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「そろそろ張りかえようか」
わたしは適当に相槌を打つ。いつだって、そうだ。
「随分黒くなってるだろ」
理由なんてものは必要ないのだ。それは彼もわかっていると、わたしは勝手に思っている。彼はわたしのカーディガンの裾を引っ張った。幼い子どもが母親の手を引くようで、かわいらしくて、おかしかった。単純に年齢で言えば彼は大人で、わたしが子どもなのに、本当は逆なのかも知れない。時々そう思うし、今もそう思った。
わたしはカーディガンを脱いでたたんだ。彼がわたしの腕の治りかけた傷に、そっとそっと触れる。何かとても大切なものに触れるようなその仕草は、少しわたしを苛立たせ、悲しみのような寂しさのような、名前の付けようのない思いを呼び起こす。けれどわたしは黙って、なんともない様子を装う。
「痛くないの?」
手を止めて彼が訊ねる。何回訊かれただろう。飽き飽きするほどに繰り返された問い。わたしは今日も答えない。声は出さず、息だけを吐き出す。
痛いよね。
声にならないような声で彼は囁く。
昼間のはずだけれど、黒く分厚いカーテンがきっちりひかれているせいで、部屋は薄暗い。もしかしたら夜なのかもしれない。電気も点いてはいるけれど一番暗くした状態で、わたしはベッドの端に腰掛けている。彼もわたしの横、ベッドの端に座っている。
彼がわたしの肌に爪を立てたとき、電話が鳴った。素早く立ち上がり彼は携帯電話を取った。
「こんにちは」
彼の声は二オクターブぐらい、低くなる。やっぱり昼なのだろう。
「納期は一ヶ月後ではなかったでしょうか」
なんの話をしているのかはわからないし、知らなくても構わない。時折垣間見える「大人の男性」である彼を、それ以上深く知りたいとは思えなかった。
「聞いておりませんが」
わたしはベッドに身を横たえた。鈍い痛みがこめかみに漂う。わたしはその痛みを抱きとめようと、目を強く閉じて気持ちを走らせた。
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