るくなったのに降ってきた」  お福たちは空を仰いだ。いつのまにか白く垂れ込めた雲によって、海面に雨が降り注ぎ、船の上の彼女らを濡らした。 「槍は防いでも雨は防がないんですね」との美歌の言葉に、「船に宿る妖精に近いなにかが、降らせているのかも」とお福が言って、またメグにうなずいた。  海に異変がようやく起こった。海魔を中心に波紋が広がり、返してくる。  倉健の頭に乗った司令船に、激しく人の動きが起こった。  大海魔は、いまやメグたちの船と同様、ゆっくり流すように海上を泳いでいる。どうやら、術師連中の命令が一切反映されなくなり、慌てているようだ。 (あ、雨?雨が降ってきた。本物だ。どうしてだ)  クボの小舟と対峙する海蛇ミゲルからも慌てる気配が伝わってきた。 「空が乾燥しすぎだろ。あるいは、これがまことの霊力じゃないの」  黒狐の軽い調子の言葉に、ミゲルの顔がどす黒くなった。 「もういいか。重いし」黒狐はそう言うと、今度は外国語のように聞き取りにくい言葉をつぶやいた。髑髏たちが悲鳴を上げるように顎を開き、薄れてゆく。 (きさま、術を使えるのを隠しておったのか)ミゲルの思念が歪んだ。 「いや、これは基礎的教養の範疇だと思うよ」黒狐は困ったように答えた。  後方で舵を操作しながら、クボがつぶらな目をパチクリさせている。 「真の守り手の霊験を目の当たりにして、なにも感じぬとはな」  フラームの声刀のいやみなど無視するように、海蛇ミゲルは二つの頭をしばらく巡らせ倉健の様子をうかがっていたが、小舟の行手を塞ぐように上空に止まると、次に周囲を回りはじめた。徐々に速度が上がり、海水が巻き上がる。 (ながなが付き合ってきたが、もう飽きた。性悪の刀も我慢ならん)  ミゲルの意識が閃くと今度は空気が震えはじめ、巨大な圧力が黒狐とクボを襲った。念を集中させ、眼前の空間に力場を発生させたのだ。 (使い辛い長すぎの身体も、やればできる)海面が裂け、壁のような水柱が立ちあがる。小舟を囲もうとする力の壁が築かれ、荒々しい力が三方向から迫った。  そらそらそらそらそら、すりつぶしてやるぞおおおおおう  ミゲルの怒号を横目に、クボが伝えた。 (豪胆斎が怒ると出すという、決め技です。いったん回避します) 「なにもそこまで師匠の真似をしなくていいのに」  だが力場の圧はすさまじい。触れてもいないのに帆が裂け、帆柱が撓んで悲鳴を上げた。歯を食いしばって操船するクボにより、いったんは影響圏から脱出したが、ミゲルはすかさず小舟の進行方向に回り込もうとする。  水面がさらに激しく波打ち、丈夫なはずの軍用の船体が音をたてて軋むと、舵も帆も動きが緩慢になった。ミゲルの顔が喜悦に歪んだ。 (裏切り者め、死ね) (こういうのは表返ったというのっ)  クボは負けずに舟を走らせようと図ったが、念の直撃を受けて膝をついた。  黒狐が羽織っていた外套を投げかけた。「珍しい仙女王の護符付きだ。今まさにお孫さんが祈っておられるから、さらに霊験あらたかだよ」 (あなたを守るものがなくなる) 「もっと意地悪な霊が元から憑いててね。頼まなくても呪い返してくれる」  黒狐はクボを庇うように位置を変え、二刀を構えた。ミゲルが高笑いとともに蛇体を伸び上がらせ、力場が竜巻のように唸りを上げて襲いかかった。  黒狐の口元を覆う布がはだけ、金属らしき枷が口輪のように顔を覆っているのが見えた。まさに鉄の狐のようだ。 (おまえの首を塩漬けにして、故郷に送り届けてやろう。きっと喜ぶぞ」 「宛先不明で返ってくるさ」と言い返した黒狐の耳に、刀の声が届いた。 「差し出口を許せ。こやつはお前を殺したあと、おそれ多くも姫君の心を捕らえ、あまつさえ玉体に乗り移る気でおる。身の程を弁えさせろ」 「ともかく、ここで完全に滅ぼさぬといつまでも付き纏うぞ」 「わかった」黒狐はうなずいた。ふたたび二刀を顔の前に十字に重ね、吹き付ける念の波を受け流す。庇いきれない部分が裂けて傷つくのも構わず、黒狐は静かな表情のまま、海蛇ミゲルを見つめた。  視線に焦れて放たれた特大の力場を、クボが間一髪で舟を傾けて回避した。 (無事ですか?) 「ありがとう。斬るべき所は見えた」  こいつらああああああ  ミゲルの怒号がひどく遠く聞こえた。 「離れた敵を斬るにはどうすれば?」もっと遠くで、か細い声が聞いた。 「でないと鉄砲には勝てない。あと、妖魔にも」   幼い声は自分であるのに、黒狐は気がついていた。 「それは人には難しい。当たり前の修行では辿り着けん」  答えているのは、最初の師だろうか。  「すごく厳しい稽古を積むの?どれぐらい?」 「人でなくなるぐらいに」  強烈な念に身を固め突っ込んできたミゲルを見ても、黒狐は特に急ぐでもなく、ケーキを切り分けるような速さと丁寧さで刀を振るった。力場が斬り裂かれ、海蛇の胴に朱線が走った。ずれていく己の身体にミゲルが驚愕した。 (ありえない)(たしかこいつは魔剣を)(卑怯な)  クボが思いっきり船体を倒して断末魔の攻撃を避けたその瞬間、黒狐の身体は宙にあった。舟の勢いを利用して飛びあがりざま首を跳ね、次にミゲルの頭を縦に割った。とどめのひと振りがこめかみに食い込む直前、(呪われろ)とでも言いたげにミゲルの眼がにらんだ。黒狐は愛想良く小首を傾げたが刃は止めない。降下しつつさらに心臓を突きさえした。  クボが絶妙のタイミングで、落ちてきた黒狐を小舟に拾った。  しぶきをあげて海上に崩れた海蛇ミゲルの身体から、黒い瘴気が立ち昇りかけて、消えた。折からの海風が吹き飛ばした。 (完全に死んだ?) 「そのはずだ」  うなずくとクボは、舟に積んだ油を海面に浮いたままの海蛇にかけ、遠慮なく火を放った。炎によって妖気の名残が失せた死体は、すぐに波間に沈んだ。  海がゆっくりゆっくり、しかし大きくうねりはじめた。  蕭々と降っていた雨風が、次第に渦を巻き、メグたちの後方の空間をめぐりはじめている。水面から盛んに水蒸気が湧き上がり、大海魔は白い霧に覆われた。 「あっ、みてっ」お蘭が叫んだ。  半ば水面にあった巨大な海魔の身体が海中へと下降をはじめた。司令船にあわてたような動きが見える。このままだと海中に引きずり込まれるからだ。  男が二人、船から倉健の頭に降りた。一人は錫杖のようなものをつきたて、何かを念じはじめた。強制的に命令を聞かせようとしているのだ。  そのせいか、一度沈降の止まった大海魔は、ついには聳え立つ山のように水面に反り返った全身をさらした。術師が一人、派手な悲鳴をあげて海に落ちた。 「あら、やっぱり逃げた方がいいかしら」メグはのけぞる形になった海魔の特大の腹部を見上げ、呆れ声を出した。普段冷静な孔雪も小さく口を開き、海魔の様子を凝視している。  お福はすでに高速離脱を船に命じている。だがそれから十も数えないうちに、天高く反り返った海魔は、ゆっくりゆっくり海面に雪崩落ちてきた。  こりゃ失敗、巻き込まれるぞ。身構えたメグの前で海魔の身体そのものがぼんやり半透明になりはじめている。 (海魔を海魔たらしめている、妖術が解けつつあるんだ)メグは気がついた。  そして、それを受け入れるかのように海魔の落下地点の海が渦巻いた。  メグたちの船はかろうじて影響圏外に出て様子を見守った。思ったほど渦は広がらず、その一方で半透明になった海魔の巨大な体は、海に吸い取られるかのように静かに消えていった。  いつのまにか、波とは異なる音があたりに響いていた。  決して耳を聾する大きな音ではなかったが、身体の奥深くにまでしみるほどのちからがあった。その後、浮遊感とともに、音は数千もの人々の合唱のように洋上を渡って行った。  いまや海は、潮の満ち引きとは異なるゆったりした波に満たされていた。  雨はやみ、雲が切れはじめた。そして落ちようとする夕日が水平線に浮かび上がった。 「海が、大海魔を吸収してしまったのかしら」 「どうも、そうとしか言いようがありません」と孔雪も言った。  目を皿のようにして海面を見ても、あれほど大きかった海魔の姿はどこにもない。そのかわり、このあたりにいないような種類の魚が何十何百もまとまって水面に跳ねていたが、そのうちてんでに泳ぎはじめ塊はなくなってしまった。  倉健の頭にいた司令船も消えた。  いや、お蘭が望遠鏡で探すと、離れたところに牽引係の妖魔を失くした船体だけがただよっている。よろよろとやってきた萌の国の偵察艇が接近を図っている。 「まかせたよっ」彼女は遠くの船に声をかけた。  メグたちの船はすっかり沖に出ていた。あたりには漁船もなく、海鳥たちだけが船の近くに戻ってきた。 「はあ。大海魔、消えましたね。メグ様すごい」美歌が言うとお蘭もうなずいた。「ははは、我らが姫様バンザイ、守り手バンザイ」孔雪までが「姫様バンザイ」と唱和した。  軽薄な口調の女たちを睨んだお福だったが、すぐに口元に笑みを浮かべ言った。「まあ、メグ様のお力からすれば朝食前です。でも、依存はいけませんよ」 「メグ様っ、ご覧下さい」望遠鏡を交代した孔雪が海上を指差した。  小舟が戻ってきた。三角形だった帆は破れ、帆柱も傾いている。だが、クボと黒狐は背伸びでもするように大きく手を振っている。  メグも、大きく両手を伸ばして振り返した。 「ひひひ。また哀れな首が海に落ちたんだ。今度は二つか。そのうち、首塚をつくらなきゃね」お蘭が物騒なことを嬉しげに言うと、 「これでもう、あの二つ首の海蛇ちゃんに遭わないで済むと思うと、ほんのり幸せな気分がする」と美歌が言った。「あれはちょっと嫌だったかも」 「正直言うと、わたくしも」メグは繰り返しうなずいた。  孔雪は消えた大海魔に関心があったようで、船にあった網であたりを泳ぐ小魚をすくったりしていたが、少しの観察ののち、海へと戻してしまった。 「メグ様。二人を回収後、すぐに出発します」お福の声が響いた。 「目指すは碧海」 「はい、わかりました」 「はーい船長」ほかの者たちも返事した。  船に取り付けられた精霊指位盤の中で、人魚の像が斜め左方向を指している。  お福は少しの間、クボと黒狐の帰船を手伝うメグたちを満足げに見ていたが、急に気がついたように人魚を見た。  そして人魚に向けて片目をつむると、ふたたび舵をとって前進を命じた。  未姫の困惑 第1部・おわり
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