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必要悪の宴
『畏等、逝拝来、稀有主、交ス』
比奈夫の家は、胤待神社の敷地内に併設された一軒家だ。
両親から朝帰りの件でやんわりと怒られている比奈夫に感謝しつつ、こっそり開けてもらった窓の一部から室内に侵入した。
友人の家とはいえ、不法侵入には変わりない。
面と向かって比奈夫の親父さんに聞いたところできっと叔父さんみたいにはぐらかされるだろうから、できればゆるしてほしい。
神社の本殿ではなく、住居の奥の部屋に本はあるらしいので、あらかじめ聞いていた間取りに沿ってソロソロと歩く。
すると、薄暗い神棚の上に鎮座する本を見つけた。
皮の表紙に包まれたソレをおそるおそる手にとって、裏返す。
「わいら、いはいらい、けふぬし、かわす……か」
裏表紙の淵に沿って残された、鋭いもので引っかいたような傷跡がそう読めた。
ところどころ、それまで聞いていた文言と違う。
言葉の区切る部分、濁音の有無、【けふ】の解釈、【う】と【ぬ】の違い。
たった少しの変化なのに、その姿を大いに変える。
……意味はよく、わからないけど。
「えっと……」
大事な本らしいから、必要以上に触れてしまってはバレるだろう。
記憶力に自信のない僕は、スマホのカメラ機能を使おうとした。
「うわ!?」
アプリを起動した途端、けたたましく着信音が鳴る。
発信元は病院だった。
父さんの顔が頭をよぎったけれど、状況が状況なので慌てて電源を落とす。
しまった、マナーモードにするのを忘れていた……。
事態は最悪だ。
僕のいる部屋に向けて、三人分の足音が近づいてくる。
このままだと、非常にまずいことになるのが目に見えた。
咄嗟に手にした本を服の中に隠して、一番近い窓から外に飛び出す。
ちょっと高さのある窓だったけど、上手く受け身をとれたおかげで擦り傷ぐらいですんだ。
そのまま、できるだけ姿勢を低くしてその場から走りだす。
後方から、比奈夫の親父さんの狼狽える声と奥さんの悲鳴が聞こえる。比奈夫は二人をなんとか宥めようとしているらしい。
ちょっとだけ振り返ると、比奈夫が後ろ手で僕が逃げた窓の鍵を閉めている姿が見えた。
何度も心の中で感謝をして、僕は息も絶え絶えに神社の敷地内から抜け出すことに成功した。
「……はあ、はぁ……で、でもこれ、どうしよう」
間違いなく窃盗だ。
いつも叔父さんの手の中にある本だけど、こうして自分で持つのは初めてだ。
試しにちょっとだけページを繰ってみる。
巧みな筆跡で何枚も、中心の穴を避けて人名がぐるりと配置されている。
特に不自然なところはないように見えたけれど、表紙の折り返しの部分になにかが挟まっていた。
「え……?」
それは、古びた折りたたみナイフだった。
誰かの血がベッタリと張り付いて錆びきっているから、上手く折りたためないらしく刃先には黄色に変色した包帯が巻いてある。
「ッ!?」
驚いて本ごと取り落としそうになったのを、なんとか堪える。
や、やっぱりこんなものをヘラヘラと返しに行けない……。
僕はまた本を服の中にしまって、不自然な格好で足早にその場を立ち去った。
***
家にたどり着くとすぐ、服の中の違和感を食卓に放り出した。
そのまま冷蔵庫から水を一気に飲んで、ようやく少しだけ人心地つく。
混乱する頭でとりあえずスマホを取り出して電源を入れたら、そこには着信履歴の山が表示された。
病院と、真子の名前が交互に並んでいる。
文字を読んでいる間にもかかってきた電話をとる。
「も、もしもし……?」
「あっ! 越生くん!? よかった、繋がった! いま、どこにいるの?」
「いま? 自分の家、だけど……」
まさか盗みを働いた後であるとは言えず、乱れる息を悟られないように答える。
「あのね、お父さんが目を覚ましたの」
「父さんが!?」
「そう。だからね、はやく病院に……」
真子の言葉を最後まで聞かず、電話を切った僕は玄関で脱いだばかりの靴に片足を突っ込んだ。
でも、そこで盗みたての本のことを思い出す。
まさか食卓に放置していくわけにもいかないし、持ち歩くのもおそろしい。
一瞬の迷いの後、本を掴んで二階の物置部屋に向かう。
そこが一番、本を隠すのに相応しいと思った。
階段を一段飛ばしに登る。
あれだけ薄気味悪さを感じていた場所だったのに、父さんが目覚めたという知らせを聞いたせいかあまり気にならなかった。
今の僕の目から見た部屋は、段ボールが積まれた何の変哲もない場所だ。
目に付いた段ボールの中に本を入れる。
僕が、小学生の時に使っていた教科書が仕舞われている箱だった。
それからまた階段を駆け下りて、軽トラに乗り込む。
安全ぎりぎりの運転で病院の前まで来ると、すでに門の前で真子が待っていた。
「真子! 電話、ありが、と……」
特徴的な赤茶けた髪が振り返る。
でも、その髪はスポーツ選手のようなベリーショートになっていた。
最後に見たときは、肩よりも少し長いぐらいだったのに。
「ま、真子、どうしたのそれ……」
「これ? あぁ、切っちゃったの。でも今はそれどころじゃないでしょ。越生くん、はやくお父さんのところに行ってあげて」
ぎゅ、と父さんの病室へ繋がる鍵を手渡される。
父さんは普通にエレベーターを使うだけではいけない部屋に入院しているから、いちいち鍵を借りないといけないのだ。
「ありがとう……えっと」
「アタシのことは気にしないで。あとで、お話聞いてね」
「うん、もちろん。……その、短い髪も似合ってるから!」
短いお礼を述べて、真子の元を後にした僕は急いで父さんの病室へと向かう。
「父さん!」
転げ込むように病室に入ると、上半身を起こした状態の父さんが静かに窓の外を眺めていた。
入院期間中に伸びきった髪を無造作に後ろに撫でつけて、痩けた頬と曲がった背骨。
ゆっくりと僕に視線を向けた父さんの瞳は、想像よりもしっかりと意志の力が宿っていた。
「………」
それでも、黙ったままの父さんに僕は駆け寄る。
「よ、よかった……。目が、覚めて……」
父さんの下半身は、相変わらず沈黙したままだ。
きっと、元通りになることなんてない。
だけど、まだ、生きてる。
たくさんの管に繋がれた身体も、時間をかければいずれ離れていくだろう。
そんな希望を持てるのも、意識が戻ったからだ。
事件から半年、無意識に張っていた精神の糸が切れたのか、僕はベッドにすがりつくように膝から崩れ落ちた。
「えつお」
しばらく時計の秒針だけが響いていた病室で、カラカラに籠もった声で僕の名前が呼ばれる。
「ああ、べつに無理して喋らなくても……」
普段から異常なほど無口だから、静寂には慣れていた。
父さんが僕の名前を呼ぶのなんて、いつぶりだろう。
とても懐かしくて、あたたかくて、うれしくて、知らないうちに目頭が熱くなってしまった。
「あ、アレ? おかしいな、なんか、安心したら涙が……」
喜ばしいことのはずなのに、涙があふれてとまらない。
親の前とはいえ、泣き顔を晒すのはちょっと恥ずかしい。
着の身着のまま出てきてしまったからハンカチのひとつも持っていない僕は、服の袖で涙を拭った。
父さんはそんな僕の様子をジッと観察している。
「……とう、さん?」
父さんの瞳は、怪我人とは思えないほどとても力強い。
その視線の奥には、常に僕に向ける見守りの感情以外が隠されているような気がした。
「越生」
もう一度、今度はしっかりといつもの声色で言う。
拭ったはずなのにまだ溢れる僕の涙を、父さんは細く衰えた長い指で掬った。
「ただいま」
僕は毎日、父さんがどんなに遅くなっても家に帰ってきてくれることを最大の縁として、それで満たされていた。
だから、それが途切れてしまうということは……自分が思うより不安でさみしかったらしい。
「……おそいよ、父さん」
この不在期間は、とてもとても長かった。
叔父さんがいなければ、とっくに投げ出して荒み切っていただろう。
……そうだ、叔父さんだ。
「倫他は、どこにいる?」
「えっと、叔父さんは……」
僕と叔父さんの間に起きたこと、見聞きしたことをどう病み上がりの父さんに伝えるべきか迷う。
だけど父さんは僕の頬を長い指で包みながら、限りなく押さえた声量で問いかけた。
「まだ、生きているか?」
「え……?」
「お前はどこまで、小籠の家を知ってしまった?」
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