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大学を卒業してすぐ、大きくも小さすぎるわけもない会社に、正社員として入社できたことはとてもありがたいことだと、実花は感じている。
だがしかし、いざ入社してみれば、一般事務という役割ではあるものの、パートの女性たちとは違い、総合職と同じようなことをさせられることは多かった。
イメージと違う、なんてことを思うほど、社会に詳しくない自分だ。
それに、現状を変えたい、何かをしたい、などという目標も持ち合わせていない。
だからこそ、今は目の前に詰まれていくものを、ただひらすら、無心でこなしていくことが正しいんだろうと考えていた。「これ、頼める?」
「はい。あ、でも結構、仕事がその、これは、いつまでに、」
「じゃあ、お願い」
言葉を遮るようにして、またデスクの上に詰まれていく書類。それを見て、思わず肩を落としそうになる。
今、どれだけのタスクが溜まっているか。何をどうすべきなのかを、きちんと言えない自分にも問題があるといことはわかっている。
「実花さん、また仕事押し付けられてる」
「実花さんは、おだやかで優しそうだし、ほら、怒らなそうで、害がなさそうっていうかね。言いやすいんだろうね」
「あはは……」
すぐ近くに座るパートの女性たちが、慰めるようにそう声をかけてくるので、苦い笑いを浮かべた。
いつから、自分の意見を言うのが怖くなったのだろうと、実花は思う。
他人に合わせるその様は、八方美人とも思われるだろうが、愛想がものすごくいいといではないからか、そのような表現をされたことはない。
その代わり、学校でも、社内でも、『害のない人間』と言われる。
それは、悪口ではないのだとは思う。
けれど、その表現を聞く度に、常に付きまとう思考があった。『自分は、何かをする側ではなく、される側』なのだと。
つまらなくて、受動的で、脇役で、まるで……。
その後、残業をしつつ、なんとか、今日中に終わらせるべき仕事を終わらせた、実花。デスクで食べた菓子パンのおかげで、腹はすいていないことが、救いではある。
明日も仕事だし、今日はゆっくり風呂へ入って疲れを取りたい。
そう思い、家の玄関扉を開いた。そのままの足で、浴室の扉を開け、そして、深くため息を吐く。
「汚い……」
浴槽を掃除したのは、いつだろう。大抵はシャワーで済ませてしまうため、埃のような汚れや、カビなどが目立っている。
それを見なかったことにしたい実花は、静かに扉を閉じた。
「とりあえず、着替えよう……」
――ピンポーン
そんな時、聞こえたのは来客を知らせるチャイム音だ。
「はい?」
ちょうど通りがかりにその音が鳴ったため、思わず、インターホン越しではなく、扉の前でそう返事をし、扉へと手をかけた。
いや、念のため、と除き穴から、外の様子を伺う。
そこには、一人の男が立っていた。
高級そうなスーツを着た、眼鏡の男だ。顎先に、髭を蓄えている。
「はじめまして、実花様。℃0サービスのコスと申します」
彼は、実花が扉を開けるより先に、そう声を発し、深々と礼をした。
℃0サービス。その言葉によって、急激に、鮮明な記憶がよみがえる。
たった三日程度だ。それなのに、平日となれば、日常に忙しく、あんなにも非現実的な驚くべき出来事を、随分と過去の夢のように思えていた。
「あのサービスの? でも、シンさんじゃ」
実花はそういいながら、扉を開いた。
前に立つ男は、実花と目が合うと、ニコリともせず、けれど、冷静かつ慣れた様子で、もう一度、深く頭を下げた。
「はじめまして、実花様。コスと申します」
「は、はじまして」
そのあまりに丁寧な動作に、実花もつられて、頭を下げる。
そして、「あの、その、どのような御用でしょう」と尋ねた。
「ああ、先輩は、どうやらきちんとした説明もしなかったようですね。申し訳ありません」
実花の言葉を最後まで聞き届けた男は、静かにまた、頭を下げた。
立派な風格のある男であるのに、腰が低いのが意外だ。
「まずは、簡単なご説明をさせていただきたいのですが、」
そこで言葉を区切り、彼は困ったようにあたりを見渡した。
このアパートの住人はさほど多くはない。けれど、遅い時間に、人の話し声が聞こえれば、気になる者もいるだろう。
「中へどうぞ」
コスと名乗った、彼の言いたいことを察した実花は、そう告げて、招き入れた。
「奴隷の私が、差し出がましく、申し訳ありません」
男はそういうと、シンがそうしたように、勧めたソファーを断り、床へと正座する。
そして、彼の言う、『奴隷』という言葉に、実花は驚いていた。
「コスさん? も、奴隷なんですか?」
「はい、そうです。名刺が遅れてしまい、失礼いたしました」
男は、財布から一枚の名刺を取り出す。
それは、シンと同じデザインのものであり、コスという、その二文字が描かれていた。
彼がスタッフであることは間違いないようだ。
けれど、やはり意外だ。彼は、自分よりも一回り以上年上に見えたし、この落ち着いた様子も含めて、シンとはまるで違う。
サービス会社の本社側の人間だとか、そういった人なのでと思っていたためである。
「その、もう一度確認なんですけど、その℃0サービスっていうのは、どんなものなんですか? その、家事代行みたいなものということは、わかってるんですけど」
実花のたどたどしい問いに、途中で言葉を挟むこともなく、聞き終えると、男は静かに語りだす。
「はい。℃0サービスを、家政婦・執事、そうお呼びになる方もいらっしゃいますが、大きく違うところは、実花様と過ごす間、私たちに、自由や拒否権はないということ。痛めつけたり、辱めたりといったことも、可能ですが、死に至らしめたり、一般の方にご迷惑をかけるような犯罪行為をさせるのは、ルール違反になりますので、ご注意ください」
男の淡々とした回答に、実花は「は、はぁ……」としか言うことが出来ない。
「そして、実花様には、特別プランとして、三人の奴隷スタッフが専属として、つくことになりました」
「え、三人ですか?」
「はい、それが、例のシンと私と、もう一人は、新人の予定です。三日に一回、ローテーションの形で、実花様の元へ訪れます。その際に、なんなりとご命令をいただければと思います。また、気に入らないスタッフがいれば、担当を外すことも出来ますので、お気軽にお申し付けください」
男は、そこまでをゆっくりと聞き取りやすいテンポで語った後に、また頭を下げた。
「以上の説明で、ご質問はございますか」
「い、いえ、なにも、ありません」
シンの時に比べれば、男の説明は、丁寧なものだっただろう。けれどまさか、酔った自分が、他に二人もスタッフを頼んでいたとは知らず、その驚きに囚われたままだ。
やはりクーリングオフを、と思うが、こちらが招いてしまったという事実がある手前、追い出す言葉を見つけられない。
「それでは、今夜は、私になんなりとご命令ください」
「ええと、でも、その」
命令を待機するように、じっと身を動かさなくなった、男。
彼のその年齢のせいだろうか。まるで会社の上司を前にしているようで、実花は、いつも以上に言葉をうまく発することが出来なくなる。
すると、それを見かねたように、男はわずかに表情を柔らかくさせた。
「実花様は、どうやら緊張なさっているご様子。奴隷相手にそのような気遣いは必要ない、と言いたいところですが、お気持ちはお察しします」
「ええと、はい、緊張してますし、どうしたらいいかわからなくなっています」
実花は、男のその柔らかな口調から、ようやく素直にそう言葉にすることが出来た。
「承知しました。それでは、何か、私の得意なことをご覧に入れましょうか?」
「得意っていうのは? 物真似とか手品とか?」
それは、実花が真剣に考えたものであったのだが、男は、鼻先から、空気を出すようにして微笑む。
「失礼しました。ご所望でしたら、もちろん練習の上、披露させていただきます」
「あ、いえ、大丈夫です! コスさんの得意なもので!」
まるで鉄仮面のような表情のこの男も、笑うのだと思うと、恥ずかしさと、良いしれぬ高揚で心臓が跳ねた。
「承知しました。私は、恐れ多くも、掃除が得意としております。前もって伝えていただければ、エアコンの掃除なども、準備の上、行わせていただくことも可能です」
掃除が得意なんて、人生で一度は言ってみたいものだ……と、彼の言葉を他人事のように聞いていた、実花はふと、思い出す。
「その、私、お風呂に入りたくて、でも、掃除が面倒なんで、いつもシャワーで済ませちゃうんです。今日もまさにそれで」
「なるほど。では、お風呂場のお掃除をということでございますね」
「お願い、してもいいんでしょうか」
実花は、自分からそう言いながらも、申し訳ない気持ちで男を見る。
すると、男は、それこそを待っていたというように微笑んで見せた。
「もちろんです」
そして、案内した風呂場で、スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外し、ワイシャツ姿になった男は、持参していたビニール製の手袋をする。
狭い浴槽へと体を収め、ブラシでその底を擦ったところで、ふとこちらを見た。
「どうぞ、実花様は、お好きに過ごされてください」
「あ、わ、わかりました。お願いします」
あまり見られていては集中できないだろう。そう考え、実花はリビングへと戻る。
ものをお願いしておきながら、テレビを見たりしているのもよくないかと考え、ただぼぅっと、ソファーに座り込んでいた。
「お待たせいたしました」
数十分後、男は、浴室から出てくる。額には、小さな汗の粒をかいており、彼が懸命に掃除をしてくれたことが伺えた。
浴室を覗けば、浴槽だけではなく、壁までもきれいに磨き上げられている。
「す、すごい! ありがとうございます!」
「ぜひ次回は、カビのお手入れもさせていただきたいものです」
「それは、とても助かります!」
まるで、掃除のプロ業者を雇ったようで、実花は男の発言に素直に喜んだ。
そうだ、どうせこのようなサービスを頼んでしまったなら、自分の苦手なことをしてもらえばいい。
そう、ようやく、前向きにとらえることにする。
男が着替えている間、実花は湯を沸かし、そして、二杯の紅茶を淹れた。
「あの、コスさん、よかったら、どうぞ」
「奴隷にこのようなものは不要。ですが、せっかくのご厚意ありがたく頂戴いたします」
実花に差し出されたそれを、やはり地べたに座ったままの男は、鼻を近づける。
「フレーバーティーですか」
「あ、そうです。甘い香りのものが好きで……」
「そうですか、覚えておきます」
男は自身の言葉に頷くと、その紅茶を一口啜った。
実花もそれを見てから、口をつけるが、ふと、自身の上司が『疲れたときはコーヒーか、ビールだよな』と言っていたことを思い出した。
コスと名乗る彼は、きっと上司と同じくらいの年齢だ。
「あ、もしかして、コーヒーの方がよかったですか?」
今更な問いかけではあったのだろう。
けれど、彼はそれには笑うこともせず、真剣な表情で返す。
「私は、実花様が、お好きなものは何でも好きです」
「え、会ったばかりで、そんなわけっ」
そのような台詞、本心なわけではないだろうと笑ってしまうのに、彼の眼はどこまでもまっすぐだ。
意地が悪いと思われてしまうかもしれないが、試すような気持ちで尋ねた。
「もし、コスさんが苦手なものを、私が好きだったら、どうするんですか?」
「好きであるよう、振舞います」
好きになるよう、努力するのではなく、あくまで振舞うという彼。
正直な性格なのかもしれない。
それに改めて笑ってしまえば、男は首を横へと倒した。
そんな彼の真後ろに壁に、だ。
ふと、黒く蠢くものを発見した。
「あ、クモ」
その物体がなんであるかに気づき、実花は、何気なくそう発する。大きさは、親指の爪程度であるが、なかなかに存在感のあるそれである。
すると。
「へ、ひぁっ!? ど、どこ、ですか!」
大声を上げて、頭を抱えるようにして、その場にうずくまる男。
まさかのリアクションに実花は驚く。
「コ、コスさん、虫苦手なんですか?」
「い、いえっ、そんなことはございません」
「……本当のこと言っていいですよ」
恐る恐る背筋を伸ばし、けれど、決して後ろを振り返ろうとしない男。
実花の言葉を聞くと、眼鏡の中心を抑えながら、小声を発する。
「その、正直、とても苦手です。足が多いものは特に」
そういう男は、きっと今すぐにでも逃げ出したいのに、仕事があるから、そうは出来ないのだろうと思う。
「退治したいけど、さすがに届かないかな……」
男のあまりの怖がり具合に、実花もなんとかしてやりたいという気持ちになった。けれど、自身の身長では、あそこまで届かないだろう。
「では、私が、土台になりましょう」
「へ、土台って?」
「実花様が、私のために何かなさってくださるという時に、隅で目を閉じて震えているわけにもいきません」
そういう彼は、自ら壁の方へと向かい、四つん這いの姿勢となる。
この背中に乗ってしまっていいということだろうかと考えるのだが、しかし、そうしなければ、彼を助けられないだろう。
「すみません、そしたら失礼します……」
実花はティッシュペーパーをいくつか掴み、遠慮がちに、片足を男の背へと乗せた。
もう一歩を乗せるのは、勇気がいる。いやしかし、こういう時は、考えるより、一息に済ませてしまう方がいいのだ。
「えいっ、よし、とれた!」
彼の背中のおかげで、実花はそれに手を伸ばすことが出来、ティッシュの中へと収めることに成功した。
「コスさん、もう平気ですよ」
窓から、ポイっとその中身を捨てさり、手を洗って帰ってきても、男は、あのポーズのまま。
微動だにしていないその様子を見て、実花はなるべく優しい声をかけ、その背に触れた。
瞬間、びくんっと体を跳ねさせる男。
「ッ、」
「コス、さん?」
そのまま、男は、壁へと抱き着くようにして、身を放す。
さきほど、クモのことを聞いた時よりも、大きな反応だ。
そんな彼は、額から汗を流し、告げた。
「ッ、実花様、今の私に、近づいてはっ」
男が必死にそう告げる、その上下する喉ぼとけに、いつの間にか、浮かび上がっている模様に気づいた。
「あ、その模様、」
「ッ、これはっ」
指摘され、男は近場にあった全身鏡に映る、自身の姿を見て、驚く。
しかし、実花も同じ思いなのだろうと、喉もとを抑えては、頭を低くさせた。
「っ、その、驚かせて申し訳ありません。これは、気分が高揚したときに浮き上がってしまうんです」
それはきっと、シンの体に刻まれていた、あの模様と同じようなものなのだろう。
「え、どうして、」
それは、どのタイミングで興奮したのか、を問う質問だ。
男もそれを察したのだろう。頬を赤らめる。
「実花様を、背に乗せることに、その、私は、少し、興奮してしまったようです。まるでその、本当の土台になれたようで……」
そういう彼の、顔は真っ赤だ。
見た目に似合わず、彼は、被虐趣味的なところがあるのだろうか。
「けれど、決してやましい思いがあって、背に乗るようお勧めしたわけではないことだけは、ご理解いただけますでしょうか」
男は、そういうと低く頭を下げるのだ。
言い訳すべきところは、そこなのか? と思えば、彼が相当慌てているのだと気づくことが出来るだろう。
「だ、大丈夫です! その、人間いろいろありますし!」
いやそれは、実花も一緒だ。他人の、しかも男性の性癖を赤裸々に聞いたことがなかった彼女も、相当慌てて、手を左右に大きく振る。
「そ、そう言っていただけると少し安心いたしますが、その、今は、あまりそばに寄らない方がよろしいかと存じます」
「え、なんでですか?」
「この模様には、お客様を誘惑する効果もあるようで。実花様にもご迷惑をおかけしてしまうのでは、と」
「そ、そういうものなんですか」
シンの言う、この模様にかかっている魔法というのは、このことだったのかもしれない。
確かに、あの時、自身が今まで感じたこともないような、熱を覚えた。
そして、それは今も同じだ。
「実花、さまっ、そのような、目で……ッ」
「コスさん?」
男は、実花と視線が合うとブルリと震える。
そして、ガクガクと揺れている両手を合わせて、生まれたての動物のように立ち上がった。
「その、限界のようで、お手洗いをお借りしてもよろしいでしょうか。もちろん、汚さないよう努めますし、後ほど、お掃除もさせていただきますので、どうか……」
頭を深く下げる男のつむじを見て、実花は、何かゾクゾクとしたものを覚える。
今、彼の選択肢は自身に委ねられている。
「ここで、してもいいですよ」
「え、」
「あ、いや、その」
気づけば、とんでもないことを口にしていた。
慌てて、『冗談だ』という言葉を吐こうとするが、滅多に冗談を言ったことがない実花には、その言葉がすぐには浮かばなかった。
「ッ、それは、実花様が見てくださるということでしょうか」
男は、潤んだ瞳で彼女を見上げる。
期待と、欲の籠った目の色だ。
思わず、顎を引けば、模様の浮かんだ男の喉仏がゴクリと上下する。
実花もそれにつられたように、口内の唾を奥へと送る。
「承知いたしました。それでは、この場で、し、失礼いたします……」
男はそう告げ、実花へと背を向けると、自身のベルト外し、ズボンを下ろした。
下半身、下着一枚となってしまった彼は、それでも丁寧に衣類を畳み、自身の横へと置く。
そして、最後の一枚を片足ずつ勿体つけるように、脱ぎ去り、それも四つに畳んだ。
まるで、お店の陳列を思わせる美しい畳み方だ。下半身丸出しのマネキンがいなければの話だが。
「っ、で、では……」
振り返った男の、年齢のわりには、引き締まった体。
それを見てから、視線は自然と下へと向かってしまい、慌てて、実花は、顔を伏せた。
「す、すみませんっ」
そして、思わず、謝罪の言葉を口にする。
「いいえ、実花様、これは、あなたがしてくださった、命令です」
男の静かな声が鳴り、実花は恐る恐る顔を上げる。
恥じらい、睫毛を震わせている男。彼は、あえてその場所を隠そうとしないのだろう。
なぜなら、実花が、命じたからなのだ。
「実花、さま、」
男はたどたどしく、熱っぽい声で名前を呼ぶ。
そして、その場に正座をすると、少しだけ膝を開いて見せた。
立ち上がった中心のそれが、震えているように思える。
そっとその表面へ手を添え、男は動かす。
「はぁっ、ンンン、実花さまぁ……」
激しい吐息と、そして鼻にかかるような甘ったるい声。
見かけによらないそれを、引っ切り無しに発する。
わずかに開いていた膝も、今では肩の幅まで大きく開かれていた。まるで、もっと見て欲しいと、そう強請っているかのようだ。
距離は離れているというのに、水音まで聞こえてきそうな男の激しい動き。
「んくっ、んっ、ハァ、」
そこから実花は、視線を逸らすことも出来なければ、声をかけることも出来ない。
けれど、ドラマや映画のワンシーンとは違い、まるで熱をぶつけられるようなこの感覚。
「ンンっ、実花様、に、見られて、もう、私はっ、」
男の声は一層大きく、そして高くなった。顎の裏を撫でるような上擦ったそれが発せられた時、実花は思わず言葉を口にしていた。
「コスさん、しっ」
「んっんっ!」
唇に人差し指を当て、そう『命じた』。
それは、薄いアパートの壁を気にしてのことだったのだが。
それを聞いた男は、トロリと、まるで溶け落ちそうなほどに顔面をだらしないものとさせた。
そして、何かを発しようとするのだが、慌てて、自らの口元を覆い、瞬間。
「ッ!」
男の男性器から、弧を描いて放たれた液体。ちょうど、両手で口を押えたせいで、それは無防備な床へと着地する。
「ッ、も、申し訳ありません。許可なく、イってしまい、床まで汚してしまいました」
男はそういうと、この世の終わりというように、顔面を蒼白させ、そして自身のハンカチで床を丁寧に、そしてしっかりと拭っていく。
「だ、大丈夫ですよ、気にしないでください」
そう慰めるように告げるが、自身にも非はあると感じている彼女だ。
父親の方に年齢が近いかもしれない男に、とんでもないことをさせてしまったという罪悪感と、羞恥心が今更ながらに襲ってきた。
「実花様は、私のような奴隷に、呆れていらっしゃることかと思います」
男は、素早く衣類を着替え、また頭を下げる。
彼は、後悔しているのだろうか。
実花はそう思うが、どうやらそれが理由の謝罪ではないらしい。
「実花様の、命令に興奮してしまい、奴隷失格です」
「そ、う、だったんですか……いえ、私は怒ってないんですけど」
彼女は、もちろん怒りなど感じていない。
代わりに、彼がいう、『命令に興奮した』という台詞に、脳みそが、ゆだるような熱を感じた。
「実花様の優しさに甘えてばかりではなりません。私には仕置きが必要かと存じます。ぜひ、っ、!?」
そこで男はふと、自身の腕時計を見た。
実花でもわかる。男物ブランドの高級なそれだ。その針が何時を指しているかを、実花から見ることは出来ないが、つられたように、壁に備え付けられている時計へと目をやった。
「いけないッ、こんな時間になってしまった! 実花様は明日も仕事だというのに、とんだ長居を失礼いたしました。今日はあがらせていただきます」
男はそういうと、身支度を始め、玄関へと向かう。
「あ、えっと、お疲れさまでした」
実花は男を追いかけ、玄関へと立つ。その背になんと声をかけていいか分からなかったため、当たり障りない言葉を選んだ。
けれど男はそれに、ふわりと微笑を浮かべる。
「ありがとうございます。実花様、おやすみなさいませ。いい夢を」
その表情は、穏やかで、とても幸せそうに見えた。
つづく
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