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トランス・ソロウ
アヤメは泣いていた。
僕だって泣きたいさ。けれどそんなことは言えない。言わない。僕が公園でこっそり餌をあげていたかわいい子猫が死んでしまったことを、アヤメに言う必要はない。
「どうしたの、アヤメ。何をそんなに泣いているの?」
「さっきこけて、ケガしちゃって……」
僕が訊ねると、アヤメは擦りむいた膝を陽のもとに晒す。赤い血液がきらきらと輝いていて、僕は、ああ美しいな、と思った。
「よしよし、ほら僕と手を繋いで?」
そう言って僕は手を差し出す。するとアヤメが柔らかくその手を握ったので、僕も柔らかく手を握り返してやる。
すーっと、僕の悲しみは消えていった。そして代わりに、膝の辺りが痛みだす。
「あれ、もう痛くない……」
不思議そうにそう言いながら、アヤメは悲しそうな顔をした。僕は思わず痛みに顔を少し歪めてしまったと思うけれど、すぐに気分の良さに笑顔を取り戻す。
「それはよかったよ」
僕は白々しくそう言って、手を離した。
それ以来、アヤメが怪我をするたびに、僕はアヤメと手を繋いだ。いつも僕の悲しみはすっきりと消えて、代わりにアヤメの痛みが流れ込んでくる。
僕にはその理由がなんとなくわかっていたけれど、どうしても自分を抑えられなかった。心の痛みより、体の痛みのほうが、ずっとずっとマシだったから。
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