現場の日常

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現場の日常

 クレーム処理の代行業務などやっているのは、まだうちだけではないだろうか。まぁ、この先もこんな損な役回りのみをやろう、という物好きな会社はなかなか出てこないだろうが。  沙優(さゆ)は次の謝り先をスマートフォンで確認しながら、愛美(まなみ)の隣を歩いていた。住宅街では建物から局地的に漏れ出た日差しに、集中的に肌を焼かれるような錯覚を覚える。思わず沙優は腕をさすった、暑い。表情も姿勢も常に涼しげな愛美をふと見上げる。愛実は長めの黒髪を後ろでキュッと束ねていたが、そのスッと細いスマートな毛束は、毛量の多い沙優からすれば、何度見ても羨ましい。沙優自身はといえば、もさもさ増えていく髪をパーマをかけて誤魔化し続け、なんとかふわふわに見えるようにしている。 「次どこだっけー?」  愛美が先ほどまで泣き声で謝り続けていた人とは、到底思えないような軽やかな声で尋ねてきた。黒のスーツを身にまとった彼女の長身で痩身なシルエットもまた軽やかだ。 「次はー、藤山さんですね。あのいつもの。」 「あー、あのおばさんか。そろそろ自分の歯の衰え自覚してくれないかなー。」  愛美は真っ直ぐな目をしてそう言った。軽口というよりは、もはや願望のように聞こえる。藤山さんはお宅の商品が硬い、と何か食べる度に購入先にクレームを入れているらしく、処理依頼がしょっちゅう入っていた。確かに、その程度のクレームであれば、企業側も代行で十分だと考えているのだろう。  さすがに、別企業のクレーム処理を同じ人間が何度も行うわけにはいかないので、会社によって担当を割り振っている。私たちにとっては、まさにありがた迷惑なお得意さまである。 「ですね。なんなら今後食べる予定のもの全部教えてもらって、まとめて謝った方が早いですよ。」  沙優が面倒そうに返すと、愛美は吹き出した。 「非常に効率的、採用。」  愛美は冗談が通じるので大好きだ。沙優は鮮やかに笑った。 「藤山様、この度は誠に申し訳ございませんでした。」  大抵この常套句から試合は始まる。  まず謝罪に対する相手の反応を掴み、その感情と自分の感情を同化して重ねる。それが我が社の最強にして唯一の武器、‘リンク’だ。入社したらまずリンクを教わり、できるようになれば即刻デビューである。リンクさえできるようになれば、何も怖くない。ただ、そのスキルがあるからといって、損な役回りを請け負っていることに変わりはない、ストレスは溜まる。それだけは伝えておきたい。  藤山さんはいつも怒りから入る。今日も同じだった。 「私何度も言ってるわよね、お饅頭が固くなったって。昔の美味しさが忘れられなくて、今度こそはと思って買ってるのに、あなたたちはいっつもいっつも客の期待を裏切るのね。」  「いっつもいっつも」を発声する際の力み様が、彼女がかけた電話の回数と購入した饅頭の数を物語っていた。  怒りから入ってくれる藤山さんは非常にリンクしやすい。リンクしてしまえば、饅頭まで硬いなんてもう重症ですよ、なんて余計な哀れみは少しも感じなくなる。  沙優はピタッと藤山さんの感情と自分の感情が合わさるのを確認する。怒りの裏には悲しみやプライドが隠れていることが多い。そこを引っ張り出して話を聞いてあげると大概のクレーマーはもういいよ、と身を引く。  藤山さんの怒りの裏には自分の歯の衰えを認めたくないプライドと、何事も昔のようにはいかない悲しみがあった。予想通りで仕事がしやすい。 「藤山様、申し訳ございません。藤山様のご意見はしかと受け止めております。が、違いない事実として、我々は饅頭の作り方を創業当初から一切変えておりません。考えられる原因といたしましては、保存状態によって弊社の饅頭の品質が変わってしまっている可能性がございます。」 「あら、私の保存の仕方が悪かったとでもいうの?」 「いえ、とんでもございません。」  沙優は飛んできた槍を両手でしっかりと受け止められるよう、受け身を取る。 「弊社の饅頭は、すぐにお召し上がり頂くことを想定して製造しておりますゆえ、日持ちの面において優れているとは言えません。私どもは、藤山様の貴重なご意見を真摯に受け止め、温度変化、環境変化に対する弊社の饅頭の品質保持改良に、今後より一層取り組んで参ります。同じ過ちを二度と繰り返さぬよう、精進いたします。申し訳ございませんでした。」  ここで沙優は謝罪の型を決める。藤山さんの怒りが溶けるまで頭をピクリとも動かさない。隣に全く同じ角度でお辞儀し、微動だにしない愛実の頭が目に入る。  五秒も経たぬうちに藤山さんが音を上げた。 「わかったわ。そういう改良って時間かかるのよね?しばらくお饅頭は他で買うわ。」  沙優と愛美はシンクロしたまま頭を少し上げ、申し訳ございません、とより一層深く頭を下げる。すると、でも、と予想通り上から声が降る。  沙優は思わず口角が上がってしまいそうになるのを堪える。 「私ここのお饅頭が大好きだから、良くなったらまた買いに行くわ。早めに頼むわよ。私が生きているうちじゃないと許さないからね。」  少し余韻を残して頭を上げ、ありがとうございます、と先輩と声を合わせて、改めてお辞儀。これが処理の一連の流れだ。藤山さんは、トレーニング台としてうちに常駐して欲しいぐらい単純明快で、典型的なクレーマーだ。  あとは、取引先の饅頭会社に柔らかい饅頭を出してみてはどうか、と提案してあげるとより丁寧な仕事になる、と愛実は最初のトレーニングの際に教えてくれた。まぁ、この件については、そもそも藤山さんの歯の問題が原因なので必要ない。大体、改善しようという気がある会社はクレーム処理を委託などしないだろうな、と沙優は一人納得した。
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