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3
その日、実花は珍しく、外出していた。
さすがに、せっかくの休日に、毎週家の中にいるだけでは、運動不足になると考え、近所の本屋へと向かったのだ。
久しぶりに履いた、踵の低いスリッポンは、まるで地面へと吸い付くように感じる。
「あ、新刊出てる」
ぐるりと店内を一周し、漫画コーナーに立ち止まった時、彼女はそれに気づいた。
学生の頃は欠かさず、購入していた週刊連載のコミック本だ。『この漫画を読むべしベスト10』で、上位に選ばれていた作品であり、そこから数か月に一度の新刊発売日を楽しみにしていた。
けれど、社会に出てから、その日程すら、チェックするのを忘れていたのだ。
「前の話の内容、覚えてるかな」
そう呟いては、今日は、一巻から一気読みをしてしまおうと考える。珍しく充実した1日になりそうだ。
その本をレジへ通し、そして、ふいに、スマートフォンを開いた時だ。
新着のメッセージが入っていた。
『新人くんのこと、かわいがってあげてくださいね』
「へ?」
それは、シンからのメッセージ。
コスが帰った次の日に、実花は思い出したかのように、二人にメッセージを送り、そこからこうして、たまに連絡が来るのである。
てっきり、営業をかけられてしまうのではないかと思ったが、意外にも、彼らが送ってくる内容は、日常的な会話ばかりだ。
「新人、くんか」
コスが来てから、今日は三日が経つ。ということは、もう一人の奴隷スタッフがうちに訪れる日なのだろう。
もとより、どちらかといえば、人見知りでもある彼女にとって、もちろん、楽しみという思いはまるでない。
そして、シンとコスと行ってしまった行為のことを思えば、今夜こそは、何事もないことを祈るばかりだ。
そんなことを考えながら、アパートの階段を上りきり、そして、自身の部屋の方へと顔を向けた、時だ。
「え、だれ……」
ふと気づいた。
玄関前に、膝を抱えて、人がうずくまっているのだ。体格から言って男だろう。そう思えば、防衛本能から、ジリジリと後ずさりしてしまう。
「あ、実花さん?」
そこでふと、男は顔を持ち上げた。
名前を知っているということは、知り合いだろうか。少しの警戒心を解いた彼女であるが、男のその風貌を見て、思わず、ギョっとする。
紫の髪に、銀のメッシュ。耳には、複数のピアスがついており、左耳の天辺から下へかけては、金色の棒が突き刺さっている。
顔立ちは整っているものの、見るからに好青年とは呼べない男だ。
その様子に、思わず、震える手のひらを握りしめてしまう。
「部屋にいねぇから、捨てられたのかと思った、っす」
そう、ほっと息を吐く男の姿を見て、実花は思わず言葉を発した。
「……こ、怖い人、」
「え、どこっすか?」
男は、キョロキョロと辺りを見渡す。
そして、実花が指さす先を見て、首を横へ倒した。
「ああ、そっか。オレのこと……っすよね。確かに、初対面でこれはマズかったか。黒染めしてからくればよかった」
男はそういうと、自身の前髪を指先でねじるようにする。
いや問題は、髪の毛の方ではないとは思うが、実花には突っ込むことが出来ない。
「はじめまして、℃0サービスのタンっす。これが名刺」
男は立ち上がり、実花へと歩み寄ると、ゆっくりと猫背気味に頭を下げた。
背が高い。近くに立つと、その鼻先が、頭数個分は上にあるようだ。
「あ、新人、くん……」
その背格好に驚き、思わず、また後退った実花だったが、名刺を受け取って、彼こそが、シンとコスが言っていた新人なのだということに気付く。
「そうです。新人っす。ふつつか者? ですが、今日からお世話になります。これ、土産です。手作りとか嫌がるんじゃねぇかと思ったんで、既製品っすけど」
男はその見た目や、拙い敬語口調に似合わず、どうやらきちんとした性格のようで、手土産の袋を実花へと渡した。
それに描かれた店のロゴをみて、実花は思わず、驚きと喜びに声を詰まらせる。
「こ、これもしかして、銀座の、フルーツタルト!?」
それは、実花もテレビで見たことのあり、社内の女子の間でも噂になっている品だ。
早朝から並んでも、買えるかどうかわからないほどの、入手困難な高級洋菓子店のケーキである。
「そうです、フルーツタルト。実花さん、甘いもの好きっすか?」
「す、すきです!」
男の言葉に、実花は強く頷く。
ものすごく甘いものが好きというわけでもないが、このフルーツタルトといえば、女子のあこがれだ。
それに、心が躍るような思いとなる。
「オレも、甘いもの好きっす。ここのケーキは、すげぇうまくて、」
「早速食べましょう!」
話の最中であるというのに、舌が急速に味を求めるように暴れ出したため、実花はその腕をとり、彼を家の中へと招いた。
「包丁、借ります。あ、写真撮りますか?」
「撮ります!」
キッチンに立ち、男が、恭しく箱から取り出したホールタルト。
オレンジ、イチゴに、ピーチにブドウ。色とりどりのフルーツがまさしく、宝石のように輝いている姿に、実花は感嘆の息を吐いた。
何枚か、写真を撮影し、あとで、両親に送って自慢しようと考えては、ニヤニヤと口角があがる。
「晩飯前だから、小さめに切っておきます」
男はタルトに丁寧に、包丁を入れていき、六つのピースへと切り分けていく。
実花はお気に入りの紅茶を淹れ、リビングのテーブルへと二杯のそれを置いた。
「お待たせしました」
男はそういうと、テーブルに、切り分けたそれを並べる。
自身でケーキを切ると、かならず倒れてしまったり、フルーツが偏ってしまったりするものだが、彼が手慣れているせいか、その断面すら美しい。
「いただきます!」
「いただきます」
二人は並んで、ソファーへと座り、ケーキを一口、口へと運んだ。
サクッとしたタルト生地に、こってり甘すぎないカスタードクリーム。その上の酸味のあるフルーツはみずみずしい。
「おいしい~」
「よかったっす」
実花が頬を抑えて喜ぶ様を見て、男も微笑む。
見た目こそ怖い彼であるが、どうやら性格は、優しく穏やかなようである。
「ええと、タンさん? さっきは、すみません。怖いとか言ってしまって」
フォークを持ったまま、男にペコリと頭を下げれば、彼は、ゆっくりと首を左右に振った。
「大丈夫っす。こんな見た目してんのが、わりぃとは思うんで。あと、年はええと、たぶん年下なので、ため口で、どうぞっす」
「あ、年下……だったんだ」
背の高い彼ではあるが、確かに、年下と言われればそんな気もする。それだけで、何か距離が縮まったようにも思えるから単純だ。
そこで男はふと、気付いたように立ち上がった。
「あ、やべ……」
そして、ソファーから下り、地べたに膝を抱えて座り込む。
「え、何してるの?」
「奴隷は、椅子に座ったらいけねぇって、仕事でのルール? があって」
「あ、そういうことだったんだ」
彼からそう聞き、思い出してみれば、シンもコスも、ソファーを勧めても、頑なに床に座っていた。
それが、会社のルールであったという。
「オレが、実花さんの隣座ったこと、シンさんにはいいすけど、コスさんには言わないでください……」
「え、コスさん、怖いの?」
「怖ぇって言うか……間違いなく、説教されます。あれ、長いっす……」
男のげんなりとした表情に、実花は思わず笑ってしまう。実花には優しく、従順であった男だが、確かに仕事に関しては口うるさそうだ。
「じゃあ、シンさんは、優しい?」
「テキトーなとこあるけど、優しいっす。あと、なんかいい匂いする」
「わかる……」
男の言葉に、実花は深く頷く。香水なのか、シャンプーなのか。彼からは、確かにいい香りがしたのだ。
二人は共通の感覚を味わうように、何度も頷いた。
そこでふと、男は実花の傍らにあるショッピングバックへと目を移す。
「実花さんは、今日は出かけてたんすか?」
「あ、そう、漫画を買いに行ってて」
実花は、そこで、忘れてしまっていた漫画本の存在を思い出した。袋から取り出せば、男は目を丸くさせる。
「あ、それ、オレも読んだことあるやつ。面白いっすよね」
「え、本当に? 面白いよね!」
その後、少年マンガ好きである様子の彼との会話に盛り上がり、何冊かおすすめの漫画まで貸してしまった実花。
男友だちというのはこういうものかと思えば、嬉しくて、そして、他愛ない会話を楽しく感じてしまう。
「あ、もうこんな時間。オレ、普通にのんびりしてた、っす」
見れば、もう七時を回っている時計。窓の外は、すっかり暗くなっている。
「オレ、あんまり遅くまでいらんなくて。でも、もし、腹減ってるようなら、料理は得意なんで、なんか作らせてください」
「え、こんなお土産まで貰ったのにいいの」
すでに平らげ、ミントだけが残った皿を見つめながら、実花はそう聞く。
「はい。オレは、実花さんの奴隷っすから」
彼は目を細めてそういうと、キッチンへと向かう。
「冷蔵庫、あけていいっすか」と断りを入れてから、その扉を開いた。
そして、「あれ」と、呆気にとられたような声を上げる。
それは、冷蔵庫の寂しい現状を見てしまったせいなのだろう。
「あ、あんまり料理しなくって……」
あるのは、いつ使ったのか覚えてもいない調味料と、ドレッシングばかりだ。
「ああ、大丈夫っす。一応、途中のスーパーで安かった野菜とかは買ってきてて。米借りられれば、何かは作れます」
そういって、男が作り出したのは、野菜炒めと、味噌汁と炊き込みご飯だった。
シンとコスの時と同じように、リビングにて、なにをするでもなく待機していた実花は、テーブルに並べられたそれに驚く。
「お、おいしそう!」
「大したもんじゃないっす。使ってる食材、ほぼ一緒ですし」
「それがまたすごい……」
それぞれに使用されている野菜や、マイタケといったキノコは確かに同じ種類のものだ。けれど、食材に無駄を出さないことこそが、料理に手慣れている証拠にもなっているような気がした。
「いただきます。ん、んっ~おいしい~!」
手を合わせ、野菜炒めを頬張れば、ほんのりと野菜の甘味も感じ、また米も進む一品だった。
実花のそんな姿をみて、床に座る彼は、照れたように微笑んだ。
「よかったっす。今度は、肉とか魚とか持ってきます。あと、甘いものの方が得意なんで、なんか作ってきます」
「嬉しい! けど、負担にならない?」
「オレ、実花さんに食べてもらうの、好きみたいなんで」
男はそういうと、その大きな体を内側へと縮める。
耳まで赤いその様子に、『初心』という言葉が、実花の脳みそに浮かんでくるようだ。
「タンくんも食べようよ」
「あー、今はその、オレは、大丈夫っす」
実花が、誘っても首を振る男。それも、会社のルールなのだろうかと、実花はそれ以上突っ込むことが出来ず、悪いと思いながらも、箸を進めた。
「お腹いっぱい! ご馳走様でした!」
「おそまつさま? です」
男は、実花の食器を片付け、そして、またすぐに、床へと戻ってくる。
そして、チラチラと、実花へと視線を送り、そしてボソリと言葉を吐いた。
「それで……、そろそろ、えっち、します、か?」
「ん? え……えっ!?」
男から問われた台詞。それが、あまりにも突拍子のないものに思えたため、実花は、声を上げた。
「あ、れ……なんかタイミング間違えたっすかね」
動揺したように瞳を揺らす、男。
「え、だ、だって、今、え、えっちって言ったよね? 意味わかってる?」
「はい、そういうのも仕事のうちって聞いてて。これも、なんか出てきてるし」
実花の慌てふためいた姿を見ても、男は冷静に頷き、そして、舌を出す。その先には、シンやコスと同じような模様が浮き出ていた。
「あ、その模様って、きもちいい時に出るって言う」
実花は、男たちから聞いたその言葉を思い出した。
「そうです、気持ちいい時に出ます。実花さんが食ってるとこ見て、オレのことも、好きに、してくれるかなと思って。そしたら、気持ちよく……なったっす」
照れたように、そういう男だが、実花には理解できない。
コスの時も、模様が出た切っ掛けは意外なものだったが、食事をする女性を見ただけでという、彼のそれも相当なものと言えるだろう。
「えと、私は、どうしたらいいんだろう」
実花はそんな男を前にして、思わずそう呟く。
すると、彼はゆっくりと首を振り、こちらを見つめた。
「実花さんが、どうしたらじゃないっす。実花さんが、オレをどうするか、です」
「ッ……」
その言葉に、実花は思う。
この男も、自身の思い通りなのか。
何か言葉一つで、その期待を裏切ることも、もしくは喜ばせることだってできるというのか。
「でも、いざとなったら、緊張してきた、っす」
「へ?」
男はそこで体を小さくさせた。
「……オレ、初めてだから、迷惑かけるんじゃねぇかって」
「それって、仕事が初出勤、だからとか?」
実花は改めて、彼が新人であることを思い、そう尋ねる。
「それもそう、だけど……そういうことすんの、はじめてなんです」
「へっ、そ、そうなんだ」
それは意外なことのように思えた。やはり、彼のその派手な見た目からなのか。とても、はじめてのようには思えなかったのだ。
けれど、『意外』と言ってしまうのも、また失礼なのかと思い、実花はただ頷く。
ならば、自身がリードしなくてはならないのではないかという気持ちになってきた。
「そしたら、ケーキとおいしいご飯のお礼というか、その、ご褒美っていうのは?」
「はい……、奴隷にご褒美、ください」
実花の言葉に男は頷き、ヘラリと子どものように微笑む。
それに、胸がキュンっと締められるような思いがして、実花
は男へ近づくと、その頭に手のひらを置いた。
そして、優しくそれを動かす。
「ん、なんか、くすぐってぇというか、ムズムズ、します」
男はけれど、心地よさそうに身をよじり、実花へ、その大きな体を預けるようにする。
そのため、実花は、彼の頭を抱えるようにして、その髪を優しく撫でつけた。
「んんん、実花さん、」
見れば男は、ハァハァと息を荒くさせ、それでもこちらを懸命に見上げている。その様子は、まるで子犬のようだ。
「舌、出ちゃってるよ」
「え、んぐ……」
実花にそう指摘され、男は慌てたように、口元を閉じた。
その行動すら愛おしく思え、実花は彼の顎に指先を添える。
「ねぇ、その模様、触ってみてもいい?」
「もちろん、です」
それは好奇心。あとは、期待だ。そのどちらもが、純粋な、とは言えない感情であることは、分かっている。
「ん……こう、れすか?」
男が、唇から小さく出した舌。そこには、やはり模様が刻まれている。
それにそっと、人差し指を近づけた。初めに触れたのは、下唇だ。
少しかさついているが、柔らかい。
そのまま下へと引き下ろすようにして押し込めば、彼の喉が引くつくように動いた。
男は、目を開き、濡れた瞳で彼女を見上げる。
その期待に応えるように、爪の先で、舌に触れた。びくりと動く肩。
模様の上に指の腹が通っても、特に凹凸は感じない。そのまま、その線をなぞる様にすれば、徐々に唾液がその中心に溜まっていき、ポタポタと唇の端を通り、垂れていく。
「んっ、んっ」
ついに耐え切れなくなったのか、男は体を揺らした。そして、彼女が指先を放せば、ゴクンっと唾液を飲み込む。
そして、何度か軽く咳き込むと、男は、頬を染めて、ゆっくりと告げる。
「実花さん……オレ、実花さんに、ベロごしごしされて、もう、でちゃい、ました……」
「え、出ちゃったって……?」
そう一度尋ねたものの、男が股の間に手を置いているところを見て、実花は察する。
どうやら彼は、舌を触られただけで達してしまったようだ。
「この模様触られるの、すげぇきもち、よくて。もしかして……変っすか?」
このマークには、そんな効果もあるのだろうか。しかし、なんて感度のいいことだろう。
不安そうに実花を見つめる瞳。
確か、彼はこういった行為自体が、初めてだと言っていた。
それを責めてしまっては、可哀想だろう。
「変じゃないよ! か、かわいいというか」
「っ、かわ、いいっすか」
実花の何げなく発した言葉を、男は、顔を真っ赤に染めては、手の甲で目元を覆うようにする。
そして、かぼそく声を発した。
「……よかった、です」
男のその表情にドキンと高鳴る鼓動。
しばらくすると、男はスマートフォンの時刻を確認し、荷物をそろえた。
「ええと、本当に下着、大丈夫?」
「はい、スースーはするんすけど」
汚してしまった下着の代わりを、コンビニなどで調達しようとした実花だったが、それでは申し訳ないと男が言い張るため、彼は、今、素肌にズボンを履いているような状態だ。
けれど、その表情は、さきほど、あれだけ照れていた男と同一とは思えないほど、なんでもないというものである。
彼の羞恥心ポイントが、実花にはよくわからなかった。
けれど、実花と目があえば、ポッと音を立てて、顔を染め上げる。
「今日は、ありがとうございました。また、会えるの楽しみ、にしてます」
その表情は、初々しく、とても幸せそうに見えた。
つづく
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