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ここへ来れば、わたしはおとなしい生き物になる。暴れないし口答えしない。じっと座って、それで何の不満もない。
わたしは息を吸って、それから吐いて、ドアノブに手をかけた。あまりにもあっさりと、安っぽいアパートの扉は開く。
玄関に靴を脱いで揃え、カーペットの上を歩く。リビングのソファに、彼が上体を倒して目を閉じている。
わたしは床に座って、彼を眺める。いつ気付くだろう。口をつぐみ息をひそめ、じっとなにかを待つ。
彼の口が、動いた。
「気付かないわけないだろ。音も聞こえるし」
黙ってうなずくと、彼は目を開いた。
彼はソファを降りてわたしのすぐ傍へ来た。猫を思わせるしなやかな動きだ。その、男にしては細い手でわたしの手首を掴む。
「手が真っ黒だね。どうしたの」
黙って首を傾げる。
「オカアサンには会った?」
首を振ると、彼はふっと笑った。
「駄目だよ。オカアサン、悲しんでるよ。ぼくには全然関係ないからどうでもいいけど」
そう言って彼はカーディガンの袖を引っぱる。
「はりかえよう」
わたしはカーディガンを脱ぎ捨てた。彼が首を傾げた。腕を差し出して、少し灰がかった桜色のケロイドをさらす。
「かさぶた、なくなっちゃったの」
彼はおもちゃをとられた、弱気な少年のような顔をしていた。
「大丈夫。また怪我してくるから」
突然表情の消えた彼の顔は、わたしの兄の顔になっていた。
立ち上がり、わたしは玄関に向かう。ゆっくりと歩を進めて、靴に足を入れる。すぐ後ろに兄がいた。ドアを開けて外に出たとき、兄は低い声で言った。
「母さんは……」
もちろんわたしは最後まで聞きはしない。さっさと扉を閉めて帰るだけだ。
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