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森の中に増える
国境沿いに空白地帯があった。隣の国との間にある荒野には、互いに侵してはならないと奇妙な決まりごとが出来ていた。
その空白地帯に大きな森がある。鳥が鳴き、雑多な草花が咲き乱れている。誰が見ても立派な森だった。
その森の中に入っていくのは中年の男だった。黒々とした肌、頬にはまっすぐ太い傷跡がある。左腕はなかった。足を引きずることなく軽快に歩くさまは、兵士であれば恐れただろう。足音があまりに軽く、獣でさえ油断する。だが、死神のような身が震える足音だった。
森の中に迷うことなく入ると肩から力が抜けた。ライフルも弾薬も毒薬も、人を害するものは何一つとして持っていない。そういった類のものは持ち込めない。そういう場所だった。
「持って入ったらどうなるんだろう」
「その時は俺が殺すか追い出すかするさ」
男に返事をした声はしわがれている。だが、明るく陽気な響きだった。少年の頃から知っている老人の声だ。今は何歳になるのだろう。身元も名前も一切が不明だった。
「じいさんがそれほど強いとは思えないね」
男のそばに来て、ない腕をまるであるかのように軽く叩いた。
「痛まないか?」
「腕はない。痛んだとしても、それは幻想だ」
抑揚のない声を自分でも冷たいと思った。老人は男の様子に構わず、一緒についてくる。男はそれが嫌じゃなかった。少年、青年、中年を経てすっかり戦というものに慣れた。得るものもあったが失ったものも多かった。
「今日は何をしに来たんだ?」
「ちょっと休みたいと思ったんだ」
「戦の中で生きるのは大変だろう。腕もなくしたんだ。負担は大きい」
戦がどういうものか、兵士がどういうものなのか男は分かっているようだった。やはり若いころは戦場で闘っていたのだろう。なぜこんな場所にいるのかは分からないが、誰でもいい胸の中につかえた想いをおろしたかった。
「最近、幻想がみえる」
「幻想?」
「夜中に寝ていると俺の殺したやつらがやって来るんだ」
「幽霊か?」
「幻想だ。幻想のクセにおしゃべりでな。長々と話していく」
「やっぱり幽霊じゃないか」
「目が覚めたら消えている。ただの幻想だ」
森の中を幾度も歩く人間がいるのだろう。人の往来があることで小道ができあがっていた。その上を歩く自分の足はちゃんとあるのだろうか。さわさわと木の葉が揺れる音の中に、銃撃も悲鳴も聞こえない。まるで別世界にいるようだった。心配になってちらりと足元に目を向けると、ボロボロの靴が小石を蹴飛ばしたところだった。
小道の先に石が並んでいる。苔むした様子がないので誰かが世話しているのだろう。その中のひとつにひざまずいて彼は手を合わせた。
「こいつが何度も出てくるんだ」
名前は書いていない。だが、自分が埋葬したので覚えている。初めて殺した人間だった。男はぶつぶつと祈りの文句を唱える。彼の信ずる宗教の言葉だ。
「この墓の主は、別の宗教を信仰していたようだぞ。確か、神の名は……」
「神はただひとりだ。こいつは間違っている」
老人の言葉をぴしゃりとはねつけて唱え続けた。よどみがなくはっきりとした祈りの文句に迷いは見受けられなかった。
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