オフィスの日常

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 やっと痛かった日差しも威力を弱め、秋口がかすかに見えてきた頃には、私が珠樹と別れたことが部内全体に共有されていた。別に涼矢が広めた訳ではなく、涼矢に話したことで、沙優自身に他人に話す心構えができたのだ。  珠樹との関係は社内恋愛にあたっていた訳だから、我ながらまぁ確かに一つの大きな話題にはなるのかもしれない。二、三人に話せばあとは向こうから切り出してくれた。 「戸塚さん、この件代わりに向かってもらえる?パートナー和也で。」  デスクで前件の整理をしていると、課長の(れい)が横から紙を滑らせてきた。麗は愛美と同期の先輩であるが、あっけらかんとした愛実とは対照的に、実態を伴った責任感そのものという感じなので、麗の方がかなり年上に見えた。 麗はクレーム内容の重い件が入るとそちらを優先的にこなさなければならないので、彼の仕事が下っ端に回されることは多々あった。和也は麗とは同い年だが、転職でこの会社に入ったので一応沙優とは同期だ。  かしこまりました、と麗に返しながら資料に目を通す。  購入したての掃除機が早々に故障したことへのクレーム対応。企業、顧客共に返金処理希望。  企業と顧客の希望が一致しているパターンは珍しい。そもそも交渉する必要がないのだから、わざわざうちに委託する必要がないのだ。  眉をしかめていると上から謎だろ、と声が降ってきた。見上げると支度を終えた和也が立っていた。 「はい、これうちに持ってくる必要あったんですかね。」 「いや、それがさ。その夫婦やばいクレーマーらしくて。喰らった従業員は今のところ十割辞めてるらしいよ。だから自分のとこでやりたくないんだとさ。」 「ソフトさんばっかり送ってたんじゃないの」  私たちはクレームを直に心で受け止めてしまい、傷を負うタイプの優しい一般人のことをソフトさんと呼んでいる。まぁ、自分たちを異常者として認めたくないが故の造語とも言える。和也は苦笑した。 「沙優様の前にかかれば、大抵の人はソフトちゃんだけどな。」 「うわ、それ全然嬉しくないです。」  沙優は和也の軽口を交わしながら支度を整えて、先にオフィスを出た。  クレーマー夫婦はしっかり二人揃って登場し、わざわざ来て頂いてすみません、などと丁寧に出迎えてくれたので、沙優も和也も思わず目を丸くしながらかしこまっていた。  しかし、和也のこの度は誠にすみませんでした、という試合開始の合図を起爆剤に、夫婦の怒りはしっかりと爆発した。その爆発に合わせて自分の感情をリンクさせようとしたが、かっちりとハマりかけた瞬間自分の気持ちが一瞬滑り落ちそうになり焦る。この人たちはただ話を聞いて欲しいだけのようだ。二人の生活に飽き飽きしており、第三者を加えることで退屈凌ぎを図り、ついでに偉そうに若者に説教を垂れることで、仕事では満たせなかったカラカラに干からびた年配のプライドを取り戻そうとしている。しょうもない、と面倒くさい、という自分の中の感情が押し寄せるのをなんとか留め、やっとリンクに成功する。  夫婦はあなたたちの会社の為を思って言ってあげているのだ、あなたたちにとってはたったの一商品だろうが、私たちにとっては大切な生活必需品なのだ、等々ありがたチックなお説教を散々説き続けた。更に挙げ句の果てには、最近の若者は、という永年お決まりの愚痴スタイルに、最近の家電は、などというアレンジを加えて語り出す始末で、驚くことに気づけば夫婦は二時間ぶっ続けでこちらの意見を聞こうともせず話し続けていた。  やっとのことで少しの話の途切れ目が訪れると、和也がすかさずまとめに入った。 「頂きましたお話全て仰る通りでございます、私共には勿体無いほどの貴重なご意見、誠にありがとうございます。そして、お客さまにおかけした多大なご迷惑は如何なる対応におきましても、償い切れるものではございません。」  沙優もその機会を逃すことなく言葉を続ける。 「この度の代金は直ちにご返金致します。申し訳ございませんでした。弊社のことをこんなにも考えて下さっているお客さまに対し、不備のある商品を販売してしまいましたことは、弊社一同心より反省しております。すぐにと申しますのは非常におこがましいと承知してはおりますが、お客さまにもう一度信頼して頂けますよう誠心誠意努力して参ります。お許し頂ける日が一日でも早く参りますよう精進する次第でございます。この度は大変、申し訳ございませんでした。」  沙優は自分の涙声と代金の入った封筒を持つ手を震わせて、頭を下げた。和也が隣で全く同じ角度で頭を下げているのを横目で確認する。これで決まらなければ帰れないぞ、と心の中で相手が封筒をとってくれることをただただ祈る。  自分たちがやってあげていることはとても有意義であり、無知で無能なこの電気屋の従業員たちに自分たちがしでかした失敗の大きさを分かりこませてやらねばならない。夫婦のクレームの軸はそんなところであり、自分たちの未熟さと相手の言葉のありがたさ、懸命さを理解したということを伝えることが解決の鍵であると、和也も沙優もリンクした瞬間に読み取ってはいた。ただ、この夫婦の話を聞いて欲しいという欲望だけが厄介で、長期戦に持ち込んでいる原因だった。  結果、夫婦は沙優の涙に同情したのか封筒を受け取り、そのまま二人の解放を許した。 「いやー長かった、マジで。どんだけ喋るんだよあの夫婦。」  オフィスまでの帰り道、和也が伸びをしながら嘆いた。 「本当ですよね、私めんどくさって思って一回リンク失敗しかけました。」  和也が吹き出す。和也の笑い方はカラッとしていて思わずもっと笑わせたいと思ってしまう。 「やっぱあのあっ!て表情、そういうことだったんだ、すぐ持ち直したから気にしなかったけど。」 「なんだ、バレてたんだ。」  沙優は嫌そうな表情を和也に向ける。 「リンク失敗したら悪夢だからな。」  和也は自分の体験でも思い出したのか、顔をしかめて下を向いた。 「にしてもさ、やっぱ沙優泣くの上手いよなぁ。」 「いや、愛美さんには負けるよ。」  沙優は謙遜などではなく、当然の如くさらっと言う。それが思いの外和也には不満だったらしい。 「愛美かよ、そこは俺褒め返すんじゃないの。」 と、子供っぽく反論した。和也には未だ子供の影が残っていて、そこが沙優にはとても羨ましかった。  しかし、そうは言いながらもしっかり大人としての意見をフォローで入れられるのがまた和也のすごいところだ。絶対に本人に伝えることはないだろうが。 「そりゃ愛美は愛美で上手いんだけど、沙優は反省の涙って感じがするんだよ。自分が悪かった、許して欲しいみたいなね。愛美のは頑張ってる人の悔し涙って感じで同情誘う感じなんだけど。」 「なんか私って必死なんだね。愛美さんみたいに余裕あって格好いいのがいいなー。」 「それがいいんだよ、ほんと天職だよなぁ、この仕事。」  和也はそう言ってニヤッと笑った。 「さっきから馬鹿にしてますよね。」  沙優が視線で刺すと和也は怯えた表情を作って褒めてます褒めてます、と両手を上げた。沙優はふっと力、抜けた笑いを漏らす。 「なんかこの仕事で褒められると複雑な気持ちになりません?」 「まぁ、仕事が仕事だからな。」 「分かってるならやめて下さいよ。」 沙優が少し睨むと和也は縮み上がるフリをして謝った。
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