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第二回 唖の女
鶴川橋から覚平の組屋敷がある瓜生町まで、四半刻の道のりだった。
町奉行所には寄らなかった。徴収した銭は毎日係りの者が回収する事になっていて、顔を出すのは三日に一度、日誌の提出さえすればそれでいいとされている。そして、昨日がその日だった。
夕暮れの空には、幾つかの星が輝いている。覚平は空を見上げ、小さく光る星を数えながら歩いていた。
生まれつき、眼が良かった。遠くの物も見えるし、素早く動く虫なども見極める事も出来た。何故だがはわからない。最初に自分の眼の良さを自覚したのは、五歳を過ぎた頃だった。
城下から遠く離れた宇佐神宮に参拝した折、遥か小さく見える天守閣が見えた。父は見えるはずがないと笑ったが、覚平にははっきりと見えていたのだ。
それから幾度か、そういう事が続いた。最初は不思議がられた。そして変だとも言われるようになり、自分に見えるものが他の人には見えないのだとわかった時、覚平は見えない振りをするようになった。
しかし七歳の時、やっと覚平が持って生まれた眼の良さに気付いた父から、剣術をするよう薦められた。
「お前は口下手だ。今はお世辞も言えない武士は出世しない世の中だからな。剣術をしろ。お前の眼の良さは剣術にこそ役に立つだろう。それが、いずれお前の身を助けるかもしれん」
父は何の取り得もない男であったが、この選択は正解だった。
入門したのは、亡き祖父の友人であった建部実斎の道場だった。藩内では田舎剣法と揶揄される立信流であったが、無足組という下士の身分に見合った道場で、祖父の友人という妙な気遣いは無用だという父の配慮だった。
こうして建部道場の門下になった覚平は、持ち前の眼の良さを活かして腕前と席次をぐんぐんと伸ばし、二十歳で免許を得るまでになった。
僅かな剣の動きから軌道を予測し、徹底的に避ける。そうして機を伺いながら、相手が疲弊した所を踏み込んで打つ。それが覚平の剣。実斎は、
〔万里眼〕
という渾名を、免許と共に与えてくれた。その眼力は、千里眼すら超えるという意味だった。
「今日は四つか」
常人には見えぬであろう、星の輝きを捉えて覚平は呟いた。
(いや、五つだ)
目を細めると、茜色の空の中に微かに光るものを万里眼が捉えた。
これも鍛錬の一つだった。三十を越えた今、気を抜くとすぐに身体は弛み衰えるもので、それは眼力も同じだと思っている。役目柄、道場に立つ事は中々出来ない。生きる事に追われる覚平にとって、これが出来る限りの鍛錬だった。
それから覚平は、近道とばかりに稲荷神社の杜を抜け、真宗寺院の山門を二つやり過ごすと、長柄町の佐保尚蔵方に訪ないを入れた。尚蔵は山林奉行支配下の足軽で、建部道場で共に汗を流した後輩でもある。丸顔で人の善さそうなこの男を覚平は心から信頼し、身分こそ違うが数少ない友と呼べる男の一人だった。
出て来たのは、妻女の里であった。里は色白だが肥えた大福のような女で、四人の子供を抱えている。尚蔵より三つ年上の女房だ。
「申し訳ない。遅くなってしまった」
秋も深まり、陽が落ちるのも早くなった。長柄町に入った頃には、逢魔が刻と呼べるような薄暗闇だった。いつもの時間より遅く感じるのは、その為かもしれない。
覚平は、この家に一人娘の千歳を預けていた。妻は一年前に八か月の娘を残して病死し、覚平の両親は既に他界している。子守を雇えぬほど懐事情に厳しい覚平を助けようと、尚蔵と里が面倒を買って出てくれたのだ。娘を残してはお役目に行けないと途方に暮れていた覚平にとって、彼らの好意は何よりも嬉しかった。
「なんのなんの。どうせうちには煩いのが何人もいるのです。構いませんよ」
「そう言ってくれて助かる。それで、千歳は?」
「中で寝ております。うちの子と駆け回っておりましたので、遊び疲れたのでしょうね」
と、里は奥に目をやった。
奥の部屋で、若い女が千歳を抱いていた。初めて見る女だった。大福のような里とは正反対で、小麦色の肌をし引き締まった体型をしている。どこか、百姓娘を思わせる風貌だった。
「あの女性は?」
女は覚平に気付かず、寝入った千歳を抱いたまま座っている。
「喜美というのですよ」
庭の方にいたのか、尚蔵がちょいと玄関口から顔を出して言った。
「里の妹です、覚平さん」
「妹御とは」
これには驚いた。姉妹というが、顔も体型も全く似ていないのだ。容貌にしても、喜美はしなやかである。こう見比べると、まるで碁石のように白と黒だ。
しかし、どうりでと思う。里は、井ノ口田村の庄屋・久松福左衛門の娘なのだ。戦国の御世では久松氏として井ノ口田村近郊を領した武士であったが、世が定まると、霜野へ封ぜられた宗像氏に伏して帰農し、庄屋の一人となった。先祖は武士だが、今は百姓なのである。喜美という女が百姓に見えたのも不思議ではない。
「そんな驚かなくてもいいじゃございませんか。何ですか、わたしと喜美とじゃ月とすっぽんとでも?」
「あっいや、これは相すまぬ」
覚平は意図せぬ失言を慌てて詫びたが、尚蔵と里は声を合わせて笑った。
(しかし、妙だな)
こうした一幕をよそに、喜美は千歳をあやし続けている。こちらに気付く風もなく、優しく背を叩き、ゆっくりと柳のように身体を前後に揺らし続けているのだ。
それに、千歳は寝つきが悪い。生まれてより神経質な性質である。今生で唯一の肉親である覚平すら手を余し、里も慣れるまで数か月を要している。そんな千歳を、疲れていたとはいえ癪の強い千歳を寝かし付けられるとは。一体、どんな女なのだろうか。
「喜美は、耳が聞こえないのですよ」
「耳が利かぬのか」
「唖なのです。覚平さん」
尚蔵が自分の耳を指さし、軽く申し訳なさそうな顔をした。
(耳が不自由なのか……)
だが、そう申し訳ない表情で言う必要もないではないか。そうは思っても、覚平は言葉にして口には出さなかった。ただ、今もあやしている喜美を見つめるだけだった。
「そうなのか。では、今日は井ノ口田村から遊びに来ているのだな」
「いいえ。どうも、実家にいられなくなったようで」
里が、珍しく神妙な表情をした。
「ほう」
「出戻りなんですよ、喜美は。唖でもいいと、足軽の家に嫁いだのですが、何年経っても子が」
喜美は二十五歳であると、里が続けた。覚平と十も違う。その歳だと再嫁も出来るだろうが、唖で石女なら難しいのかもしれない。ただ子が出来ぬのは、男にも問題がる事もある。
「左様であったか。立ち入った事を聞いてしまい、申し訳ない。よし、千歳を連れて帰ろう」
そう言うと、里は奥へと行って喜美の肩を叩いた。弾かれたように振り向き、こちらを向いた。陽に焼けているが、表情にどこか薄幸の趣があると思ったのは、唖で出戻りだと聞いたからだろうか。
眠った千歳を里から受け取った覚平は、千歳に残る喜美の微かな匂いを感じながら、二人だけの家路を辿った。
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