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最終話 Re:バース
一
「では、『四次審査』を始めます。そこの椅子の上にある封筒を開け、中に入っている台詞を読んで下さい」
二十畳ほどの広さの会議室に通された雪歩は、正面に据えられた長机の真ん中、『演出家』と書かれたプレートの後ろに座る四十歳ほどに見える男性から、そう指示を受けた。
その左右には、『脚本家』、『劇伴制作』、『美術衣装』、『局編成』と書かれたプレートがあり、二十代から四十代と思しき四名の男女が座っている。
「はい!」
雪歩は、努めて元気よく返事をすると、部屋の中央にポツンと置かれた一脚のパイプ椅子へと近づき、茶封筒を手に取った。
『二次審査』では、五人一組での質疑の際、趣味・特技を聞かれ、『バク宙』を決めた。
『三次審査』では、カメラの前で、宇宙蛍の『ミッドナイト』を歌わされた。
即ち、台詞を読むのは、今回が、始めてである。
雪歩は、少しでも喉を潤そうと口の中に唾を溜めながら、中から紙片を取り出した。
そして――二重の大きな瞳を見開いた。
二
「銀行に換金に来た犯人を、その場で取り押さえる……。なんでそれが、あかんネン?」
十二月二六日午後二時十分――。
マンション一階の店舗で、流通経済誌のインタビューと写真撮影に応じた後、とうさんの抜けた穴を埋めてくれていた龍おじさんは、セブン・アイランズのユニフォーム姿のまま、五階の自宅へと急ぎ駆け上がって来るや、そう自ら考えるところを、彼を急遽招集した代表取締役社長と顧問弁護士へと語った。
その額には玉のような汗が、また左胸には、『取締役副社長わかつき』と記載されたネームプレートが、笑顔全開の顔写真と共に、師走の午後の陽射しに輝いている。
マウンドから降りたとは云え、龍おじさんは、いつだって全力投球なのだ。
「龍おじさん。それだけやと、逮捕できひンねんて」
ギンは、汗を拭う叔父に、冷たい緑茶を供しながら、忌々しげに応えた。
「ん? 訳わからへン――Kちゃん?」
龍おじさんは、姪にではなく、その正面に座る刑事事件の専門家に水を向ける。
Kちゃん――それは、弁護士先生の下の名を捩った愛称である。
龍おじさんは、この二歳年上の『Kちゃん』と、二年間の交際を経て、三年前に結婚したのであった。
あの、毎度ジタバタ騒いでは、事態をトコトン悪化させる天才たるとうさんが、五年前にやらかした『事件』において、『天の神様』が引き寄せたさまざまな偶然の中で、もっとも意味があるのが、この敬愛し、崇敬する二人の出会いであり、婚姻だ――。
ギンは、このような状況ではあったが、改めてそう思った。
「龍秋さん。銀行に換金に現れた人物が、今回の略取・誘拐事件の犯人だと立証する、術がありません。『自らの意志で選んだ数字が、たまたま当選しただけだ』と主張されたら、そこまでです。本来、宝くじとは、そう云うモノなのですから」
弁護士先生は、ため息交じりにそう応えながら、そろそろ妊娠七カ月に差し掛かるお腹を、まるく撫で上げた。
「せやったら……せや、銀行の監視カメラの映像、元義兄さんに見せたってやなァ、犯人かどうか確認を……」
「その点は、犯人も考慮するに違いありません。換金には顔が割れていない人物を差し向ける筈です。それに、犯人がネットを使って購入していた場合は、登録口座へ自動振込されますから、銀行へ出向く必要すらありません」
Kちゃん先生は、冷静かつ穏やかな声音で応じると、「今の今まで、様子を見ることを主張していた私が云うのも何ですが」と、恥じ入るように前置きしながら、ギンへと視線を転じた。
「帝国領内で、過去一五〇年間に公に確認された『略取・誘拐事件』は、約一五〇件。その内、犯人が、身の代金の奪取に成功した件数は……」
先生は、ギンを見つめ促した。
「ギンちゃん、何件だと思いますか?」
女弁護士に問われたギンは、長い睫毛に縁取られた瞳で天井をしばし睨み、応えた。
「ん……わからへンけどォ、十五件とか? 一割くらいと、ちゃうやろかァ?」
先生は、その回答に頷くと、正解を淡々と口にした。
「ゼロ件。検挙率は、九八パーセント。うち射殺された者は、二十七名。身の代金目的の『略取・誘拐事件』が成功するのは、小説やドラマの中だけの話で、実際は、犯人にとってもっとも割に合わない犯罪なんです」
ギンは、その回答に大きな瞳をさらに見開いた。
「ほな、今回成功したら……」
「帝国近代史上初――に、なりますね」
弁護士先生は、苦いものを飲み込んだような貌つきで、そう云い切った。
だが、その直後、打って変わって不敵な笑みを浮かべる。
「ですが、ギンちゃん、龍秋さん。これは、あくまで法理・法律の世界での話です。『完全犯罪』を成し遂げたつもりでいる犯人の鼻、あかしてやりませんか? 『若月の姫巫女』をコケにするようなアホには、たっぷりお灸すえたろやァ、ないのン?」
Kちゃん先生は、下手くそな月御門の言葉でそう宣した。
三
雪歩は、目を見開いた。
紙片には、こう書かれていた。
* * *
〇 TV局内会議室
新作ドラマのオーディション会場
台詞を読む、若月雪歩(10)
雪歩 「私は、少女役に選ばれた!」
喜びのあまり、バク宙をする雪歩
* * *
「私は、少女役に選ばれた!」
雪歩は、天を仰ぎ見るや、勢いよく宙に舞った。
下着を見られたかも知れないな、と体を捻りながら一瞬思ったが、構わなかった。
へるもんやァ、あらへン、と思った。
持ち前のクソ度胸が、少女の全身に満ち溢れていた。
四
「いやァ、銀音ちゃんに、そっくりだ」
『制作総責任者』を名乗る四十歳前後と思しき女は、高島宮風仁親王妃百合子を部屋に招じ入れると、椅子を勧めるや、開口一番そんな感想を口にした。
「ええと、若月百合子さん……。雪歩さんの従姉……か。君、歳は、いくつ?」
手元の怪しげな書類に視線を落としつつ不躾な問いを発する目の前の小娘を、百合子は、さて、どう料理したものかと思案した。
『気さくさ』と、『無作法』を混同したこの手の人種が、肩で風を切って闊歩するのが、この半世紀で帝国社会に蔓延した宿痾だ、と百合子は慨嘆する。
初対面で、彼女に歳を尋ねてよいのは、故高島宮風仁親王だけなのだ。
その時――。
(ユリちゃん、合格した! いま、スタッフさん達と握手してる。二時間も待たせたの、わざとだって! どれだけ辛抱強いか、試されてたみたい)
不意に、一族の末っ娘からそんな歓喜の『思考』が、送られて来た。
(雪歩や。お・め・で・と・う。こっからが本番やなァ。きばりなはれ)
百合子は、雪歩に祝福の『思考』を贈ると、手に取りかけた断罪の矛を収め、無作法女史とやらの問いに応えてやることにした。
耳順の齢からさらに月日を重ねること幾星霜。「波風立てぬことに如くはなし」と、自らに云い聞かせる。
「十六です」
実年齢を告げる訳にもいかず、見た目に相応しい歳を、百合子は咄嗟に口にする。
この日、百合子は、銀音から借りた黒のスキニーパンツに、やはり黒色の編み目がざっくりとしたニットを合わせ、長い銀髪は後頭部の高い位置でまとめたポニーテールにしていた。
選考会引率を申し出た際、いつもの小袖と馬乗袴では、
「悪目立ちしはる! 百合子さん姉さん、あかんてェ、それ」
と、ミッドナイト・リバース社の代表取締役兼CEOから、じきじきに苦言を呈されたからである。
「高校生?」
「いえ。親戚の……銀音のお店と、家の事を手伝ってます」
嘘では無い。
姉妹の母親――玉緒が、『年末進行』とのことで先月末より原稿仕事に追われている為、高島宮邸に、一時的に『館詰』にし、代わって店と家の手伝いに参戦していたのだ。
今日の、雪歩の『四次審査』の付き添いもその一環であった。
「銀音とは、親しいのですか?」
質問されっぱなしの状況が、いささか癪に触った百合子は、若干の嫌みを込めてそう問うてみた。
すると、意外な答えが返って来る。
「ええ。『ミッドナイト』のミュージック・ビデオ……あの作品の演出は、私がしたの。銀カノンとは、それ以来の仲。因みに、玉緒とは、中学・高校が一緒の大親友。高三の文化祭では、彼女を主演に一本撮ったは。それが、私の原点」
百合子は、ミュージック・ビデオの制作に際して、「人助け八割、興味本位二割やのン」と、かつて銀音が語っていたことを思い出した。
母親の旧い友人からの頼みとなれば、あの娘の性格からすると断れなかった筈だ、と合点する。
「お陰で話しやすくなったけど……百合子さん? 今回のドラマはね、その『ミッドナイト』の五年後を描くの。父親孝行で、健気で、我慢強くて、明るい十一歳の女の子が、ある出来事がきっかけで、自暴自棄で、無口で、冷淡な美少女へと変貌している訳」
プロデューサー氏は、そう語ると視線を宙に向けた。
「いったい少女の身に何があったのか? 序盤から中盤にかけて、過去と現在を行きつ戻りつしながら、そこらへんの謎を明らかにし、終盤に向けて、少女が、辛い経験を乗り込え、再生する様を描く……ネタバレ無しで云うとそんな話ね。『セブン・アイランズ』一社提供のオリジナル作品」
その過去のシーンに登場する娘役に、雪歩が選ばれた、と云う訳だった。
かつての銀カノンとよく似た容貌の雪歩である。
この配役は、きっと話題になるだろうな、と百合子は思った。
「過去パートの役は、雪歩ちゃんで決まり。ああ、これって、彼女ありきのヤラセ・オーディションじゃなくて、二千人の応募の中から勝ち取った役だから、誇りに思って。ただ、ここで問題発生――」
ふう、と小さな溜め息が漏れ聞こえる。
「現在パート役の子が……あと三時間もしたら報道されるから話すけど、合成麻薬『セラフィム』の所持で逮捕されたのよ。香坂七瀬は、降板決定。ゴリゴリに推されて決めた子だけど、直ぐに代役を立てなきゃならない」
制作総責任者の淡々とした説明に、百合子は、一驚を喫した。
随分とこの違法薬物とは、縁がある。
だが、彼女が真に驚嘆するのは、次の発言に於いてであった。
「そこでね、百合子さん、君にお願い。いえ、君しかいないと、『ミッドナイト・リバース』社の五周年式典で見かけて以来、ずっと考えてたの。そんな中、降って湧いたように起きたのが、今回の『事件』。これは、偶然なんかじゃない。天の意思だと、私は、思うのよ。君と雪歩ちゃんと二人で、ダブル・ヒロイン。引き受けてくれないかな?」
五
帝紀二六八一年十二月二六日午後二時三十分――。
『ミッドナイト・リバース』社の従業員の男性が、略取・誘拐され、その身の代金として、二八日抽選回のロト6の当たり番号を、LIKEで通知するよう犯人が要求してきた――。
その旨を、帝都警察本部の『知人』に相談したKちゃん先生は、その後、短い電話を数本入れると、ギンと龍おじさんが待つダイニング・テーブルへと戻って来た。
「先ずは、警察に役に立って貰いましょう。二八日夕刻の抽選後、当たりくじの購入状況を、主催者側は速やかに調査しますが――その結果を『捜査情報』として入手次第、こちらへ流して貰えるようお願いしておきました」
「こちらへ流してって……いや、ええ、ええわ。かんにん、Kちゃん続けたって」
龍おじさんは、何事かを愛妻に云いかけたが、途中で止めた。
賢明な判断だな、とギンは思った。知らなくても良いことは、世の中に沢山あるし、突っ込んではいけないことは、もっとある。
「犯人が、ネットを使って購入していた場合、賞金が自動振込される登録口座の名義、口座番号、名義人の住所などが判ります。店舗での購入の場合は、ちょっと時間がかかりますが、換金時に通帳と本人確認書類が必要になりますから、いずれにしろ同じ情報が判明します」
弁護士先生は、そう語るとギンを見つめた。
「帝都警察本部の知人は、こうして判明した一等当選人物の周辺を探り、略取・誘拐への関与を決定付ける証拠が出ないか、内々に探ってみると言ってますが……それは、おそらく犯人側も想定済み。知人は、優秀な方ですが、何も出てこないでしょう」
「完全犯罪成立やないのン?」
ギンは、そう悔しげに呟くと、弁護士先生のお腹に左掌をかざしながら、赤ちゃんに話しかけた。
「あかんやン。なァ?」
「ですから、ここからが、ギンちゃんの出番です」
弁護士先生は、ギンの左掌を自らのお腹に導きながら、言葉を続けた。
「警察の監視の目があることと、本当に一等当選した方が含まれている可能性が捨てきれないこと。この二点を踏まえる必要がありますが……どうです? ギンちゃんなら、この情報から、犯人を辿れるんじゃないですか?」
ギンは、弁護士先生のお腹に触れながら思案する。
当該人物に『接触』し、先ずは、月白を使って、数日分の記憶を読む。
そうすれば、『不惑のコンビニ店員略取・誘拐事件』へ関与したかどうかを知ることが出来る。
犯人の一味と確認できれば、そこから主犯格を辿るのは、確かに容易いと思われた。
ギンの二重の大きな瞳に、蛍火を想わせる菫色の冷光が、一瞬、燦めいた。
「ん。やってみる」
力強く肯くギンを見つめながら、弁護士先生もまた、肯いた。
「私利私欲やァ、あらへんもン――銀の力を使うとき、ギンちゃんは、必ずこう云ってましたよね? これは、人助けの為の力だって。誰かを支えて、再生させる為の力やのンて……。それが、月の満ち欠け……死と再生を象徴する『天の神様』――月夜見さまが、望んだはることやのンって」
弁護士先生の真摯な口調に、ギンは、引き込まれたかのように首肯する。
「犯人は、そんなギンちゃんを騙して、これから大金を得ます。いいですか? 遠慮は、全く、これっぽっちも、ミジンコの鞭毛の先も要りませんよ、ギンちゃん?」
Kちゃん先生は、そう結ぶとギンの左掌をギュッと両掌で包み込んだ。
六
部屋から出ていった、うら若きCEOを見送る弁護士Kの背後から、長身の夫が声を掛けて来た。
「なあ、Kちゃん」
「はい、なんですか? 龍秋さん」
女弁護士は振り返ると、夫に右手を預けながら、居間へとそろそろと移動する。
「さっき、犯人はギンを『騙して』これから大金を得るって云わはったやろォ? 『利用して』とか、『悪用して』とかやァ、なしに?」
レースのカーテンを引いて室内に冬の光を導くと、弁護士Kは、窓外に視線を向けた。
いつのまにか雪は止み、数日振りに碧空が広がっている。
「ええ……云いました。気になりますか?」
弁護士Kは、そう応えながら、夫の左肩に頭を預けた。
「お? ああ、ちょっと気になった。なんでや?」
「今回の事件――私は、人質当人による狂言、自作自演だと考えてます」
銀色に輝く外の景色を見つめたまま紡がれる女弁護士の言葉に、夫は、ギョッとしたような声を上げた。
「え! ま、まさ……いや、続けて。Kちゃん」
何事かを愛妻に云いかけたが、夫は、またしても途中で止める。
「ほら、あの日――二四日の朝は、私、会社休んで『妊婦健診』に行ってたでしょう?」
「ああ、そやったな。よう覚えとる」
「その後、一緒に有給休暇を取った優秀なる秘書と、近所でお茶したんです。彼女、いろいろあって私の『専任』みたいな扱いですから、私が、来年二月から産休に入ってしまうと、会社に居辛いらしくて……それで、会社辞めたいだなんて云い出して」
「え? そらァ、あかんなァ……」
「取りあえず引き留めて、駅まで見送ったんですが、そこで見かけたんです。人質当人を。時刻は、正午過ぎ。彼のシフトは、午後一時から午後十時でしょう? これから電車に乗ってお出かけなんてどう考えてもおかしい、と話をしたら、彼女、尾行を買って出てくれて」
「はあ……円香ちゃんらしいわ」
夫は、優秀なる秘書Mの、雅な外観からは想像だに出来ない、豪快な性格を思い出したらしかった。
「それで行き着いた先は、帝都内のシティホテル。前日から五連泊の予定で部屋を押さえてました。クリスマスを挟んだトップシーズンですよ? 相当前から計画していたに違いありません」
「君が、しきりに『もう少し様子を見よう』、云うてはったンは、これが理由かァ……」
弁護士Kが、今朝、警察の知人に当たったのは、夫から強く頼まれたからだった。
そのとき女弁護士の脳裏に過ぎったのは、ホテル側あるいは他の宿泊客とのトラブルである。
「はい。朝までは『早めの冬休みに勝手に突入! 社会人失格決定! おめでとう!』くらいに考えてたのですが、午後になって、まさかの誘拐犯からの犯行声明です。さすがに驚きましたけど……よくよく考えると、どうもおかしい。先程、ホテルに電話をしたところ、変わらず滞在中とのご返事。念のために……あっ、来ましたね」
着信を告げるケータイを操作し、弁護士Kは、一枚の画像を表示させた。
「優秀なる秘書より、ホテルのラウンジで遅めのランチを妙齢な美女と優雅に食されている『人質』の写真が送られて来ました。彼女、弁護士法人から探偵事務所に転職しても、充分やっていけますね……」
弁護士Kの溜め息交じりの軽口に、夫は、近年稀にみる怒声で応じた。
「おいおい、オッサン……! ギン、本気で心配したはンねャぞ? 全く、見下げたやっちゃなァ!」
額に青筋が浮き、ピクリと動く。
「それにギン、五年前に用意した二億円、『執行猶予満了祝いやァ』云うてプレゼントするつもりやったンやろ?」
「ええ。『よく頑張ったで賞』って云う、ユキちゃんと二人で作った賞状を見せてくれました。この五年間辛かった筈やァ、えげつないことしてしもたァ、よお辛抱しはったァ、て云って。イヴの夜に、通帳やカードとかと一緒にして渡すつもりだったみたいですね。龍秋さんの引退記者会見のときのように」
弁護士Kは、数日前にした少女との会話を明かした。
彼女は、こう云ったのだ。「とうさんの復活祭兼降誕祭。せやからこれは、Re:バースデイやのン」と。
「リバースって……再生、逆転やなァ……はあ……Kちゃん、泣けてきよったわァ」
弁護士Kは、夫の慨嘆を堅く結んだ唇で受け止めながら『賢者の贈り物』と云う美しいクリスマス・ストーリーを思い出していた。
妹ユキちゃんが、たいへん感銘を受けたらしく、事あるごとに、軽妙なおしゃべりの中に同作品の文章を引いて来るのだ。
しかし、この現実の醜悪さといったら、どうだろう――弁護士Kは、沈思し、問いかける。
二人の元娘に対し、この『東方の賢者』ならぬ『東洋一愚かな男』は、いったい何を与え、何を示そうと云うのか?
そんな見識も、器量すら持ち合わせていないのか?
かつて元長女が吟味、精察したように、「父親には向いてへんホモ・サピエンス史上最強の反面教師」なのか?
いや、この卑劣極まる『背信行為』を企図し、実行する精神の持ち主を形容するに、より適切な表現があるのではないか?
曰く、
――化け物だ
そんな自問自答の後、女弁護士は、夫へと語りかけた。
「龍秋さん。今回、ギンちゃんは、辛い経験をするかも知れません。でもそれは、彼女の為に必要な……そう、あの子が化け物から解放され、生まれ変わる為に必要なことなのかも知れません。きっとそれこそが、『天の意思』、『天の采配』なのだと思います。ギンちゃん自身が再生する為に必要な……神様からの『賢者の贈り物』なのだと、私は、信じます」
弁護士Kは、そう独白すると、スルリと体の位置を変えるや、夫の逞しい胸に顔を埋めた。
「Kちゃん……」
長身の夫は、少女のようにすすり泣く妻に、周章した。
そして――力強く抱きしめた。
七
――とうさん、誘拐される!
――身の代金は、ロト6!
『ミッドナイト・リバース』社を突如襲ったこの凶報は、同社取締役副社長にして文筆家であるかあさんをして、悲哀の大海原に号泣と共に四散轟沈せしめ、非常勤永年最高特別名誉顧問たる妹にいたっては、この一報を知るや尼寺へ駆け込み、ただただ涙と鼻水でもって体内水分を費消せしめることに時を費やした――と云った現象は、全くもって起こらなかった。
何故なら、この凶報を上回る衝撃の知らせが、帰宅した妹からもたらされ、ギンは、事件の詳報を皆に伝えるタイミングを完璧に逸してしまったからである。
「ギンちゃん、ダブル・ヒロイン・ゲットなのであーる」
十二月二六日午後五時――。
『四次審査』から戻って来るなり、満面の笑みを浮かべつつ「やったぜベイビー!」なる半世紀以上前に帝国で流行った言葉――ネタ元は、間違いなく百合子さん姉さん――でもって、見事に大役を勝ち取ったことを報告した雪歩は、炬燵に飛び込むなり、更なる謎めいたキーワードを、野望に燃える天才科学者になりきって発した。
「ダブル・ヒロイン・ゲット? 博士、なんですかそれ?」
妹の成層圏を突き抜けるほど高いテンションに押されたのか、ギンは、助手兼太陽系最強のエスパーの口調で説明を求めた。
ここら辺の呼吸は、レジ・カウンター内でのコンビネーション・プレー同様、阿吽である。
「うむ」
IQ九億八千万の天才は、重々しく肯くと言葉を続けた。
「過去パートで登場する十一歳の頃の役を吾輩が、五年後を描く現在パートの役をユリちゃんが、それぞれ演じることと相成ったのであーる。プロデューサー氏曰く、吾輩は、単なる子役ではなく、物語の核心に関わるヒ・ロ・イ・ン。即ち、ユリちゃんと二人でダブル・ヒロインをゲットしたのであーる」
その発言を聞き、ブッと、お茶を吹き出しかけたのは、年内の締め切り仕事からようやく解放された、姉妹らの母親であった。
かあさんは、口元を拭きつつ、正面に座る高島宮家の妃殿下に、驚愕の視線を向ける。
「ゆ、百合子さん姉さん、ほ、ほんまですかァ?」
年上の女性に対し下の名の後に「――さん姉さん」と付けて呼ぶのは、月御門に伝わる言い回しで、「如何に年齢が隔たろうと、親等が離れようと、異国の他家に嫁ごうと、月御門の女は、大きなひとつの姉妹である」と観念することから産まれた慣習である、とギンら姉妹は教えられていた。
その百合子さん姉さんは、話を振られ、珍しくも困惑顔だ。
「ん? ほんまや」
帝室を支える七宮家の一つたる高島宮家の当主は、そう短く言い切る。
「姉さん……そのォ、お芝居なんかの……ご経験は?」
かあさんは、おそるおそる、次なる問いを発する。
「そんなん、あらへン。あるわけないやろ?」
百合子さん姉さんの声質は、外見同様、ギンと酷似している。
先日、二人同時に店のシフトに入った際、「いらっしゃいませ」の斉声が、見事なシンクロで店内に響き渡る都度、一卵性双生児かと何人ものお客様から質問されたほどであった。
「百合子さん姉さん、正体って……バレてへんのン?」
そのギンも、たまらず『緊急記者会見』に加わる。
「十六歳、あんたらの従姉――で通したった。戸籍やら、身分証明書やらは、月御門政府に云うといた。直ぐこさえて、持って来てくれはるらしいわ」
百合子さん姉さんは、政府自らが公文書偽造に手を染める様を、出前を取り次ぐ蕎麦屋の如き云い回しで明かした。
「宮内庁とか、帝室関係とか……そっち方面の根回しは……?」
知らなくても良いことは、世の中に沢山あるし、突っ込んではいけないことは、もっとある――。
そんなことは百も承知なギンであったが、抵抗しがたい誘惑に駆られ、尋ねてしまった。
「できるかいな? 云うたら最後、石頭な連中から、『妃殿下、御自重を……』とかなんとか云われて、終いや」
妃殿下は、ニュッと手を伸ばして蜜柑を剥き出しだ。
「ええかァ? こないなときはなァ、黙り決め込んでェ、電撃的に既成事実作ってからやなァ、帝国臣民の熱狂と期待を背景に、なし崩し的に政府に事後承認させる……こない『姑息な手ェ』しか、あらへんのンやァ」
百合子さん姉さんは、栄えある帝国陸軍の『常套手段』を用いてこの非常識事態に臨むことを宣言した。
ギンは、この国家を欺く聖戦に、自らも巻き込まれてしまったかのような錯覚に陥り、天を仰ぐ。
「それにしても……よう決心しはりましたねェ……」
キッチンへ立っていたかあさんが、ビールとグラスを二つ持って戻って来た。
その姿に、このまま宴会に突入しそうな勢いを感じたギンは、とうさんの話しをどう切り出したものかと思案する。
また同時に、とうさんのことを心配していたのが自分だけだったと知り、全身から力が脱けるような、しゃぼん玉が弾けるような、なんとも複雑な気持ちに、ギンは、陥るのだ。
「もう、しゃあないやないかァ。あの制作総責任者さん、あんたの旧ゥい友達やァ云うてェ、いろォんな昔話してきはるし、そんなん聞かされたら、断られるかいな?」
「え? 昔話って?」
雪歩が、すかさず肉食獣の嗅覚と鋭敏さでもって、食らいつく。
聞き流す、あるいは大きな気持ちで騙されてあげる――そんな腹芸とは、一切無縁な十歳である。
「ん。せやから、いろいろやァ」
百合子さん姉さんは、意味深な笑みを浮かべた。この瞬間、ああ、攻守が逆転したな、とギンは思った。
「姉さん、子供達の前やしィ、その話は……また後で」
かあさんは、何かを予感したらしく、素早く予防線をはる。
「そやな。そないしよかァ? それよりもな、銀音や」
あっさりと矛を引いた百合子さん姉さんは、左手に座るギンを見やった。
「制作総責任者さんから、伝言」
「へ? 私に? はい」
伝言と聞き、ギンは、姿勢を正した。
「うちが、口で云うよりも……ちょうどええ、月白の練習や。うちの記憶読んでみなはれ」
百合子さん姉さんは、そう云うと、ギンと瓜二つの己が相貌を指差した。
八
ギンは、左掌を百合子さん姉さんの額にかざした。
その手首には、鏡のように磨かれた一センチ程の幅の銀色の板が幾つか連なり、腕時計のように手首の周りを覆う造りをした腕輪が、装着されていた。
板の表面には微細な加工で絵文字のような図柄がほどこされており、その中央、文字盤に当たる一際大きな台座に、五百円硬貨ほどの大きさの、滑らかな『石』が埋め込まれている。
その瞬間――。
その『石』から、碧味を帯びた眩い白色光が放たれたかと思うと、眼前の光景が、一変した。
目の前の空間が歪み、己の顔を指し示す百合子さん姉さんの姿が、掻き消える。
そして、去る、『ミッドナイト・リバース』社五周年記念式典の席で、久しぶりにお会いした貌――五年前の『ミッドナイト』のミュージック・ビデオ制作の際に、演出家をされていた、かあさんの旧い友人の貌――が、立ち現れた。
ギンは、今、百合子さん姉さんの記憶を、生々しい映像と音声で再現している――そう、記憶を読んでいるのだ。
かあさんの旧友は、視線をギンに――即ち、百合子さん姉さんに――据えて、ゆっくりと語りかけ始めた。
「――雪歩さん、百合子さん、そして君と作り上げたシロガネ・カノンの三人を、お借りします。君は、『自分は主役ではなくて、誰かを助け、支える存在で在りたい』と、かつて私に云いました。『だから、シロガネ・カノンは、いっかい、ぽっきり、これっきり』だと。私は、この作品で、雪歩さん、百合子さんの二人が、ダブル・ヒロインとして、主人公として、誰かを助け、支える存在であることを、君に示そうと思っています。そして、君の想いを逆転させようと思っています。君を主人公に迎え、一本撮ることが、私の生涯の夢です――。その日まで、壮健なれ」
九
ギンが、我に返ると、姦しかったリビングは、いつのまにやら静謐で、清冽な空気に包まれていた。
「百合子さん姉さん……伝言、おおきにィ」
ギンは、百合子さん姉さんに深々と頭を下げた。
年上の、しかもその道のプロフェッショナルから、『生涯の夢』とまで言われ、いささか以上に彼女は混乱していた。
ただ、混沌と困惑がないまぜになった、潮渦巻く海の底から、今や急速度で浮上し、確信へと変わりつつある思いが在った。
それは、百合子さん姉さんが、万難を排し、ドラマへの参加をお引き受けになられたのは、この伝言の存在が大きかったに違いない、と云う推察である。
そしてその事を敢えて語らず、冗談めかしてはぐらかす妃殿下の為人に、ギンは、今更ながら畏敬の念を抱く。
人情の柔らかきことと、深きことを窺い知り、崇敬の念を改めて強める。
「どや?」
「はい」
小さく首肯するギンに、曾祖伯母は、小さな命を慈しむかのように微笑み、やはり微かに肯くと「銀音や――」と、言葉を継いだ。
「なかなかに、骨のあるお方やなァ……あんたは、ええ出会いをしはった。大切に、大切に、しなはれ」
「はい」
ギンは、百合子さん姉さんに、いま一度、深々と頭を下げると、「ちょっと店みてくる」と云いながら、炬燵から立ち上がった。
そのまま雪歩と共同で使っている部屋に立ち寄って、ダウンジャケットに袖を通し、デイパックを背負うと、家を出る。
そろそろ、約束の時刻だった。
ギンは、表に出ると、マンション共用部の通路から身を乗り出すようにして、ある期待感をもって天を仰ぎ見る。
早くも夜の帳に覆われた冬空に、しかし、月の姿は見え無かった。
(なんやァ……更待月………かいな)
少女は、小さくため息をつく。会いたいときに、会えない――なかなかの、アオハルだ、と思った。
――ミッドナイト 硝子質の光が
ギンは、宇宙蛍の『ミッドナイト』の一節を、小さく口ずさむと、一階へは降りずに屋上へ続く階段を登った。
――ミッドナイト 砕け散る、闇の中で
重い鋼製のドアを、鈍い金属音を響かせながら、押し開ける。
――ミッドナイト 探し求めてやっと……
すると、雪を被った受水槽の陰から、巨大な――胸から尻までの長さは、優に二メートルを超える――真っ白な獣が、飛び出して来た。
「雪風!」
ギンは、雪のように白い毛で覆われたツキノワオオカミの末裔に駆け寄ると、ピンと立った形の良い耳に、薄紅色の唇を押し当てた。
「かんにん、待たせてしもたァ?」
(いや、遅くはないさ。私も、いま着いたばかりだ)
頸元の銀色に輝く三日月の形をした和毛を優しくくすぐるギンに、雪風は、そう『思考』で応えた。
(さあ、ギンちゃん乗りなさい)
「ん。かんにん」
ほっそりとした体を、黒のスキニーデニムと同色のざっくりとした編み目のニットに身を包んだギンは、雪風の背に跨がった。
(ホテルまで転移するかい? それとも、飛ぶかい?)
「飛んで、雪風――帝都の夜景、一緒に見よ」
ギンは、そう応えたながら、雪風の和毛に貌を埋めた。月の光のよい匂いがした。
(承知した!)
雪風は、雪が降り積もった屋上をひと蹴りすると、青藍色の師走の空を一陣の白き風となって、疾走した。
十
「――さま。お荷物をお預かりしております」
部屋の鍵を預ける為にフロントに立ち寄ったとうさんは、受付スタッフの女性からそう告げられ、その彫りの深い貌に困惑の表情を浮かべた。
「荷物? 私に?」
「はい。たいへん重要な書類を、お忘れになられたとかで」
瞬時に、何かの間違いだろうと、とうさんは、思った。
このホテルに三日前から滞在していることは、誰にも伝えていないし、そもそもコンビニ店員――それも既に、過去の身分だが――に、『重要な書類』など存在する筈もない。
いや、あるとすれば、『帝国銀行券』と印字されたそれだけだ。あと数日で、二億枚分を手に入れることが出来るであろうそれだけだ。
* * *
五年前の初公判――あの日、あの瞬間。
目の前で繰り広げられる『再現実験』に驚愕し、絶句する裁判官らをしり目に、とうさんは、この自作自演の誘拐劇を思いついた。
――こいつは、やっぱり金の卵を産むガチョウだ
なんとしてでも執行猶予を勝ち取り、満了したあかつきには、このギンならぬ金のガチョウを使って、数億のカネを手にしてやる――被告人席で神妙な表情を装おいながら、とうさんは、競馬に興じるときの数万倍、数億倍の興奮を味わっていた。
心臓の拍動が、過給器を搭載したかのように力強いものへと変わるや、黄金色に燦然と輝く血液が、ドクンドクンと体内を駆け巡り、男性器が、痛みを覚えるほど勃起した。
――この大勝負、絶対モノにしてやる
とうさんは、検察官による『論告求刑』を聞きながら、そう決意した。
そう、とうさんにとって最大のギャンブルが、このときより始まったのだった――。
* * *
「なによ? どうしたの?」
とうさんは、これから夜を共にする傍らの女性に、「なんでもないよ。先に下に降りてなさい」と、微笑を浮かべながら柔らかい口調で命じた。
「こちらで御座います」
一人残ったとうさんに、透かさず差し出されたのは、『角形二号』と呼ばれる、A4サイズの書類が入る大きさの茶色の封筒である。無地で、社名や宛名のたぐいは一切ない。
「誰が、これを?」
訝しむとうさんに、三十歳ほどの女性スタッフは、やや当惑気味に返答した。
「お名前は賜りませんでしたが、十代なかば程の、綺麗な女性の方でした。十八時少し前くらいにお見えになって……。『とうさんに』とおっしゃってましたので、てっきりお嬢様かと……」
とうさんは、その説明に平静さを失い、一瞬、慄然と立ち尽くすと、その場で慌ただしく封筒を開け始めた。
中から出てきたのは、とうさん名義の通帳、印鑑、キャッシュカード、そして『よく頑張ったで賞』と題された一葉のメッセージカード――いや、賞状。
その丸みを帯びた愛らしい字体から、二人の元娘からのものと、とうさんは、知る。
とうさんは、恐る恐る、フロントカウンターに置かれた通帳に手を伸ばす。
頁を開き、視線を落とし、刮目する。
そして――。
とうさんの口から、嗚咽が漏れ、それはいつしか慟哭へと変わった。
十一
(ああ、それはね、ギンちゃん。月白の暴走さ。ユリちゃんも、今のギンちゃんと同い年ぐらいの頃、何度か経験している。強大な力は、制御するのが、やっかいなのさ)
帝都タワー上空――。
ギンは、『質量』と『エネルギー』を司る力・菫で作り上げた電離気体の球体を周囲にいくつも浮かべながら、雪風の背に乗り、帝都の空をユラユラと漂っている。
「暴走……? うはァ……」
ギンは、短くそう嘆息しながら、今しがた雪風に語ったことを想起する。
彼女は、敬愛するKちゃん先生から、
「いいですか? 遠慮は、全く、これっぽっちも、ミジンコの鞭毛の先も要りませんよ、ギンちゃん」
と諭されながら、ギュッと左掌を握られたとき、見たのだ。
弁護士先生の記憶を――。
「……見えてしもてン。イヴの午後、秘書さんと電話してはる、先生の記憶を……とうさん、仕事さぼってホテルに連泊しはる気ィやわァ、云う『会話』を……」
雪風は、ギンのこの説明から事情を察したらしく、「ワホン」と鳴くや、先の『思考』を放ったのだった。
プラズマの光が、その巨大な体躯を白銀色に照らし出す。
「……その後ね、『自作自演』とか、『狂言誘拐』とか、『化け物』とか……先生の『思考』が、ダダダーって流れ込んで来はって……びっくりしてしもたァ……。ねェ? 雪風、これも『暴走』なんやろか?」
ギンの問いかけに、雪風は、いつもながらの理知的な思考で応じる。
(いや、それは『暴走』ではなくて、もともと持っている力が発現しただけさ。普通、月御門の女達は、石を持っている者同士でしか思考を伝え合えない。だが、ギンちゃんは違う。石を持たない同族の者どころか、『大和人』の思考ですら、感じ取り、拾うことが出来る……。ほら、五年前、サンタ達に誘拐されかけた、未だ石を持たないユキちゃんの『声』を捉えただろ? あの時と一緒さ)
ギンは、雪風の説明を聞きながら、あの五年前のクリスマス・イヴに起きた『事件』を思いだしていた。
あの時、妹の『思考』を、かあさんは捉えることは出来なかったのだ。
(気味が悪いかもしれないが……『菫色の石』を持つ者の宿命だよ。もう少し経験を積めば、ユリちゃんみたく自在に操れるようになるさ……。それはそうと、あの『事故物件クン』に、本当にお灸すえてやらなくて良かったのかい? Kちゃん先生から遠慮はいらないと云われてたんだろ?)
雪風が、辛辣な言葉で形容する人物は、ギンのとうさんに他ならない。
「雪風、アノね。事故物件クンって……」
(だめかい? では、『欠陥商品クン』あるいは、より直截的に『不良品クン』と呼ぶことにしようか?)
「雪風ェ――」
ギンは、苦く笑う。
笑い飛ばすしかない。
とうさんではなく、自分自身を――そんな乾いた感慨しか、今、ギンは、持ち合わせてはいなかった。
競馬狂いで、
お金にだらしなくて、
お酒にはもっとだらしなくて、
ホロ酔い運転の常習犯で、
軽薄で、
考えがいつつも浅くて、
毎度ジタバタ騒いでは、
事態をトコトン悪化させる小心者で、
史上最凶の反面教師で、
事故物件で、欠陥商品で、不良品で、
そして――化け物。
そんな言ノ葉が、ぐるぐると脳内を螺旋状に渦巻きながら、ギンの頭上へと吹き抜けて行く。
見上げれば、青藍色の冬空で、ひときわ明るく輝く星は、『おおいぬ座』のシリウス。
その上方、数千億個の恒星からなる大河を挟んで、『オリオン座』のベテルギウスが煌めく。
視線を転ずれば、光の海を渡らんとするいま一匹の猟犬の首元に、『こいぬ座』アルファ星プロキオンを観る。
「お灸すえるとかは……出来ひンかった。お金はね、ずっと前から……五年も前から、プレゼントしてあげよ思てたンやしィ……。セーラ・クルウかて、資産家の共同経営者さんと出会ォたからこそ、あの『ミンチン学院』の屋根裏部屋から、外の世界に向かって旅立つことできたンやしィ……」
ギンは、そう雪風に応えながら、再び天の頂きへと視線を向ける。
月は、やはり見当たらない。
――父よ、|彼らをお赦ゆるし下さい。
――なぜなら、
――彼らは何をしているのか、
――わからないからです。
(ルカの福音書か……ふむ。私の爪と牙で切り刻んでやっても良かったが……ギンちゃんが、それでいいなら、まァ、いいさ。『北風と太陽』の例えもある……。ヤッコさん、意外と堪えてるかも知れないしな……いや、それは無いか)
雪風は、唐突にイソップを引き、自らの考察を述べるや、その考えを直ちに否定し、「クゥーン」と低く鳴いた。
(一つだけ解せないのは、ここまで罰当たりなことを思いつき、やり切ったことだ。いや、私は、彼の良心や羞恥心を問題にしているんじゃないよ? ギンちゃんを金蔓のように彼が思っている事は、それこそ五年も前から、私は見抜いていたしね。だが、事故物件クンは、天の父……『天の神様』によって死を賜られると、本気で怖れてただろう? それなのに、よくもまァ……)
「ああ、それねェ……」
ギンは、雪風のピンと尖った形の良い耳に薄紅色の唇を寄せた。
「とうさんね、いつか云うたはったわ……」
――俺、思うんだ。
――ギンちゃん自身が、天の神様なんだよ。
「だから、ほら。私が、とうさんの死を望むなんて、ありえへーんって、たかくくったはンねン。たぶんね」
ギンのこの推察に対する雪風の反応は、少女にとって意外なものだった。
(ほう……面白い。不良品クンにしては、傾聴に値する考察だな)
「あら? え? 雪風? ここ突っ込むとこやねンけど? んなことあるかーい、とか、オッサンなに雰囲気出して、意味不なことほざいとンねーン、とか。そーゆーの返してくれへンとあかんやン?」
穿った見方だと、雪風と二人して、とうさんを笑い飛ばすつもりでいたギンは、ツキノワオオカミの末裔が放つ明瞭なる『思考』に少なからず驚かされた。
(ギンちゃんは、特別だからね。ギンちゃん自らが、月夜見さまと同じ、因果律に干渉する力を備えていても、私は、全く驚かないな)
雪風の全てを達観したかのような『思考』に、ギンは、反証を試みる。
「ない、ない、ないってば。あのね、雪風。『ミッドナイト・リバース』って云う名前はさ」
ギンは、雪風の広い背に体を預けながら、言葉を続けた。
「とうさん、かあさん、私に、ユキちゃん……壊れてしもた家族四人が、またやり直せへンやろかァ? 元家族が再生しィひンやろかァ? 零に近い確率かも知らへンけど……お天道さまの下では無理でも……銀色のお月さまが輝いたはる夜だけでも……そないな偶然、引き寄せること出来ひンやろかァ? て云う願いを込めてね……付けてン」
電離気体の球体が、クルクルと旋回しながら、少女の相貌を闇に照らす。
「でも……あかんかった……。せやから、私が『天の神様』やなんて、ない、ない」
ギンは、吐息のように呟いた。冬の大三角形は、やはり『三角形』のままなのだ。
(ギンちゃん……)
雪風の言葉なき『思考』が、戸惑うかのようにギンの頰を優しく撫で上げた。
「きっとさ、もう……」
とうさん、帰って来ィひんかも知らへン――ギンは、そう続く筈であった台詞を、飲み込んだ。
言葉にすれば、何もかもが消え去ってしまう――そんな思いに駆られたのだ。
その時――。
(ギンちゃーん、いまどこォ? お寿司だよ!)
(ユリちゃんの、おごりだよう!)
五つ下の妹から、夕食を告げる『思考』が、届く。
(雪風と夜景デート中。せやけど、三秒で行く)
ギンは、食いしんぼうの妹へと『思考』を送ると、雪風の頸元の和毛を、優しく撫で上げた。
「帰ろかァ、雪風……お寿司やねンて」
(ふむ……。承知した!)
雪風は、再び、帝都の夜空を吹き抜ける疾風となった。
十一
「本番!」
助監督の鋭い声掛けと共に、撮影機材と録音機材が、作動り出す。
「よォーい」
監督の間延びした声が、緊迫した現場に響き渡る。
「活劇!」
その声音と共に、助監督が手にした拍子木が鳴る――。
* * *
カノンは、闇の中を疾走っていた。
彼女の右手に立ち並ぶのは、巨人の腕を思わせる、朱と白の二色配色で塗り分けられた巨大な門型起重機。
左手に聳えるのは、堆く積み上げられた鋼製の積荷容器の壁。
背後から近づいて来るのは、複数の靴音と、荒々しい息づかい。
湿り気を帯びた潮風が、黒のライダーズジャケットとブルーのスキニーデニムに身を包んだカノンの銀色の髪を、激しくかき乱す。
「止まりなさい!」
「待ちなさい!」
男達の険しい声音が、夜の埠頭に響き渡る。
その時――。
左手から進入して来た数台の警察車両が、タイヤを軋ませながら路を塞ぐようにして停車し、彼女の行く手を阻む。
バラバラと複数人の警察官が、車から降りてくる。
前灯の眩い光が、カノンの硬質の美貌を闇に照らし出す。
「ちっ!」
短い舌打ちと供に立ち止まった彼女は、一寸の躊躇いもなく、右手に広がる深い藍色の海へと体の向きを転じる。
「おい! 待ちなさい!」
制止の声が、驚声へと変わる。
カノンは、勢いよく岸壁のコンクリートを蹴る。
華奢な体が、闇に舞う。
僅かに水飛沫が立ち、カノンの体は、夜の海に消える――。
* * *
「ユリー、次、行けるかーい?」
海中で待機していた潜水士によって蜜柑色の救命浮輪へと誘導されたユリに、曳舟の船上から、監督が、やはり間延びした発声で呼びかけて来た。
カット割を変えつつ、埠頭を百メートルほど全力疾走すること七度。
その後、本日の山場となる夜の海への飛込場面を吹き替え無しの一発撮りで敢行――。
しかし、今夜の撮影の真に過酷な点は、「海に飛び込んで終わり」、ではない事であった。
「行けます!」
ユリは、毅然とした声音で短く申告した。
六月も中旬とは言え、海水温は、未だ水風呂なみの摂氏十六度――。
スタッフの全員が、この少女の肝の座り具合に、今さらながら圧倒され、奮い立つ。
夜明けまであと一時間――。
ここが、踏ん張り処だと誰もが確信する。
「何か問題ないかーい?」
「ない、ない、ナッシングです」
ユリは、従妹の口癖を真似て応える。
「よし、カノン、水面に浮かび、月を見上げる――行くよ。空撮機材飛ばしてー! 一発で仕上げるよー」
帝紀二六八二年六月二十日午前四時三十分――。
淡い菫色の空の一画に赤みが差し、水平線の彼方に燃え立つ光球が産まれ出でるのを合図に、七時間に渡った夜間撮影は終了した。
斯くして――金曜ドラマ・テン『Re:バース』の主人公カノンの『現在パート』を演じる十六歳の新人女優・銀ユリは、その日、出演する全シーンを撮り終え、同役の過去パートを務める十一歳の従妹・銀ユキに先立ち、撮影終了を迎えた。
「ユリ!」
制作部が設えたテントの中で、海水で濡れた衣装から私服――革ジャンにブルーのスキニーデニムと、衣装とあまり変わり映えしない――に着替え、濡れそぼった髪を頭から被ったタオルでワシャワシャと拭きつつ表に出たユリは、彼女の名を呼ばわる声に、面を向けた。
見ると、撤収の手を休めた制作陣とこの日の共演者らが、早暁の陽光に白々と燦めく海を背に、いつの間にやら参集していた。
見ると人の壁が割れ、百合の花束を抱えた一人の少女が、近づいて来る。
「ユリさん……百合子さん姉さん、お疲れさまでした!」
ユリ――月御門政府が捏造した同国の戸籍によれば、十六歳の少女・若月百合子、然してその実体は、御年百歳になる高島宮風仁親王妃百合子――は、以外な人物の登場に目を見開く。
「銀音……なんやァ、来てくれてはったン? いつからァ? いやァ、うれしィ、おおきにィ」
この三月に十六歳に成った従妹、若月銀音から花束を贈られたユリは、月御門の言葉で礼を口にすると、少女をギュッと抱き寄せた。
おそらくは敏腕で知られる制作総責任者による仕込みと思われるこのサプライズ・ゲストとのツーショットに、スタッフ・キャスト一同、大いに沸き立つ。
二人の容姿は、髪の色を除いて、一卵性双生児と見紛うほど酷似しているのである。
盛大な拍手に加え、打って付けの『番宣素材』と捉えたのか、局側の広報担当者が切るシャッター音が、潮風に乗って朝の埠頭に響き渡った。
(Re:バース……か)
ユリは、鳴り止まぬ拍手とカメラの作動音からなる細波に身を委ねながら、この半年ほどの体験を振り返る。
奇しくも彼女が、故高島風仁親王と結婚した歳が、十六であった。
つまり彼女は、八四年前の少女時代の境遇で、結婚をしなかった全く新たな人生を、この戦争の足音を感じない平和な世で歩んでいる、とも云える。
あたかも異世界へ転生したかのように。
(なるほど……転生やわァ)
言霊に秘められた『力』に思いを馳せるユリは、従妹に回していた腕を解くと、スタッフ・キャスト一同に視線を巡らせるや、端正な挙措で頭を下げた。
その時――。
銀音の真摯な『思考』が、心象風景に響き渡った。
(あんなァ、百合子さん姉さん……)
(ん? どないしはったン?)
ユリは、ややあって面を上げると従妹を見つめる。
(プロデューサーさん、云わはったこと、なんとなァく、判った気ィがする……)
あの、『四次審査』を終えた夜に読ませたプロデューサー氏の伝言の事だと、ユリは、瞬時に理解した。
(今日、現場見てたら、そない思えて来た……)
(ん。逆転しはったン?)
(うーん……ちょっとだけやけど……逆転し始めたかも、知らへン……)
ユリは、その『思考』に微笑を浮かべると、銀音の左頰、ちょうど小さなホクロがある位置に、素早くキスをした。
「ひゃ、くすぐったァ」
銀音は、のけ反りながらも、クスっと微笑んだ。
《完》
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