瑠璃色道化師

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瑠璃色道化師

 どこまでも広がる陰鬱な灰色の空の下、さいはての荒野に老人がたたずむ。  何故こんな所に?時折訪れる旅人が気まぐれに訊く。  「道化師を待ってるんだ」  謎かけのような老人の答えにある者は困り、ある者は笑い、ある者は怒りだし。  荒野の喜劇は詰まるところ一人芝居に過ぎず、老人は単なる観客に過ぎない。  旅人は皆勝手に困り、怒り、笑った。老人はその存在を忘れさせるほど彼らに無関心だった。  賢明な旅人は誰一人として気付かない。  老人の目の色に。  銀灰色の髪の下、深い皺が刻まれた柔和な目。  彼の目は深く澄んだ瑠璃色をしていた。  ありし日の空を溶かし込んだ懐かしい瑠璃色、空から失われて久しい本来の色だ。  彼は自分が生まれた街を覚えていた。親の顔も友の名も忘れたが、それだけは漠然と記憶していた。  焦茶色の煉瓦塀。蔦に覆われた外壁。漆喰の剥げた内壁。  大きな屋敷に彼は顔を知らない家族と共に住んでいた。  家の記憶は家族の記憶と密接に繋がり、彼の胸は甘酸っぱい郷愁でいっぱいになる。  彼の部屋は二階の西の端にあった。  大きな本棚が三方の壁を埋め、床には毛足の長い絨毯が敷かれていた。  白く清潔なカーテンは緩やかに風に翻り、続くテラスからは街が一望できた。  彼はテラスの手摺に座って街を眺めるのを好んだ。  無限大の空の下、赤茶けた家々が無秩序に密集し、運河にはブリキの玩具のような船舶が浮かんでいる。  煙突掃除夫の鼻歌、乳母車の滑車が石畳を削る音、長く尾を引いて空気に溶けてゆく船の汽笛……。  彼は目を細め、心地よい風に身を委ねる。    夢はここで終わる。  今の彼に残されたのは鈍色の空と、荒涼とした大地と、老いさらばえた自分のみ。  皺だらけの痩せた手に顔を埋めて嗚咽する。  幼い頃、彼はサーカスが好きだった。  親や兄弟、友の顔さえ忘れてしまったのに色鮮やかな風船の如く華やぎ膨らみゆく高揚感はよく覚えている。  サーカスが町に来るのは年に一回。あれはその記念すべき日だった。  小遣い銭を握って石畳を敷き詰めた道を駈け、中心の広場を目指す。  やがて視界の彼方に巨大な円錐のテントが現れ、小さな胸が歓喜と興奮に沸く。  テントをくぐりって桟敷にもぐりこむ。押し合いへし合い群れた子供たちは頬を紅潮させ、大人たちは童心に返って目を輝かす。  ファンファーレが高らかに鳴り響き、満を持してサーカスが開幕する  華やかな照明が交錯する中きらびやかな衣装の少女が登場する。  紳士がステッキを一閃するやシルクハットから鳩が羽ばたき、象は高々と鼻を掲げてライオンは燃え盛る火の輪をくぐる。  観客は拍手喝采した。  彼も痛くなるほど手を叩く。  しかしどんなパフォーマンスにも増して彼の心を掴んで離さないのは道化師であった。  不恰好な赤い鼻、縮れた金髪の鬘、分厚く塗った白粉。赤縞のだぶだぶ衣装を着込み、転び、笑い、また転び、滑稽な一人芝居を演じる男。  観客は笑った。彼も笑った。  舞台袖に退散する道化師に惜しみない拍手が送られる。彼も手が腫れるほど拍手した。  終幕のファンファーレが高らかに響く。  お辞儀をする団員の列に先刻の道化師が並ぶ。  脚光を浴びた道化師がぺこぺこお辞儀し、恰幅の良い団長が声を張って紹介する。  「コイツは一座の晴れ男!道化師笑えば雨あがる道化師笑って心が晴れる、本日は絶好のサーカス日和!」  団長の口上が大うけする中、彼は桟敷から身を乗り出し道化師にむかって叫ぶ。  「来年も来てね!きっとだよ!」  道化師はびっくりしてこちらを見た。  彼が褒められることは殆どない。所詮は道化役。観客を沸かせる前座でしかない。  だからこそ、絆が生まれる。  とろけるように笑み崩れて力強く手を振り返す道化師と少年は無邪気な約束を交わす。  「きっとだよ!待ってるからね!」  道化師は微笑み、小さなファンのために紳士的なお辞儀をした。  全ての演目が終わるのを待ち、満足した人々はぞろぞろとサーカスを出る。  薄暗い天幕に慣れた目に暮れなずむ寸前の瑠璃色の空は鮮やかに映えた。  少年は道化師とのささやかな友誼を胸に帰り道を急ぐ。新たな友達ができたことを早く報告したい興奮に駆り立てられて走り出し……  刹那、空から鉄の塊が降ってきた。  高台の家に続く坂道で立ち止まった彼の視線の先で、無骨な鉄塊は街の中心に吸い込まれていく。  瞼の裏を過ぎるのは手を滑らせて墜落していくブランコ乗りのイメージ。  耳鳴りがして、空が打ち砕かれた。  最初、何が起こったかわからなかった。  衝撃に鼓膜が撓んで熱波が押し寄せる。吹っ飛ばされて転んだ彼は、砂利にまみれて炎上する街を眺める。  続いて、それが起こった。  鉄の塊が続々と空から降ってきた。それは羽虫の大群に似ていた。  鉄塊と接触した家は粉微塵に吹き飛び、後には黒煙を上げる残骸と炎だけが残る。炎はどんどん勢力を増し、周囲の家々を容赦なく飲み込んでゆく。  固唾を呑んで炎に魅入られた彼の眼前にも塊が落ちてくる。  咄嗟に走って走って走って、爆風に背中を押されて何度もはねて、火傷を負いながら丘の上の家に走る。  空の上の神様、お願いです。みんなを助けてください。  けれど。  鉄の塊が乱舞し、重く湿った雲が飛ぶように流れる鈍色の空に神様はいない。  ひたすらに足を繰り出し、余力を振り絞って坂を駆け上る。  屋根が見えてきた。  門の内側に駆け込む寸前、強烈な閃光が網膜を貫く。  次に襲ってきたのは赤。赤い洪水が、白く麻痺した網膜を食い破って侵入してきた。  目を開け立ち尽くす。  屋敷がすっぽりと赤い炎に包まれている。  彼は絶叫し、転げるように坂道を駆け下りた。  先刻の光景が悪夢のように脳裏を廻る。  焼け落ちる寸前の屋敷、轟々と燃え盛る炎。そして……  サーカスは?道化師は?    彼は息を呑んで立ち尽くす。  そこは地獄だった。    萎んだテントの上に無数の屍が折り重なって倒れている。炭化した死体からは肉の焼ける匂いが立ち上り、鼻腔を絶えず刺激する。  断続的に石畳を突き上げる轟音、一拍遅れて上がる火柱。  彼は空を見た。  灰を敷き詰めた重苦しい空が延々と広がる。  彼は悟った。  二度とぼくの上に青空が訪れることはない。瑠璃色の空は神様と共に消えた。  鉄の塊が瑠璃色の鏡を打ち砕き、分厚い雲が空の破片を貪欲に呑みこみ、遠く地平線の彼方に持ち去ったのだ。  空は粉微塵になり砕け散ったのだ。瑠璃の破片は空の残骸だ。  彼は手を握り締め、足もとを睨んだ。足もとには道化師の赤い付け鼻が落ちていた。柔らかいてのひらに爪が食い込み、血が滴る。  信じないぞ。  顔を上げ空を睨む。目から零れた涙が頬を伝って、焦げた赤鼻の上に落ちる。  約束したじゃないか。  ぼく一人残してみんな死んじゃうなんてうそだ。  今先刻別れた道化師の笑顔が脳裏に浮かぶ。  ハッとして顔をあげた。  サーカスの開催される日は必ず晴れていた事実を思い出す。  道化師は晴れ男だ。  道化師が来れば空は晴れ、道化師が笑えば災いも去る。  「道化師が空を連れてきたんだ」  胸の奥に点ったかすかな希望が絶望の芯を糧に明るさを増してゆく。  炭化した屍の上に落ちた赤鼻を拾い上げ、丁寧に煤を払い、親鳥が卵を抱くように優しく抱きしめる。  道化師はきっと来る。  僕との約束を守りに、瑠璃色の空を連れて。  彼はただ一人生き残った。  家族と過ごした屋敷は完全に焼け落ち、骨格すら残らなかった。彼は元自分の家のあった場所に粗末な小屋を立て、そこを住処にした。  彼が生まれ育った街は滅んだ。  彼は待った。  道化師が空を連れてくるのを。  ところが道化師は現れない。  きっと粉々に打ち砕かれた空の欠片をかき集めるために世界を放浪しているのだ。  彼は辛抱強く待った。  一年、三年、十年、二十年、五十年…  今だ、道化師は訪れない。 「ずっとあそこにいる」 「可哀想に、狂ってしまったのね」 「街の生き残りか?どうりで」 「酷い話だ」  行きすぎる人々が囁く。 「隣の国が予告もなく突然に……」 「境界線で揉めたのがはじまりだ」 「全滅だって聞いたが」 「どうやって暮らしてるんだ?」 「瓦礫で家を建てて、泥水を啜って、何十年も前から」 「旅人の施しも受けてるみたいよ」  帰りきたる人々が囁く。   今日もまた荒野にたたずみ、あの日から晴れることない空を見上げる。  一度でいい、瑠璃色の空を見てみたい。子供の時に見たのと同じ、懐かしい空を。  それだけを願いそれだけを支えに、雨水で喉を潤し草の根を齧り、時には旅人の施しを受けてただ一人生き長らえた。  されど思い出は砂と化し、老いさらばえた掌から零れ落ちてゆく。さらさらさらさら。荒野の乾いた風が思い出を一粒一粒さらって吹き散らす。  もはや思い出せない。  何故いま自分がこうしているのか。  誰か大切な人を待っている気がする。  それがだれだか思い出せない。  だれだっけ?  曇り硝子の空は黙して何も語らない。磨きぬかれた瑠璃色の空が猛烈に恋しく懐かしい。  今日も彼は一人荒野に立ち尽くす。  彼は気付いてない。  あの日壊れた空の破片を宿した自分の目に。鏡さえあればあの日の空に出会える奇跡に。望郷の念に潤んだ瑠璃の瞳が過去だけ見詰め続けていることに。    彼は今日も待ち続ける。赤い鼻を握り締めて待ち続ける。  荒野に立って地平線の彼方を臨み、ひっそりと待ち続ける。  誰を待っているんだっけ?  何で待っているんだっけ?  そろそろ過去形で語らなければいけない気がする。諦めて手放さなければいけないのに、惰性のように待ち侘びている。  耳の奥で懐かしい音が鳴る。  何だろうこれは。どこかで聞いたことがある。  昔、子供の頃、これと似た音を聞いたことがある。  彼はそっと目を瞑り、あたたかな闇の底から幸せな記憶の断片をすくい上げた。  ああ、これはファンファーレだ。  サーカスの開幕を告げる合図。桟敷に緊張が走り、観客たちが期待を込めて舞台の中央を見守る。  まさか……    さく、さく、さく  砂を踏んで誰かがやってくる。  さく、さく、さく  耳の奥ではまだファンファーレが鳴り響いてる。  さく、さく、さく  足音が砂嵐に巻かれて止まった。煙幕のむこうに目を凝らすと眼前に彼がたたずんでいる。  目の前に道化師がいた。  あの時と変わらぬ衣装で、あの時と変わらぬ若さで、あの時と同じ笑みで、彼の前に佇んでいる。  否、正確にはただ一箇所を除いて。  赤鼻をなくした道化師は小手をかざして辺りを見回していた。老人はすぐに彼が何を捜してるか察し、かすれた声を絞り出す。  「君は……約束を守りにきてくれたんだね?」  道化師は両手を広げて感謝の気持ちを表す、老人の震える手から受け取った赤鼻を顔の中心に据え付ける。  そして身振り手振りを交え、ぱくぱくと口を動かす。    お・れ・い。  曇り空が一気に晴れ、青く青く燃え上がる。  雲の裂け目から地上に降り注ぐ清浄な陽射し。  裂け目は徐々に大きくなり、やがて明るい陽射しが幾重にも荒野を照らし始める。  「ああ……」  夢にまで見た瑠璃色の空が頭上に広がっている、国境や虚実をこえてどこまでもどこまでも広がりゆく。  瑠璃色の瞳と瑠璃色の空が交わり溶けていく。  「もう思い残すことはない」  道化師が静かに微笑んで痩せさらばえた手をとる。陽射しが二人の上に余すところなく降り注ぎ、光の道が天へと敷かれる。  凪いだ眼差しと繋いだ手のぬくもりが、遅まきながら迎えにこれたピエロの心を訳す。  ずっとアンコールをもらえるのをまっていたんだよ。   乾いた風が虚しく吹き抜ける荒野に亡骸が横たわっている。  「もしもし、もしもし」   無精髭を生やしたみすぼらしい身なりの旅人がおずおずと老人の肩を揺する。  「もしもし、もしもし。大丈夫ですか?」  安否を問うも応答はない。口に掌を翳すと既に呼吸は絶えていた。  腰を屈めて老人の顔を覗く。  老人は大地の腕に揺すられて眠る赤子のように、安らかな顔をしていた。  瑠璃色の目は恍惚と細まり、口元は薄く微笑を浮かべている。  旅人は諦めて手をはなす。  「……良い夢を」  足元の旅行鞄を掴み、帽子の庇をあげて空を仰いだ旅人を呟く。だ。  「もうすぐ晴れそうだな」  雲の切れ間から瑠璃色の空が覗いていた。
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