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叔父さんの元カノ
「う、うそ……?」
嘘。
他者を騙すときに使う言葉。
事実ではないこと。
この場合、比奈夫の言っていた『叔父さんは生人剥の犠牲になってイナエタになった』という箇所が誤り……と、いうことなのだろうか。
「はい。物心ついた頃から、私の左指は全てありませんでした。当然、周囲に訊ねます。どうして私の左指は……、と。そうしたら、生人剥のことを聞かされました。でも、身体を砕いて胴体を埋めるなんてあまりにも……お粗末すぎると思いませんか? まるで、聞き分けのない子供に仕方なく聞かせるお伽噺です」
「いや、ちょっと僕に呪いの判別は……」
「呪いというモノは、本来、豊作及び豊漁の祈願や祈祷が主な役割でした。雨乞いのための生贄などが良い例ですね。集団生活を潤滑に進めるための秘術が、いつの間にか特定の個人への恨みや妬みの念を司るようになったのはいつから、なの、か……」
「………」
叔父さんの話に聞き入っていたら、唐突に語尾が小さくなって途切れた。
不安げに眉を顰める叔父さんを見て、僕はハッとする。
「……あっ! 大丈夫! 別に飽きてるわけでも興味がないわけでもないから!」
「……いけませんね、自分の得意なジャンルだとつい際限なく喋りすぎてしまいます。簡単に言うなら、呪いを隠すには呪いの中、ということでしょうか。私は、生人剥は本当の呪いの隠れ蓑だと考察しました」
「隠れ、蓑……?」
「広く世間に出回った時点で、呪いはすでにその役割を終えています。役に立たなくなったものが、手放されるだけですから。秘中の秘は隠されてこそ、威力を発揮するのです。私の左指の行方を探そうと思ったら、禁忌とされた民族口承を辿るしかありませんでした。高じて、それが仕事になったのはありがたいことですけど」
「そうなんだ……」
ちょっと変わった叔父さんだから、ちょっと変わった話が好きで、オカルトライターなんてやっているのだとばかり思っていた。
叔父さんとの付き合いはもうじき20年を迎えようとしているけれど、今日は初めて知ることばかりだ。
叔父さんのことはずっと大事に思っていたはずなのに、どうして今まで私的な情報を全く知らなくても平気だったんだろう。
「私の左指については、お兄さんも積極的に協力してくれました」
「父さんが? でも、だって叔父さんは父さんとは……」
「確かに、喧嘩別れした過去はありましたけど……それもまた、仕方のないことだったのです。お互い、若かったですから。えっちゃんには黙っていましたが、時々、今のえっちゃんみたいに私のことを送迎してくれていたんですよ。異母兄弟である私の身には余るほど、お兄さんは深い慈悲の心で接してくれました」
半年前に入院したきりの父さんの姿を思い浮かべる。
銀色が混ざりだした髪を後ろに撫でつけて、ひょろりと高い身長を自信なさげに丸めて歩く姿を。
とにかく無口で、喋らないことが当たり前だったから父さんの心の内なんて覗いたことはなかったけれど、叔父さんの話が本当なら、今後はちょっとだけ見直せるかもしれない。
「お兄さんは私の大事な兄弟ですから、その子供であるえっちゃんもまた、私の大事な甥っ子なんです」
全指健在の右手を僕の左手にソッと添えて、叔父さんは僕が良く知る笑みを浮かべる。
いつも、僕を見やるときの表情だ。
慣れた仕草に、ようやく僕は緊張が解けた。
「叔父さん……」
「だから、この話はここで終わりにしましょうか」
「えええっ!? なんで!?」
ここからが大事な話なのに!?
「なんで……と、言われましても……」
叔父さんは僕の大声に驚いたのか、重ねた手をビクッと遠ざけた。
「もうこれ以上、えっちゃんを巻き込みたくないんですよ。望まぬ『わらみみ』を見せてしまったのは大変申し訳なかったですが、あの時はちょっと焦っていたので、すいません。だけど、もう大丈夫ですから。知らなくていいことまで識ってしまう必要はありません。えっちゃんは何も心配せず、今まで通りに生活して下さい」
「いや、あの……だからさ……」
幼子に言い聞かせるように、叔父さんはひどくゆっくりと言葉を紡ぐ。
「わらみみわらはなわらくちわらめ……」
今度は僕が肩を震わせる番だった。
「この一週間、『わらみみ』の顔を思い出してイヤな気持ちになったでしょう?」
「そ、それは……」
「お化け屋敷の入り口で怯えてるような子供を、無理矢理引っ張って連れてはいけません」
僕は言葉に詰まる。
そりゃ、好き好んで面倒な出来事に首を突っ込む必要はない。
でもそれは……出来事の渦中に居る相手にも、依る。
叔父さんへの迫害を看過してまで、自分の平穏な日常を護ろうだなんて思っていないのに。
間近で触れた本物の『呪い』の片鱗に、僕は足が竦んでしまっていた。
叔父さんはただ優しく微笑んで、僕を置いて立ち上がろうとする。
なにも言葉は思いつかないけど、とにかくまだ引き留めようと手を伸ばしたその時。
「おーい、倫他。ウチのパンツどこにやった? まーたベッドの下でも蹴飛ばして……」
僕らが居るリビングに、叔父さんを下の名前で呼ぶ乱れた黒髪おかっぱ頭の小柄な女性が入ってきた。
はじめて見る顔だ。
もちろん、相手も僕を見てひどく驚いている。
そういえば、さっきのお茶もチョコレートも誰かにもらった、と言っていた。
誰からもらったのかな?と疑問だったけど、きっと送り主はこの人なんだろう。
化粧っ気のない童顔の美人で、裸足に薄い素材の着衣。
ワンピース型のペチコートは丈が短く、膝小僧のすぐ上で揺れている。
「……ど、どうも……」
凍り付いた空気の中、僕は堪らず先に頭を下げた。
もしかしなくても……つまり、そういうことなのだろう。
「あ、あぁ……えっちゃんは初めて会いますよね? 彼女は赤間加々美さん。私の元カノです」
「へっ!?」
「あら倫他、ヤることヤっといて元、はないんじゃないの?」
落ち着きを取り戻したらしい赤間さんは、腕を組んで仁王立ちしてニヤニヤした表情を浮かべる。
「でも、事実ですから」
「ウチもお前も、今や右手が恋人だものね。そりゃ、物足りなくもなるわ」
「あー!! ちょっと加々美さん! えっちゃんの前で下品なこと言わないでください! そういうところ、本当に改めたほうがいいですよ。もう良い歳なんですし」
「うるさいわね、余計なお世話よ。倫他だってウチと同い年のくせに」
同い年!?
ということは29歳か……。
赤間さんは身体のサイズも相まって、見た目だけなら僕と同じかそれ以下に見える。
一瞬、叔父さんがある種の犯罪に手を染めてしまったのかもしれないと思って焦った。
まぁ、叔父さんだって曲がりなりにも男なので……と、赤間さんに釘付けになっていた視線を叔父さんに向けると、耳まで真っ赤にして狼狽えていたからまたこれまでとは別の意味で驚いた。
いつもは飄々と落ち着いて物事をこなす叔父さんが、こんなに動揺するなんて。
……なんか、ちょっと意外だ。
「えっちゃんが帰るまで、部屋から出てこないでって言いましたよね?」
「そうだっけ? 寝ぼけて聞いてなかったわ」
赤間さんは僕をチラリと見て、「見苦しい格好でごめんなさい」と一言断ってから再び寝室へと消えた。ゴソゴソと、微かに身支度を整える音がする。
「えっと……叔父さん?」
「あー……、その、うん、まあ、そういうことですけど、あの、えっちゃんはその、もっとこう、異性とは順序を守った健全なお付き合いを……して、くださいね? 私はもう、手遅れなので……はい」
しどろもどろになりながら、右手で赤らんだ顔を覆いつつ叔父さんは言う。
その姿を見て、僕の心はほとんど決まった。
叔父さんは、やっぱりただ左指がないだけの普通の人で、僕の家族だ。
たとえどんな理由があっても、理不尽に軽く扱われて良い存在なんかじゃない。
僕は、運転以外でも叔父さんの力になりたい。
叔父さんが探し求める左手のための呪いに、僕もついて行こう。
僕はこの時、叔父さん……小籠倫他に深入りすることを決めた。
たとえ自分の日常が、崩れ去ることになっても。
……まぁ、そう簡単には日常なんて崩れないでしょ、たぶん。
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