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片翼の鴉
ひさびさに降りてきた里は、たくさんの楽しそうなものであふれていた。
なかでも目を引いたのは、子供たちの行列だった。
夕暮れと夜が混じり合う空の下、とりっくおあとりーとと経文を唱えながら歩いていく群れ。あおがらすは少年の姿で、列の一番後ろに混じった。経文の意味などさっぱり分からぬが、どうやら今日は祭りで、そこに並んでいればきらきらしたものを貰えるらしい、と気付いたからだ。ぴかぴか輝く綺麗なものは鴉だった頃から、あやかしとなった今でも好きだった。
「はい、どうぞ」
思惑どおり、あおがらすはきらきらのちいさな何かを手渡された。若い女が、悪意のなさそうな柔らかな声で、「べっこうあめだよ」と笑う。月のように輝く黄色いそれが食べ物らしいと知って、腹がぐうとなった。
――きれいなだけでなく、食えるなんて。
あおがらすは逸る気持ちを抑えて『べっこうあめ』をいじり回した。どうやら、透明でつるつるした皮を剥けば中身が食べられるようだが、うまくつかめず、するりと逃げる。
困惑しているあおがらすに差し伸べられたのは、白い手だった。顔を上げると、『べっこうあめ』をくれた人間が、微笑みながら言った。
「よかったら、開けてあげようか?」
細い指が、器用に皮を剥がす。それは外側のきらきらを剥いてもなお光り輝いていて、あおがらすは嬉しくなった。人間から、あおがらすの手のひらに、黄金色の塊がうつる。
「食べたこと、ない? 普通に、こう、舐めるんだけど」
ぽいっと、口の中に入れる動作をして、人間はそう言う。
「おいしいよ、甘くて」
――あまくておいしい?
どれくらい甘いのだろう。できがいい年の木苺くらい? 秘密の林に生えている、とっておきの山桑ぐらい? それとも、ヒトの畑で失敬した熟れかけの林檎くらい?
あおがらすは勧められるがまま、ちいさな月を口に放り込んだ。舌の中ほどにおさまったそれを、上顎と舌とで転がす。最初は固いと思った感触は、徐々に丸みを帯びていく。
とろり、取れた角が溶けてゆくと、これまで経験したことのない味が、あおがらすの舌の上ではじけた。
どんなに熟れた果物も敵わない甘さは、口の中で暴れているのではないかと思えるくらいにつよかった。心臓がどきどきと痛いほどに弾み、あおがらすのからだは頭のてっぺんからつま先まで、その甘さで、まるで痺れるようだった。そして涙が出るほど旨くて、実際、堪えきれずに目の端から雫が零れた。
「だ、大丈夫? 具合が悪い?」
『べっこうあめ』をくれた女が、うろたえている。黒い目をぱちぱちとまばたかせ、おろおろとあおがらすを見つめている。どうも、困らせているらしい。何か言わなくては、そう思った唇から、たった一言。
「うまい」
あおがらすは久しぶりに、人間相手に人の言葉を喋った。自分はこんな声をしていただろうか。ここしばらくは喋ることなどなかったから、思いのほか高い声に自ら驚いて、口を噤む。そうだ、子供の列に紛れるために、子供の姿をしていたんだっけ。後からそう思い出す。
「よかったあ」
女は目を細めて、笑った。山桜が綻ぶかのように明るく変化した表情に、あおがらすの心臓がはねた。さっきあまい月を食べたときよりも、つよく、つよく。体から飛び出してしまうのではないかと思うくらいに。
なぜか、ここにいてはいけない、と感じた。体の底にまだ残っていた鳥の本能が、早く立ち去れと叫んでいるようだ。急かされるように、飛び立とうと紫色の空を見上げた。いまは鳥ではなく人の姿になっていたし、女の目の前だったけれど、構わず翼を出した。背中からばさばさと羽が生える様子を、女が驚いて見つめている。風切り羽の先の先まで伸びきったのを感じて、あおがらすは地面を蹴った。
しかし、体は浮かなかった。
低く飛び上がった体がぐらりと傾いて、あおがらすは膝から地面に落ちた。まっすぐ立つことすらできずに、がくりと膝を突く。黒い石で固められた地面が、あおがらすの肌を容赦なく傷つけた。
おかしいと首をひねるより先に、体に感じた違和に振り返る。肩越しに見れば、翼が片方、無くなっていた。
「ない、つばさが、ない……」
そう呻くように言って、あおがらすの意識は、そこですうっと遠のいた。
◆◆◆
目覚めると、あおがらすは柔らかな布団に寝かされていた。翼を痛めぬよう、横向きに。
どこかの屋内だとしか、あおがらすには分からなかった。しらじらしく明かりが点っている。布団から抜け出さなくともすべてが見渡せるくらいの小さな部屋だ。あおがらすが住んでいる山の庵と同じくらいだろうか。
「あ、起きた?」
聞き覚えのある声に、あおがらすはその主を見上げた。さっき、あおがらすに飴をくれた女だった。
女は目を見開いて、「よかった……」とつぶやいた。布団のわきに、ぽすん、と座って、にっこりと笑う。
「翼が生えたと思ったら、急に飛び上がって、そのまま落ちたんだよ。で、気を失っちゃったの。どうしてもそのまま置いてくることができなくて、連れて帰ってきて」
ふいに、あおがらすの目の前が暗くなった。女が、あおがらすの額にそっと手を置いたのだ。熱はないみたい、と、安心したように呟く。
あおがらすは考えた。女の表情や物腰からは、危害を加えるとか、そういう悪意は感じられない。しかし、自分は山に帰らなくてはならないのだ。
まずは、この場所から出なくては。
あおがらすは、おそるおそる布団を剥がした。地面に落ちたときに作ったらしい膝の怪我は、薬が塗られ、清潔そうな白い布が当てられていた。その場を見ていなくとも、丁寧に手当てしてくれたのが分かった。
「かたじけない」
女は、何がおかしいのか、ぷっと吹き出した。
「かわいいのに時代劇みたいだから、アンバランスで」
あんばらんす、とは何だろうか。首を傾げるあおがらすに、女は「ごめんね」と謝った。
「あなた、お名前は?」
「なは、あおがらす。むかし、カラスをしていたのでな」
「あおがらすくんね。わたしは『こうこ』。くれないに、子供の子」
「おまえ、おれをおそれぬのか。おれは、おまえたちが、『てんぐ』とよぶものだぞ。たぶん」
「たぶん?」
「にんげんあいてに、なのったのは、はじめてだから、わからん」
「怖くは、ないよ。あなたはとてもかわいいもの」
齢百数十のあやかしに、かわいいとはなにごとだ。あおがらすはそう思ったが、今は子供の格好なのだ。言われても仕方がないのだが、せめて不満を表そうと、む、と口をへの字に曲げる。
あおがらすは、人の形になりたいと強く願えば、あらゆる歳格好になることができる。めったにないが、里を出歩くときは紅子よりも少し上くらいの青年の姿をとることが多かった。今日は子供に混じる必要があったから、この格好なのだ。
「きょうはこんななりだが、いつもはおとなのかたちだ」
しかし、いつもの姿に外見を変えようと試みてもうまくいかなかった。念じても、唸っても、子供のままだ。翼が欠けているからだろうか。それとも、里をうろうろしたせいで疲れていて、念じ方が足りないからだろうか。
まあ、仮初めの外見などどうでもいい。大事なのは、翼がないことと、ここが自分の山ではないこと。山へ戻れば力が満ちて、外見ももとのように自在に変えられるようになるだろうとは思う。そのためには、なくした翼を再び手に入れなくては。
「おれは、やまへもどらねばならぬ」
「でも、きょうはもう、外は真っ暗だよ」
女は立ち上がると、部屋の窓を開けた。冷たい風がひゅうと流れ込んできて、あおがらすはつい身震いする。外は昔のあおがらすの体のように黒い闇。それでも、山へ帰りたいという一心で、あおがらすは羽ばたいた。羽ばたこうとした。しかし、翼はやはり片方欠けたままで、体が浮き上がることはなかった。
「ちにおちたからすほど、みじめなものが、いるだろうか……」
自分がどうしてしまったのか、自分自身がいちばん分からない。ただ、なさけない声を出すだけだ。
紅子はあおがらすの背側に回った。どうやら残った方の翼を眺めているらしかった。そのまま翼に触れ、すっと撫でられた。あの白く細い指が、と思うと、ぞわ、と全身が粟立つ。そんなところを誰かに触られたのは、はじめてだったから。
紅子は、嘘を言ってるようには思えないし、と一人でなにやら納得して、ねえ、と呼びかける。
「この翼は、やっぱり本物なんだね」
「あたりまえだ。……でも、かたほうなくしてしまった。これではとべない」
「帰りたいよねえ。どうしたら治るのか、わかる?」
「わからない」
皆目見当が付かなかった。
飛べないと、山に戻れない。知らない、人間の里に一羽きりだ。なじみの寝床も、虫の音も、風の歌もないこんな都会で。
闇夜を見上げるあおがらすに、彼女は言った。
「治るまで、うちにいてもかまわないよ。その姿でうろついてたら、騒ぎになっちゃいそうだし」
ねぐらを提供してくれるというのは、あおがらすにとってはありがたい提案だった。かたじけない、というと、紅子はまた吹き出した。その柔らかな表情に、あおがらすもつられて僅かに微笑んだ。
◆◆◆
紅子は『だいがくせい』という身分なのだそうで、昼間は学問を修めに学校へ、夜は金を稼ぐために『あるばいと』という労役に行っているらしい。
一方、あおがらすは、一日部屋にいた。狭い部屋も、慣れればそれなりに快適だった。
朝は紅子を見送り、夜は出迎える。
日中は、紅子が置いていってくれる書物や、てれびという不思議な板のようなものを眺めて過ごした。あおがらすはそれで、字を学び、人間の世界のことを少しずつ覚えていった。
紅子は毎晩いないというわけではなく、昼や夕方に帰ってくるときもあった。天狗の話が載っている本を持ち返ることもあって、あおがらすは紅子と一緒に読んだ。けれど、翼を取り戻す方法はどこにもなかった。
一つだけ参ったことがあるとすれば、食い物だった。
異変は、紅子とともに過ごすようになってからすぐに訪れた。
あおがらすが立ち上がろうとするとふらふらと目眩がする。体を支えようとついた手にも力が入らず、がくりと体勢を崩してしまった。床から離れることができないあおがらすに、紅子は言った。
「もしかしたら、おなかが空いてるんじゃない?」
あおがらすが食事をとらないことを、心配してだったろう。
あやかしに変じてからは腹が減ることはそうそうなく、戯れに山の果物を口に入れる程度のものだった。そう言うと、紅子はりんごを小さく切り分け、剥いてくれた。しかし、甘いりんごはまるで石を飲み下しているかのように喉につかえた。だるさは、相変わらず体に残ったままだ。
お医者さんに連れて行くわけにもいかないし、と紅子は泣きそうな顔をして言った。翼のついた子供を連れて医者に行く、それがどのようなことか、あおがらすもおぼろげに理解はしていた。きっと、『騒ぎになる』。あおがらすは、いくらヒトに近い姿に化けても、翼が片方無くても、ヒトではないのだから。
「何か、ほかに食べられそうなもの、ないかな?」
「……きらきらの、つきみたいなあめ」
「べっこうあめ?」
紅子は菓子を入れている瓶から飴を取り出し、包みを剥いてあおがらすの口に入れてくれた。やはりこの旨さの前には、言葉が無くなる。強すぎる甘さにも徐々に慣れたころには、さっきまでの疲労感や脱力感が嘘のようにどこかに消えていた。
「らくになった」
「よかった」
紅子は、あおがらすをそっと、まるで壊れ物でも扱うかのような手つきで抱きしめた。ふわり、べっこうあめよりも甘い香りが、あおがらすの鼻をくすぐる。
「これ、はしたない。おれは、おまえよりずっととしうえなのだぞ」
「だって心配だったんだもん」
「しかしなあ」
いつもにこにこ笑っている紅子の、かなしげな顔。その瞳に光るもの。
あおがらすは、紅子の気が済むまで撫でられてやることにした。
この一件以来、あおがらすは腹が減ると紅子に飴をねだるようになった。その後もいろいろ試したが、結局、あおがらすはべっこうあめ以外の食い物を受け付けなくなっていた。
『瓶に入ってるから、好きなときに食べてね』と紅子は言った。しかし、あおがらすは紅子のいるときにしか飴を食べない。紅子の細い指で口に入れてもらった方が、旨い気がしたからだ。
一方、紅子もこれ以来、あおがらすを何かと子供扱いするようになった――あおがらすの意志など無視して。よいことがあれば、翼に障りがないようにふんわりと抱きしめる。頭を撫でる。飴を与える。一緒に寝る。今までも、ずっと前からも、それが普通であったかのように。
おれはあやかしだ、年上だと言っても、紅子はあおがらすをひたすらに甘やかした。『でも、かわいいんだもの』とにこりと微笑まれると、あおがらすもつい紅子を許してしまう。そんなときは決まって胸が苦しくなって、でも、まるで飴を食べたときのような甘さが広がって、不思議な気持ちになるのだった。
◆◆◆
秋は駆け足で去り、いつの間にか季節がひとつ進んでいた。あいかわらず翼は片方のままで、あおがらすは山に戻れずにいた。
窓が凍り付いて開かなくなったので、あおがらすには外の様子が分からなくなった。紅子は、開かない窓を眺めて、「学生用のアパートなんてそんなもんだよ」とため息をついた。寒さへの備えが薄い安普請ということらしい。あおがらすが住んでいた山がとくべつ寒いのかと思っていたら、紅子が言うには街の中もずいぶんと寒いようだった。
そんな中、紅子はあるばいとで得た給金で『こたつ』なるものを買ってきた。発熱する座卓に薄い布団を被せたものだが、これがたいそう暖かい。
そのころには、紅子は夕方、あおがらすがこたつでうとうとする頃に帰宅することが多くなった。「あるばいととやらは、もうよいのか」と尋ねると、紅子は「こたつが買えたからね」と言った。
「うそをつけ」
「……ほんとだよ。ずっと、あおがらすとこたつに入りたいと、思ってたんだからね」
紅子は笑って答えた。
冬も深まったある夜のこと。あおがらすが紅子の腿の上に座り、こたつに足をつっこんで飴を舐めていると、彼女は珍しく真剣な口調で切り出した。
「ねえ、あおがらす。あしたなら時間がとれるから、直接、行ってみない?」
「どこへ、だ?」
「あおがらすの山に」
よい提案だ、と思うまでに、少々時間が要った。紅子がせっかく考えてくれたというのに、あまり嬉しいと思えなかったのだ。
しかし、街の仕組みに詳しい紅子に案内してもらえるなら、陸づたいに帰ることはできるだろう。ひとりで飛んで帰ることにこだわりすぎていたのかもしれない、とあおがらすは思った。欠けた片翼が戻る見込みはないけれど、山にさえたどり着けば、それもどうにかなるかもしれない。
「よいのか?」
「いいよ。……もっと早く、こうしてあげたらよかった」
「こうこ?」
背中から聞こえる紅子の声が、かすかに震えた気がした。
あおがらすはくるりと体を反転し、足を開いて、紅子の腿にまたがるように座った。その顔を下からのぞきこむと、紅子はいまにも泣きそうな顔で、しかし笑っていた。
「かなしいのか? うれしいのか?」
「ごめんね、あおがらす」
「なんであやまるんだ」
「わたし、大事にしたかっただけなの。あおがらすのこと、ずっと、ここに閉じこめておきたかった。ごめんね」
「そうしたかっただけ、だろう。おれは、とじこめられたとはおもってはおらん。いつでも、にげられたのだから」
「でも、そういう気持ちは確かにあったんだもの。あなたが世の中を知らないのをいいことに、わたし――ごめんなさい」
あおがらすは、決して籠の鳥ではなかった。玄関の鍵は内側からいつでも開けられた。窓だって開け放してあった。紅子だって、逃げ出すな、とは一度も言わなかった。あおがらすが自らここに留まっていただけだ。
今はなによりも、紅子が泣きそうだということのほうが大問題だ。
彼女の腹側から背中へと手をのばす。しかし、いつも紅子があおがらすにするように背中を撫でることはできなかった。この小さな体では、手が回らない。胸を貸してやることもできない。悔しくて悔しくて、あおがらすは強く唇を噛む。
仕方がないので立ち上がって頭を撫でてやると、紅子はぽろりと一つ、大粒の涙をこぼした。器用なことに、顔は笑っているのに、泣いている。ほんとうは泣きたいはずなのに、あおがらすのために無理をしているのだ。
「こうこ、なくな」
「わたしの機嫌を取ったりしなくて、いいよ」
「ちがう! おれはそういうつもりで――」
「もう、大丈夫」
紅子は笑って胸を張っているのに、大丈夫とはとうてい思えなかった。それは、あおがらすが初めて聞く拒絶のことばだった。
紅子はこたつで寝入ってしまったので、あおがらすは肩が冷えないように毛布を掛けてやった。いくら紅子のからだが細いとはいえ、あおがらすの力で寝床まで運ぶのは無理だったのだ。
あおがらすは、久しぶりに紅子と離れて寝ることにした。
冬用の厚い布団に鼻の下まで潜っているのに、中が暖まるまでにはかなりの時間を要した。冷たくてよく眠れなかったので、よけいなことをいろいろ考えてしまう。
ご機嫌取りなんかで優しくしたかったんじゃない、とさけびたかった。優しくしたいと思ったから、あおがらすがされて嬉しかったことを返したかった、それだけだ。
では、紅子はどうだったのだろう。一緒に暮らしたこのふたつきほど、紅子はあおがらすを部屋から逃がさないために『機嫌を取って』いたのだろうか。
あおがらすには、そうは思えなかった。紅子は、あおがらすが人目に触れぬようにかくまってくれていた。いつだってあおがらすを守って、慈しんでくれた――そうとしか、考えられなかった。
紅子があおがらすを強く抱きしめすぎず、いつも横向きに寝かせてくれたのは、残った翼をせめて痛めないようにという配慮だと、あおがらすは知っている。
具合が悪くなったとき、飴を食べさせてくれた紅子の必死な顔を覚えている。ひとり残されるあおがらすが寂しくないように、『あるばいと』を徐々に減らし、早めに家に帰ってきてくれるようになった。瓶の中のべっこうあめはいつでも買い足されて、一度も切れたことがない。名を呼んでくれた飴よりも甘い声は、とろけるように優しかった。
それらが全部、あおがらすを思ってのことだと知っている。
そこに少しだけ別の気持ちが混じっていたとしても、あおがらすは一向にかまわなかったのに。紅子はそれでも、すべてが偽りだったとでも、言うのだろうか。
◆◆◆
翌朝、あおがらすは紅子と家を出た。
紅子はあおがらすのために新品の外套を用意してくれていた。もこもこ、ふわふわした厚手の布でできていて、裾が大きく広がる。その下にたたんだ翼を隠しても、不自然ではなかった。
あおがらすは紅子に手を引かれ、初めて電車とバスに乗った。早朝だから人が少ないと紅子はほっとしていたようだが、あおがらすにとってはそれでも十分に混んでいるように見えた。
紅子とは、昨日からまともに話していない。ただ、紅子はあおがらすからねぐらの山のことをあれこれ聞き出し、このあたりではないか、という目星をつけていた。山に近づけば、おそらくにおいや風景で分かるだろうと言うと、安心したようだった。交わした言葉は、それだけだ。
巣に帰る、というのはきっと鴉の時に刷り込まれた習性なのだろう。実感がわかないまま、それでもねぐらだった場所へ近づくにつれ、胸の内が騒ぎ出す。磨り減っていた野生の感覚が呼び覚まされていくのが分かった。
紅子が、地図と実際の風景を見比べて、「このへんだと思うんだけど」と立ち止まった。
かつて空から見下ろしていた景色が、確かに目の前に広がっていた。
家もまばらな集落の奥、綺麗な三角の形の山は白く染まっている。ふもとには、特徴ある蛇行を見せる川の流れ。すっかり葉を落としてしまってはいるが、みごとな枝振りの山桜。雪の帽子をかぶった古めかしい鳥居。光も音も匂いもすべて、覚えのあるものだった。
「まちがいない。おれが、いた、やまだ」
「よかった……」
紅子は自らの胸に手を当てて、深く息を吐いた。けれどそのほっとした表情は、あおがらすの心にちくりと刺さった。まるで、自分と離れることが嬉しいのではないかと、邪推してしまう。単に、あおがらすをふるさとに送り届け、気が緩んだせいだろうが。
「翼は、どう?」
「かわりない。……が、なんだか、せなかがむずむずする」
「生えてきたりするのかな?」
「わからぬ、が」
山中へ入って力を蓄えたら、元に戻るのかもしれない。実際、さきほどから、体じゅうを何かが駆け巡り、みなぎる感覚がある。紅子からは餞別に飴をたくさんもらっていたが、どうやら必要なさそうだ。
「すくなくとも、はらはへらぬようだ」
「そうかあ。よかった。……早く、元に戻るといいね」
紅子が、あおがらすの顔を見ながら、一歩下がる。
「いままで、ほんとうにごめんね。あおがらすと過ごせて、とても楽しかった。わたしはたぶん――」
紅子とあおがらすとの間に、びゅう、と冷たい風が吹いて、紅子の言葉をかき消した。あおがらすは慌てて尋ねる。
「もういちど、いってくれぬか」
「聞こえなかったなら、それで――その方が、いいのかもしれないから」
紅子が何を言ったか、分かる気がした。
いいや、言わなくたってとうに知っていた。あおがらすもきっと――けれど、分からないふりをしたほうが、しあわせかもしれない。あおがらすはもう聞き返さなかった。
「じゃあね、あおがらす。元気でね」
紅子はなおも後ずさりする。昨日見たのと同じ、泣き笑いの顔で。
自分があの部屋にいることで紅子が泣くのなら、籠の鳥のふりは終わりだ。紅子の苦しみのもとには、なりたくはなかった。だからあおがらすは、紅子と同じ顔をして、告げた。
「せわになった。……さらばだ、こうこ」
未練を断ち切りたくて、勢いよく背を向けて駆け出す。その背後で軽い足音がたちまち遠ざかり、紅子も駆け足で去って行ったのだと、あおがらすは知った。
主が不在だったためなのか、今年の大雪のせいなのか、庵の屋根がやや傾いていた。いまは枯れきっているものの、周囲の雑草も、まるでちょっとした林のようだ。藪を掻き分けて庵の中に入り、一息つく。すきま風もひどいが、冬越しできぬほどではなさそうだった。
細かいことは後回し、屋根と柱を補修して、来春までは中でおとなしく眠っていよう。あおがらすは、枯れ草を集めて寝床を作り、人の姿のままで寝転んだ。
口寂しくて、腹も空いていないのにべっこうあめを一つ、放り込む。さらに、もうひとつ。
――あまい。
甘くて旨いけれど、それだけだ。胸が焼けるような甘ったるさも、頭をぼうっとさせるような多幸感も無い。きらきらした月のような飴も、紅子が口に入れてくれないと、こんなにも普通だったのだ。
外で吹き行く北風を聞きながら、あおがらすは思った。ここは、ねぐら『だった』場所だ、と。確か、紅子と一緒に山にたどり着いたときにも、あおがらすはそう感じたのではなかったか。
あおがらすの『今の』ねぐら、帰りたいところは、紅子と暮らしたあの部屋だ。あおがらすが生きた百数十年のうち、ふたつきにも満たぬ束の間だけ、甘んじて閉じこめられていただけの小さな部屋。けれど、とろけるように甘く、あたたかい巣。
本当は、知っていた。
どうして、大人の姿になれなかったのか。どうして、翼を失ったのか。
それは、紅子にかわいがってもらいたかったからだ。細く白い指で飴を与えられる日々を、壊したくなかったから。いつまでも、緩く閉じこめられていたかったからだ。
――紅子、俺はお前がずっと、ずっと愛おしかった。
――お前は、どうだ? さっき、何を言いかけた?
やはり、分からないふりのままは嫌だ。聞きそびれた言葉をしっかりと刻みつけたいと思ったら、あおがらすは跳ね起きていた。枯れ草の寝床にも、懐かしい匂いにも、もう用はなかった。
「こうこ!」
あおがらすは、庵を飛び出した。勢いよく扉を開けた振動で、屋根から雪がなだれて落ちたが、構わなかった。
冷たい雪煙が舞う中を、あおがらすは走り出した。
飛べないのなら足で陸を伝えばいいと、紅子に教えられた。しかし、積雪に足を取られて、思うようには進めない。斜面に転げるように倒れ込み、深い雪に埋まった。それでも這い出して、また進む。
このままでは、紅子は行ってしまう。バスと電車で、片羽のあおがらすが追いつけない遠い町へ。
紅子に届く、両翼がほしい。
ほしい。
ほしい。ほしい。
雪の中、風を切って突き進む、つよい翼が、ほしい!
あおがらすの背で、ぶわり、と風がまいた。
◆◆◆
来たときと同じ『バスてい』、簡易な屋根の下の古ぼけた椅子で、紅子はひとり泣いていた。あおがらすは空からそれを見つけて、急降下する。
「こうこ、うえだ!」
「あおがらす、あなた、翼!」
紅子はあおがらすを見上げて目を丸くしたが、すぐに満面の笑みを浮かべ、空に向かって両手をいっぱいに伸ばしてきた。
「おいで!」
「こうこ!」
紅子にあおがらすが求められたのは、あれだけ一緒にいたというのに初めてのことだった。あおがらすは、その腕の中に落ちるかのように飛び込んでいった。
紅子は、あおがらすをふんわりと抱き締めた。あおがらすは紅子とひとつになりたいと思うのに、翼が邪魔をしてこれ以上近くに寄ることができない。それがなんとももどかしかった。
「あおがらす、わたし、あおがらすが好きだよ。ずっとそう言おうと思ってたんだよ」
紅子は今さらそんなことを言う。「しっておったぞ」と答えると、紅子はまた笑いながら泣いた。
あおがらすは紅子の腕から抜け出した。紅子が選んでくれたふわふわの外套からはみ出した黒い翼は、ほぼふた月振りに一対揃ったばかりだ。それを自らの肩越しに、両手で掴む。みし、と嫌な音がした。
「まて。……いま、じゃまなものをとってしまうからな」
紅子はあおがらすが何をするのか理解したらしく、両手を組んでこちらを見つめていた。その姿に勇気づけられて、あおがらすは両の手にありったけの力をこめ、思いきり引っ張った。生えぎわからもいだ片翼をその場に捨てて、もう片方も。
翼を無くしたあおがらすは、今度は自ら紅子に手を伸ばした。やはりその手は小さすぎて、紅子の背に腕を回すことはできなかった。
その代わりに紅子があおがらすを抱き上げて、ぎゅうっと頬を寄せてきた。そんなに強く抱かれたことはなく、息が止まるかと思ったけれど、いっそ止まってもいいくらいだ。そのくらいしあわせで、胸の中は甘さでいっぱいで、他のことが入る余地などどこにもなかった。
「こうこ、おれをおまえのすにつれてかえってくれ」
紅子は、何度もうんうんと頷いた。
「帰ろう、一緒に」
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