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 その日、実花は珍しく、外出していた。  さすがに、せっかくの休日に、毎週家の中にいるだけでは、運動不足になると考え、近所の本屋へと向かったのだ。  久しぶりに履いた、踵の低いスリッポンは、まるで地面へと吸い付くように感じる。 「あ、新刊出てる」  ぐるりと店内を一周し、漫画コーナーに立ち止まった時、彼女はそれに気づいた。  学生の頃は欠かさず、購入していた週刊連載のコミック本だ。『この漫画を読むべしベスト10』で、上位に選ばれていた作品であり、そこから数か月に一度の新刊発売日を楽しみにしていた。  けれど、社会に出てから、その日程すら、チェックするのを忘れていたのだ。 「前の話の内容、覚えてるかな」  そう呟いては、今日は、一巻から一気読みをしてしまおうと考える。珍しく充実した1日になりそうだ。  その本をレジへ通し、そして、ふいに、スマートフォンを開いた時だ。  新着のメッセージが入っていた。 『新人くんのこと、かわいがってあげてくださいね』 「へ?」  それは、シンからのメッセージ。  コスが帰った次の日に、実花は思い出したかのように、二人にメッセージを送り、そこからこうして、たまに連絡が来るのである。  てっきり、営業をかけられてしまうのではないかと思ったが、意外にも、彼らが送ってくる内容は、日常的な会話ばかりだ。 「新人、くんか」  コスが来てから、今日は三日が経つ。ということは、もう一人の奴隷スタッフがうちに訪れる日なのだろう。  もとより、どちらかといえば、人見知りでもある彼女にとって、もちろん、楽しみという思いはまるでない。  そして、シンとコスと行ってしまった行為のことを思えば、今夜こそは、何事もないことを祈るばかりだ。  そんなことを考えながら、アパートの階段を上りきり、そして、自身の部屋の方へと顔を向けた、時だ。 「え、だれ……」  ふと気づいた。  玄関前に、膝を抱えて、人がうずくまっているのだ。体格から言って男だろう。そう思えば、防衛本能から、ジリジリと後ずさりしてしまう。 「あ、実花さん?」  そこでふと、男は顔を持ち上げた。  名前を知っているということは、知り合いだろうか。少しの警戒心を解いた彼女であるが、男のその風貌を見て、思わず、ギョっとする。  紫の髪に、銀のメッシュ。耳には、複数のピアスがついており、左耳の天辺から下へかけては、金色の棒が突き刺さっている。  顔立ちは整っているものの、見るからに好青年とは呼べない男だ。  その様子に、思わず、震える手のひらを握りしめてしまう。 「部屋にいねぇから、捨てられたのかと思った、っす」  そう、ほっと息を吐く男の姿を見て、実花は思わず言葉を発した。 「……こ、怖い人、」 「え、どこっすか?」  男は、キョロキョロと辺りを見渡す。  そして、実花が指さす先を見て、首を横へ倒した。 「ああ、そっか。オレのこと……っすよね。確かに、初対面でこれはマズかったか。黒染めしてからくればよかった」  男はそういうと、自身の前髪を指先でねじるようにする。  いや問題は、髪の毛の方ではないとは思うが、実花には突っ込むことが出来ない。 「はじめまして、℃0サービスのタンっす。これが名刺」  男は立ち上がり、実花へと歩み寄ると、ゆっくりと猫背気味に頭を下げた。  背が高い。近くに立つと、その鼻先が、頭数個分は上にあるようだ。 「あ、新人、くん……」  その背格好に驚き、思わず、また後退った実花だったが、名刺を受け取って、彼こそが、シンとコスが言っていた新人なのだということに気付く。 「そうです。新人っす。ふつつか者? ですが、今日からお世話になります。これ、土産です。手作りとか嫌がるんじゃねぇかと思ったんで、既製品っすけど」  男はその見た目や、拙い敬語口調に似合わず、どうやらきちんとした性格のようで、手土産の袋を実花へと渡した。  それに描かれた店のロゴをみて、実花は思わず、驚きと喜びに声を詰まらせる。 「こ、これもしかして、銀座の、フルーツタルト!?」  それは、実花もテレビで見たことのあり、社内の女子の間でも噂になっている品だ。  早朝から並んでも、買えるかどうかわからないほどの、入手困難な高級洋菓子店のケーキである。 「そうです、フルーツタルト。実花さん、甘いもの好きっすか?」 「す、すきです!」  男の言葉に、実花は強く頷く。  ものすごく甘いものが好きというわけでもないが、このフルーツタルトといえば、女子のあこがれだ。  それに、心が躍るような思いとなる。 「オレも、甘いもの好きっす。ここのケーキは、すげぇうまくて、」 「早速食べましょう!」  話の最中であるというのに、舌が急速に味を求めるように暴れ出したため、実花はその腕をとり、彼を家の中へと招いた。 「包丁、借ります。あ、写真撮りますか?」 「撮ります!」  キッチンに立ち、男が、恭しく箱から取り出したホールタルト。  オレンジ、イチゴに、ピーチにブドウ。色とりどりのフルーツがまさしく、宝石のように輝いている姿に、実花は感嘆の息を吐いた。  何枚か、写真を撮影し、あとで、両親に送って自慢しようと考えては、ニヤニヤと口角があがる。 「晩飯前だから、小さめに切っておきます」  男はタルトに丁寧に、包丁を入れていき、六つのピースへと切り分けていく。  実花はお気に入りの紅茶を淹れ、リビングのテーブルへと二杯のそれを置いた。 「お待たせしました」  男はそういうと、テーブルに、切り分けたそれを並べる。  自身でケーキを切ると、かならず倒れてしまったり、フルーツが偏ってしまったりするものだが、彼が手慣れているせいか、その断面すら美しい。 「いただきます!」 「いただきます」  二人は並んで、ソファーへと座り、ケーキを一口、口へと運んだ。  サクッとしたタルト生地に、こってり甘すぎないカスタードクリーム。その上の酸味のあるフルーツはみずみずしい。 「おいしい~」 「よかったっす」  実花が頬を抑えて喜ぶ様を見て、男も微笑む。  見た目こそ怖い彼であるが、どうやら性格は、優しく穏やかなようである。 「ええと、タンさん? さっきは、すみません。怖いとか言ってしまって」  フォークを持ったまま、男にペコリと頭を下げれば、彼は、ゆっくりと首を左右に振った。 「大丈夫っす。こんな見た目してんのが、わりぃとは思うんで。あと、年はええと、たぶん年下なので、ため口で、どうぞっす」 「あ、年下……だったんだ」  背の高い彼ではあるが、確かに、年下と言われればそんな気もする。それだけで、何か距離が縮まったようにも思えるから単純だ。  そこで男はふと、気付いたように立ち上がった。 「あ、やべ……」  そして、ソファーから下り、地べたに膝を抱えて座り込む。 「え、何してるの?」 「奴隷は、椅子に座ったらいけねぇって、仕事でのルール? があって」 「あ、そういうことだったんだ」  彼からそう聞き、思い出してみれば、シンもコスも、ソファーを勧めても、頑なに床に座っていた。  それが、会社のルールであったという。 「オレが、実花さんの隣座ったこと、シンさんにはいいすけど、コスさんには言わないでください……」 「え、コスさん、怖いの?」 「怖ぇって言うか……間違いなく、説教されます。あれ、長いっす……」  男のげんなりとした表情に、実花は思わず笑ってしまう。実花には優しく、従順であった男だが、確かに仕事に関しては口うるさそうだ。 「じゃあ、シンさんは、優しい?」 「テキトーなとこあるけど、優しいっす。あと、なんかいい匂いする」 「わかる……」  男の言葉に、実花は深く頷く。香水なのか、シャンプーなのか。彼からは、確かにいい香りがしたのだ。  二人は共通の感覚を味わうように、何度も頷いた。  そこでふと、男は実花の傍らにあるショッピングバックへと目を移す。 「実花さんは、今日は出かけてたんすか?」 「あ、そう、漫画を買いに行ってて」  実花は、そこで、忘れてしまっていた漫画本の存在を思い出した。袋から取り出せば、男は目を丸くさせる。 「あ、それ、オレも読んだことあるやつ。面白いっすよね」 「え、本当に? 面白いよね!」  その後、少年マンガ好きである様子の彼との会話に盛り上がり、何冊かおすすめの漫画まで貸してしまった実花。  男友だちというのはこういうものかと思えば、嬉しくて、そして、他愛ない会話を楽しく感じてしまう。 「あ、もうこんな時間。オレ、普通にのんびりしてた、っす」  見れば、もう七時を回っている時計。窓の外は、すっかり暗くなっている。 「オレ、あんまり遅くまでいらんなくて。でも、もし、腹減ってるようなら、料理は得意なんで、なんか作らせてください」 「え、こんなお土産まで貰ったのにいいの」  すでに平らげ、ミントだけが残った皿を見つめながら、実花はそう聞く。 「はい。オレは、実花さんの奴隷っすから」  彼は目を細めてそういうと、キッチンへと向かう。 「冷蔵庫、あけていいっすか」と断りを入れてから、その扉を開いた。  そして、「あれ」と、呆気にとられたような声を上げる。  それは、冷蔵庫の寂しい現状を見てしまったせいなのだろう。 「あ、あんまり料理しなくって……」  あるのは、いつ使ったのか覚えてもいない調味料と、ドレッシングばかりだ。 「ああ、大丈夫っす。一応、途中のスーパーで安かった野菜とかは買ってきてて。米借りられれば、何かは作れます」  そういって、男が作り出したのは、野菜炒めと、味噌汁と炊き込みご飯だった。  シンとコスの時と同じように、リビングにて、なにをするでもなく待機していた実花は、テーブルに並べられたそれに驚く。 「お、おいしそう!」 「大したもんじゃないっす。使ってる食材、ほぼ一緒ですし」 「それがまたすごい……」  それぞれに使用されている野菜や、マイタケといったキノコは確かに同じ種類のものだ。けれど、食材に無駄を出さないことこそが、料理に手慣れている証拠にもなっているような気がした。 「いただきます。ん、んっ~おいしい~!」  手を合わせ、野菜炒めを頬張れば、ほんのりと野菜の甘味も感じ、また米も進む一品だった。  実花のそんな姿をみて、床に座る彼は、照れたように微笑んだ。 「よかったっす。今度は、肉とか魚とか持ってきます。あと、甘いものの方が得意なんで、なんか作ってきます」 「嬉しい! けど、負担にならない?」 「オレ、実花さんに食べてもらうの、好きみたいなんで」  男はそういうと、その大きな体を内側へと縮める。  耳まで赤いその様子に、『初心』という言葉が、実花の脳みそに浮かんでくるようだ。 「タンくんも食べようよ」 「あー、今はその、オレは、大丈夫っす」  実花が、誘っても首を振る男。それも、会社のルールなのだろうかと、実花はそれ以上突っ込むことが出来ず、悪いと思いながらも、箸を進めた。 「お腹いっぱい! ご馳走様でした!」 「おそまつさま? です」  男は、実花の食器を片付け、そして、またすぐに、床へと戻ってくる。  そして、チラチラと、実花へと視線を送り、そしてボソリと言葉を吐いた。 「それで……、そろそろ、えっち、します、か?」 「ん? え……えっ!?」  男から問われた台詞。それが、あまりにも突拍子のないものに思えたため、実花は、声を上げた。 「あ、れ……なんかタイミング間違えたっすかね」  動揺したように瞳を揺らす、男。 「え、だ、だって、今、え、えっちって言ったよね? 意味わかってる?」 「はい、そういうのも仕事のうちって聞いてて。これも、なんか出てきてるし」  実花の慌てふためいた姿を見ても、男は冷静に頷き、そして、舌を出す。その先には、シンやコスと同じような模様が浮き出ていた。 「あ、その模様って、きもちいい時に出るって言う」  実花は、男たちから聞いたその言葉を思い出した。 「そうです、気持ちいい時に出ます。実花さんが食ってるとこ見て、オレのことも、好きに、してくれるかなと思って。そしたら、気持ちよく……なったっす」  照れたように、そういう男だが、実花には理解できない。  コスの時も、模様が出た切っ掛けは意外なものだったが、食事をする女性を見ただけでという、彼のそれも相当なものと言えるだろう。 「えと、私は、どうしたらいいんだろう」  実花はそんな男を前にして、思わずそう呟く。  すると、彼はゆっくりと首を振り、こちらを見つめた。 「実花さんが、どうしたらじゃないっす。実花さんが、オレをどうするか、です」 「ッ……」  その言葉に、実花は思う。  この男も、自身の思い通りなのか。  何か言葉一つで、その期待を裏切ることも、もしくは喜ばせることだってできるというのか。 「でも、いざとなったら、緊張してきた、っす」 「へ?」  男はそこで体を小さくさせた。 「……オレ、初めてだから、迷惑かけるんじゃねぇかって」 「それって、仕事が初出勤、だからとか?」  実花は改めて、彼が新人であることを思い、そう尋ねる。 「それもそう、だけど……そういうことすんの、はじめてなんです」 「へっ、そ、そうなんだ」  それは意外なことのように思えた。やはり、彼のその派手な見た目からなのか。とても、はじめてのようには思えなかったのだ。  けれど、『意外』と言ってしまうのも、また失礼なのかと思い、実花はただ頷く。  ならば、自身がリードしなくてはならないのではないかという気持ちになってきた。 「そしたら、ケーキとおいしいご飯のお礼というか、その、ご褒美っていうのは?」 「はい……、奴隷にご褒美、ください」  実花の言葉に男は頷き、ヘラリと子どものように微笑む。  それに、胸がキュンっと締められるような思いがして、実花  は男へ近づくと、その頭に手のひらを置いた。  そして、優しくそれを動かす。 「ん、なんか、くすぐってぇというか、ムズムズ、します」  男はけれど、心地よさそうに身をよじり、実花へ、その大きな体を預けるようにする。  そのため、実花は、彼の頭を抱えるようにして、その髪を優しく撫でつけた。 「んんん、実花さん、」  見れば男は、ハァハァと息を荒くさせ、それでもこちらを懸命に見上げている。その様子は、まるで子犬のようだ。 「舌、出ちゃってるよ」 「え、んぐ……」  実花にそう指摘され、男は慌てたように、口元を閉じた。  その行動すら愛おしく思え、実花は彼の顎に指先を添える。 「ねぇ、その模様、触ってみてもいい?」 「もちろん、です」  それは好奇心。あとは、期待だ。そのどちらもが、純粋な、とは言えない感情であることは、分かっている。  「ん……こう、れすか?」  男が、唇から小さく出した舌。そこには、やはり模様が刻まれている。  それにそっと、人差し指を近づけた。初めに触れたのは、下唇だ。  少しかさついているが、柔らかい。  そのまま下へと引き下ろすようにして押し込めば、彼の喉が引くつくように動いた。  男は、目を開き、濡れた瞳で彼女を見上げる。  その期待に応えるように、爪の先で、舌に触れた。びくりと動く肩。  模様の上に指の腹が通っても、特に凹凸は感じない。そのまま、その線をなぞる様にすれば、徐々に唾液がその中心に溜まっていき、ポタポタと唇の端を通り、垂れていく。 「んっ、んっ」  ついに耐え切れなくなったのか、男は体を揺らした。そして、彼女が指先を放せば、ゴクンっと唾液を飲み込む。  そして、何度か軽く咳き込むと、男は、頬を染めて、ゆっくりと告げる。 「実花さん……オレ、実花さんに、ベロごしごしされて、もう、でちゃい、ました……」 「え、出ちゃったって……?」  そう一度尋ねたものの、男が股の間に手を置いているところを見て、実花は察する。  どうやら彼は、舌を触られただけで達してしまったようだ。 「この模様触られるの、すげぇきもち、よくて。もしかして……変っすか?」  このマークには、そんな効果もあるのだろうか。しかし、なんて感度のいいことだろう。  不安そうに実花を見つめる瞳。  確か、彼はこういった行為自体が、初めてだと言っていた。  それを責めてしまっては、可哀想だろう。 「変じゃないよ! か、かわいいというか」 「っ、かわ、いいっすか」  実花の何げなく発した言葉を、男は、顔を真っ赤に染めては、手の甲で目元を覆うようにする。  そして、かぼそく声を発した。 「……よかった、です」  男のその表情にドキンと高鳴る鼓動。  しばらくすると、男はスマートフォンの時刻を確認し、荷物をそろえた。 「ええと、本当に下着、大丈夫?」 「はい、スースーはするんすけど」  汚してしまった下着の代わりを、コンビニなどで調達しようとした実花だったが、それでは申し訳ないと男が言い張るため、彼は、今、素肌にズボンを履いているような状態だ。  けれど、その表情は、さきほど、あれだけ照れていた男と同一とは思えないほど、なんでもないというものである。  彼の羞恥心ポイントが、実花にはよくわからなかった。  けれど、実花と目があえば、ポッと音を立てて、顔を染め上げる。 「今日は、ありがとうございました。また、会えるの楽しみ、にしてます」  その表情は、初々しく、とても幸せそうに見えた。 つづく
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