オフィスの日常

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オフィスの日常

 会社に戻ると、デスクで和也が唸っていた。 「うわ、獣がいる。最悪。」  愛実は和也の方を見向きもせず、ただ雨を嘆いているかのような自然さで嘆いた。  和也はクレーマーに対して苛立ちの限界を迎えると、頭を抱えて天を仰いで唸る。唸るというか吠える。まぁ、ストレスの発散方法無くしてこの仕事はやっていけないので、誰も何も言わない。いや、めちゃくちゃ文句は言うが、やめろとは言わない。彼にとってもはや遠吠えは仕事の一部であり、他の社員もそれを分かっている為、心を無にして放っておくか、別の場所で仕事をする。もちろん他の社員がストレスを発散するときは、和也も同様に不満を唱えながらそうする訳であり、お互い様なのだ。  普通であれば、何に怒っているのか聞くのであろうが、沙優たちは仕事で散々クレーマーの発散相手になるので、わざわざ身内のストレス発散相手になりたいはずもなく、新人社員が練習代わりに話しかけるのを別にすれば、発散中の人に話しかけたりしない。  隣の会議室に行くと同期の涼矢が既に席についてパソコン作業をしていた。涼矢は沙優を一見した後すぐに視線を画面に戻し、獣から逃げてきたの?と再び沙優を見ることもなく聞いた。 「そう、避難。デスクに資料貯めといたやつ見たかったんだけど。あれじゃ文字読んでも入ってこない。」 沙優が愚痴ると涼矢が急に手を止め、さらさらとした前髪を揺らして顔を上げ、目を細めて沙優を見た。 「何?」 「いや、沙優が文句言うの珍しいなと思って。」 「そうかな。」  沙優は文句を控えている自覚はなかったが、言われてみれば、確かにわざわざ自分から悪口を言おうとは思わない。 「ねぇ、いつから作業やってる?コーヒーでも飲まない?外から帰ってきたばっかりだからひと休みしようかなって思ってるんだけど。」  沙優は忙しそうに動く涼矢の指を見ながら言った。見ているこっちが指を攣りそうなほどの速度で動いている。断られそうだなと思っていたが、意外にも涼矢は二つ返事で了承した。  殺風景なベージュ基調の小さな休憩室には似合わないほどの立派なコーヒーメーカーの前に立ちながら、涼矢はそういえば、とカップから目を離さずに話しかけた。 「珠樹元気してる?」  沙優は驚いて涼矢を見た。しばらく言葉が出てこなかった。涼矢がプライベートに突っ込んでくることなど初めてだった。元気だよ、と流そうと思った矢先、涼矢の声の響きがただのウォームアップトークのそれではないことと、鋭いまっすぐな視線が沙優をしっかり捉えていることに気づき、一度座った。 「珠樹、ね。もう私には分からない。別れた。」  沙優は視点を机に貼り付けたまま言ったが、涼矢の視線が沙優を離すことはなかった。  涼矢は二人分のコーヒーをテーブルに置きながら沙優の向かいに座る。ありがとう、と言いながら涼矢のさらさらとした暗めの茶髪とその奥の鋭い瞳に焦点が合い、焦る自分に戸惑う。 「いつ?」  少し驚きを含んだ声が降ってくる。 「先月、かな」  そっか、と涼矢は言葉を落とす。    珠樹は去年この会社を退職し、転職が決まると急に別れを切り出した。珠樹とは四年付き合っていたが、その別れは唐突であっけなかった。事前の相談もなく、珠樹の一言で全てが終わった。今となっては諦めはしたが、まだ悲しさは残っている。 「沙優ごめん、俺と別れて欲しい。沙優と居たら沙優だけを優先しちゃうんだ。俺、仕事がまた一からになるし当分は仕事に集中したくて。この別れがお互いの為にもなると思うからわかって欲しい。沙優だってこれからやりたいこと多いだろ。」 珠樹の言い分はそんなところだった。ちなみに沙優は、その当時も珠樹とこの先ずっと一緒に居たい程度には好きだった。そんな言葉で納得できるわけない、仕事なら一緒に居ながらできるじゃないか。そもそも仕事ができないほど束縛するつもりもない。聞いた時も聞いた後もそう思っていたのに、実際別れを頼まれた瞬間は二つ返事で承諾していた。正直相手が別れたいと思っている中、こっちの我儘でダラダラ付き合ってもらうのは自分のプライド上どう考えても無理だった。ただ、しばらくは納得できないままうじうじしていて、母親にあなたがそれでも用件を呑んで手放したんだからしょうがないね、などと、どうしようもない人生の先輩論で虚しさの毛を逆立てられた時に、やっと立ち直るほか道はないと諦めがついた。 「吹っ切れてる?」 涼矢の視線がやっと和らいだ。沙優もふっと苦笑いしながら正直に答えた。 「半々かな」 「半々?」 「うん、諦めはしたけど思い出には浸りたくはなる。」 涼矢は悲しそうに眉をひそめた。今日の涼矢は表情が豊かだ、と沙優はなんとなく目を細める。 「辛いやつか。」 「そうかもしれない。」 涼矢とのぽつぽつした静かな会話は今の沙優にはとても心地よかった。この会社ではこんな話し方をする人は貴重だ。 「でも」 涼矢が眉を上げる。柔らかな視線が沙優を捉える。 「なんか楽になった。ありがとう。」 沙優が微笑むと涼矢は微笑み返す訳でもなく、ただ頷いた。
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