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否穢多【イナエタ】
身支度を整えて再び現れた赤間さんと入れ違いに、叔父さんが外出の支度をするから、と部屋から出ていった。「加々美さん、絶対に、余計なことを言わないで下さいね?」と言い残して。
先ほどとは打って変わって小綺麗なワンピース姿でちょこんと僕の隣に座る赤間さんは、まるでさっきとは別人のようだ。黙っていれば僕の同級生ぐらいに見える。
「やあ改めてはじめまして。先ほどは失礼したね。ウチは赤間加々美。職業は拝み屋よ。まあ、きみとは初対面ではないんだけど」
でも、口を開けばやっぱり最初の印象通りつかみ所のない女性だった。
「……どこかでお会いしましたっけ?」
「ファミレスで姿を見たわ。ウチは藤堂の家庭教師なの。一人娘と随分仲が良さそうだった」
「あぁ……まあ、仲は、いいですけど」
真子と話をしていたとき、真子の席から覗いていた黒髪は赤間さんだったのか。
いやはや、ここは本当に狭い町だ。
「あの、拝み屋って……?」
聞き慣れない職業に思わず好奇心が疼く。
「どの宗教にも属さずに、賃金に応じて顧客を祓い呪う、民間信仰の専門家よ。無資格だから、僧侶や神職からは疎まれることが多いわね」
「へぇ……そんな仕事があるんですか」
「倫他の仕事が民俗口承収集だからね。ウチの仕事と相性がいいのよ。古くからの付き合いだったんだけど、きみが生まれたから別れちゃった」
「えっ? 僕が?」
赤間さんはローテーブルの上で開けたままになっていたアーモンドのチョコレートをひとつ摘む。
小さな口に押し込んで、これまた小さなほっぺたを膨らませて言った。
「まあ、もう昔の話よ。それより、きみ、危なかったわね」
「危ない……ですか」
「そうよ。ウチが割り込んでなかったら、あっさり倫他に絆されていたでしょ」
「ほ、ほだ……?」
「ダメよ。倫他は、きみが思っているほど清廉潔白でも聖人君子でも天衣無縫でもないんだから。哀れったらしく品を作って憚らないし、目的のためなら誰とでも寝る男だし」
チョコレートを丸飲みするように次々と口に放り込んだ赤間さんは、しばらく口をモグモグと動かして長い咀嚼タイムに入った。
その間に、僕は赤間さんに言われた言葉を必死に噛み砕く。
えっと……どういう、ことだろう?
思考が追いつかない。
「人誑しには、気を付けなさいってこと」
ゴクン、と大きく喉を鳴らしてチョコレートを呑み込む。
そして、僕が半分ほど残していた煎茶を横取りして一気にあおった。
「はぁ、美味しい。この家にはなんもないから、嗜好品は毎回持ち込むしかないのよね」
「………」
「どうしたの? 鳩が豆鉄砲喰らったような顔をして」
初対面の女性の奇行と予想外の言動を受けて、呆気にとられている僕を赤間さんはまるで意に介さない。
「『わらみみ』の抜け殻はここじゃない遠い場所で見つかったでしょ? 遠方の術者が、なんで日胤村までわざわざ来て呪いの儀式なんてしたと思う?」
「………」
「倫他が、唆したからよ」
「………」
「全く、凡手ばかり打つんだから」
グルグルと僕の思考が回る。
叔父さんは……呪いの被害者だ。
失った指の行方を探すために、日々奔走している。
その中で身につけた知識で、自然と人に頼られている。
ただ、最近はその頼られ方に少々承服できない部分を感じるから、僕はこれまで気にも留めなかったことに興味を持ってしまった。
叔父さんは……いったい、どんな人なんだろう? と。
僕の中で、叔父さんはちょっと変わった、でも気の良い叔父であり兄であり父代わりであり……で、それだけだ。
叔父さんの詳しい仕事内容も知らないし、友好関係なんてもってのほか。
叔父さんは、僕の人生経験や友人関係をほぼ把握しているのに。
それは、僕が自分から進んで話すせいもあるんだけど……。
僕は、叔父さんが何を考えているのか、全く分からない。
分からないくせに、『家族』として一方的に依存していた。
なんの疑問も抱かずに、ただそういうものだとして。
「……それ、でも」
喉の奥で、本人の前では渋滞して出てこなかった言葉をなんとか捻り出す。
「ん?」
「僕は……叔父さんのこと、信じたい、です」
今、知らないのなら……これから、知っていけばいい。
周囲からは叔父さんの良い話はひとつも聞かないけれど、僕の中では一緒に食卓を囲んだ思い出や、僕を『えっちゃん』と優しく呼ぶ声や、慈しむような左右非対称の眼差しや、遠い昔に頭を撫でてくれた姿こそが『叔父さん』なんだ。
「誑かされてなんか、ない」
どうか、僕の大事なひとをばけものみたいに忌避しないでほしい。
好きな人が虐げられるのを観測して喜ぶ趣味趣向は、僕にはない。
「……ウチみたいな部外者にいきなり言われても、そりゃそうなるわね」
しっかりと眼を見て宣言したら、赤間さんは肩を竦めた。
「いや、あの……別に赤間さんのことを否定するわけじゃ……」
「いいの、いいの。気にしないで。言いつけ通り、もう余計なことは言わないわ」
赤間さんは空になったチョコレートの空き箱を小脇に抱えて立ち上がる。
そのままスタスタと玄関に歩いて行ってしまった。
「す、すいません……気を悪くされたなら……」
しまった、叔父さんの友達なのに失礼なことを言ってしまったかもしれない……。
「大丈夫大丈夫。きみは良い子供だね。今時珍しいぐらいだ。こわいことは、ぜんぶ大人に任せておけばいいのに」
鞄の中からサンダルを取り出して突っかけた赤間さんは、三和土で僕に向き直る。
「ウチだって、これでも倫他のことは嫌いじゃないから」
「………」
「自分で決めて、自分で引き受けることなら、ウチは何も言わない」
じゃあまたね、と赤間さんは艶やかな黒髪を揺らして出て行ってしまった。
あの悪路を小柄な身体で歩くのは骨が折れるだろう。
僕の軽トラックでよければ最寄り駅まで送っていきましょうか、という提案が中途半端に伸ばされた右手から溶けていく。
「えっちゃん」
叔父さんの声がして振り返る。
「あれ? 加々美さんはもう出てしまいましたか?」
「う、うん……」
「ごめんなさい、ビックリしましたよね。あの人は気紛れな人だから……振り回してしまって、すいません」
仕事用の革の鞄を肩から下げた叔父さんは、バツが悪そうに右頬を掻いた。
いつもの姿に安心する。
叔父さんの二面性を忘れたわけではないけれど……でも、人誑しだなんてとても思えない。
たとえ『わらみみ』を唆したとして、きっとそれには意味があることなのだろう。
僕は赤間さんから聞いたことをソッと胸の内にしまって、運転手としての職務を全うすることにした。
「大丈夫だよ、謝らないで。今日は、どこに行く?」
「また、上中神社に行ってくれますか? それと、軽トラックの荷台に積んでほしい品物があります」
「オッケー。どこにあるの?」
「庭の方に出しています。運んでもらえますか?」
叔父さんに案内されて庭に回ると、そこには小さな段ボールが一つあった。持ち上げてみると意外に重くて、よろけながら荷台に乗せる。
「なに? これ……」
「使わなくなった仕事道具です。また、えっちゃんの家に置いてもらえると助かります」
叔父さんの家にはモノが少ない。
でもそれは叔父さんが片づけ上手というわけではなく、ただ単に物欲がないのと、いらなくなったものを僕の家に置いているからだ。
僕の家は元々、四人暮らしを想定して建てられたものだから、当たり前に叔父さんの部屋がある。誰も使わないその部屋は、叔父さんの物置き小屋と化していた。
「わかった。じゃあ、このまま貰っていくね」
「よろしくおねがいします」
深々と頭を下げる叔父さんを制して、一緒に軽トラに乗り込む。
他愛もない会話をポツポツと交わしながら車を走らせていると、すぐに上中神社に着いた。
今日は比奈夫の姿はない。
革の鞄から、これまた革で覆われた本を取りだした叔父さんはヒラリと降りると、1人で境内へと向かった。
乗るときは手を貸すことを望むのに、降りるときは1人で行っちゃうんだよなぁ。
つい、いつもの癖でシートを倒して叔父さんの帰りを待つ姿勢をとったところで、我に返った。
いや、違うって。
ここで追いかけないと、いつもと一緒だ!
「叔父さん!」
慌てて運転席から降りて、ユラユラと歩く叔父さんの後を追う。
健脚な叔父さんに追いつくにはちょっと走らないといけなかったけれど、立ち止まって待ってくれたからそんなに息は上がらなかった。
「どうしましたか?」
「ぼ、僕も……」
ついていって良い? と、訊ねる前にいつの間にか背後に神主が立っていた。
「遅い」
神主は叔父さんが右手に持つ本を乱暴に取り上げると、吐き捨てるように言った。
「約束の時間も守れないなど、全く、育ちが知れる」
それから大股で本殿へと向かっていく。
……あれが、いつも一人息子の比奈夫を愛おしく見守る親父さんと同一人物なのだろうか。僕には信じられない。
僕には控えめな会釈と朗らかな笑みを返す人が、どうして叔父さんにはあんな態度なのか……。
「……っ」
一言、なにか言ってやろうかと思ったけれど何も出てこなかった。
つくづく僕は、肝心な時に何も言えない。
「……えっちゃんは、気にしなくても良いですよ。大丈夫ですから」
何かを察したのか、叔父さんは僕の肩を叩いた。
その表情は、僕には無理して笑っているように見えて辛かった。
「そうだ、久しぶりにえっちゃんの家に入れてくれませんか?」
殊更に明るい声を出す叔父さん。
「僕の家?」
「ちゃんと一人暮らし出来ているのか、チェックしてあげます」
「……叔父さんほど、爛れた暮らしはしてないつもりだけど」
「なっ……!? ……どっ、どこでそんな言葉を覚えてくるんですか!?」
「あはは、そりゃ、僕だってもう子供じゃないんだし」
叔父さんが下品な語彙に面白いぐらい動揺する姿を見るのは、ちょっとだけ楽しかった。
叔父さんの中では、僕はまだまだ小さな子供なのだろう。
なんだかむず痒いような、それでいて安らげるような心地がした。
***
「………」
神棚に恭しく奉られた、不気味な革で出来た本。
何枚もの古い紙の束を重ね合わせて、革でくるんだだけのソレは果たして本と呼ぶには程遠いのかもしれない。
「比奈夫、触ってはいけないよ」
昼頃に起き出して、まずは顔でも洗おうかと悠々と廊下を歩く上中神社の一人息子、上中比奈夫は異質な本に興味を惹かれて引き寄せられた。
無意識に手を伸ばして触れる直前、父親からの注意を受ける。
「なんでだよ。てか、なに? この不気味なヤツ」
「預かり物だから、気をつけるように」
「わかってるよ、触らないって」
「それが良い。イナエタには、触れない方が良い。さあ、今日は何限からだ? 送ってあげようか?」
「いいよ、俺も車あるし。……それより、親父、さっき、なんて言った? イナエタって……なんだ?」
友人と分担した持ち分ではないものの、思いがけず父親から聞き出せたキーワードに、比奈夫は迷い無く食いついた。
「なんだ、そんなことが知りたいのか? 神主を継げば、イヤでも知ることになるのに」
「じゃあいいじゃん、今教えてよ」
ここ最近の疑問を解決する糸口を逃すまいと、前のめりに詰め寄る。
父親は息子がとうとう家業に関心を持ったのかと思い、嬉しそうに教えた。
「否穢多は、みんなが幸せになるための呪いだ」
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