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プロローグ
十年後の私へ
今の私は、『将来の夢』を決められません。
アイドル?
モデル?
ケーキ屋さん?
保育園の先生?
私は、わがままってよく言われるから。
何になりたいか、なんて、決められない。
だから、逆に聞きます。
十年後の私は、何になっているんですか?
楽しい仕事ですか?
しゅみは、なんですか?
友だちは、たくさん出来ましたか?
カレシはいますか?
いま、しあわせですか?
プロローグ
手に持ったグラスの中で、コロンっと氷が傾く音を聞いた。それを合図か、騒々しい声が重りあって、だんだんと遠くなっていく。
目を閉じれば、このまま眠れてしまいそうだ。けれど、瞬間、むわっと広がる煙の香り。
「俺が若いころはね~」
騒々しい声の一つが、煙草をふかし、自慢げに鼻を鳴らした。
右側の口角をあげて、いかにも傾聴しているという態度で何度も頷く。その度に、脳みそがグラグラと揺れるようだった。
飲み会は苦手だ。おいしく感じたこともない酒を飲まされ、面白くもない話を聞かされる。
『会社の人と飲むの楽しいよ! 情報共有できるっていうか。あとはほら、コネクションが得られれば、後々自分の待遇もよくなるし』
そんなことを言っていたのは、入社数か月で、早々に授かり婚退職した同期の女だ。もう名前も忘れた。
「実花さん、」
そんな時に、ふいに隣から声をかけられた。
他部署の男性だ。年は一回り上だろうか。この会社に入社して半年が経ったが、まだロクに話したことはない。
「実花さんって、ひとり暮らし?」
唇の周りの、ポツポツとそり残した髭の痕が目立つ。
なんでもない会話の一つだ。
そう思い、彼女は頷いた。
「はい、そうです」
「彼氏は?」
「いないですね」
「ええ~意外だ! それじゃあ、寂しいね」
ふいに、太ももに触れた手のひら。
視線が、自身の首元のやや下へと注がれる。
なんでもない、コミュニケーションの一つだ。
その後、飲み会はお開きになり、二次会へと誘われる前にと、女、実花は、そそくさと脇道へと入り込み、駅へと速足に歩を進めていく。
「あ~もうっ……」
数駅電車に乗り、たどり着いたアパート。エレベーターなんて洒落たものはない。
上へと続く、その階段をのぼる。
一段、一段を照らす、切れかかった電灯だけがチカチカと音を鳴らすそこで、彼女は、悪態をついた。
仕事は嫌いだ。
職場の人たちとの飲み会も嫌いだ。
なれなれしい男も嫌いだ。
だから、最悪の気分だ。
アルコールが手伝って、非常に短絡的な思考で、彼女はそんなことを考える。
けれど、普段とは違い、何か『イライラ』以外の感情も立ち昇ってくる。
出勤前に読んでしまった、あの手紙のせいだろうか。
小学生のころの彼女が書いた、十年後の自分に対する手紙。
学校の課題だったんだろうか。
卒業アルバムに、閉じ込んであったそれは、スーパーで特売だったレトルト食品と一緒に、母が送ってきたものだ。
『楽しい仕事ですか? しゅみは、なんですか? 友だちは、たくさん出来ましたか? カレシはいますか?』
新卒一年目、二十二歳。
残念、その返事は、すべて『いいえ』です。
なんて、幼いころの私が知ったら泣き出すんじゃないだろうか、とそんなことを考えては、彼女は自嘲気味に笑う。
「あ~、こんな気分になるくらいなら、あのおじさんに、平手打ちして、やればよかったぁ~……」
実花は自身の太ももを手の甲で拭いながら、そういう。
普段こそ、優しそうと評価される彼女であるが、酒が入ればこんなものだ。
階段を上がる度に、コツコツ、音を鳴らすヒール。
ああ、情けない。
情けなくて、涙が出てくる。
「おねえさん」
「はい?」
ふいに聞こえた声。ちょうど、自身の住む部屋の扉の前に立ったところで、後ろから聞こえたそれだ。
「しあわせ、ですか?」
女は、さらに深くにまで回った酒のせいか、頭をふらふらとさながら、後ろを振り返る。
帽子を被った、男だ。
そのロゴは何か見たことがあるデザインではあるが、目の焦点もロクに合わない彼女には、思い出すことが出来ない。
マスクに黒縁の眼鏡をつけており、暗がりのせいか、その表情もよく見えなかった。冴えない男のように思える。
「いいたいことを言えない! 本音も! ワガママも言えない!」
大人しそうな風貌の男から発せられた、まるで応援団のそれを思わせるような、急な発声。
それに、頭がグラリと揺れる。
「……そんな、世の中に、疲れていませんか?」
ええ、疲れてますよ。
「いま、しあわせですか?」
十年前の私へ。
私は、しあわせに、みえますか?
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