最後の晩餐

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決して広いとは言えないその独房は、部屋の主である男が持ち込んだ『本』で埋め尽くされていた。それらはミステリーでもなければ、話題の新書でもない。全てが『料理の本』である。それも、世界中の。 パラリ……。 30年を超える長い収監ですっかり頭の白くなったその男が、黙ってページを捲る。 もう何度読んだか分からない。何なら一語一句暗記すらしているだろう。だが、それでも男が他に何かする事はなかった。 独房の鉄扉は『自由の国の精神』にのっとって囚人の人権に配慮され、日中は開け放しになっている。だからコミュニティエリアへの移動なら自由に出来るが、男が気晴らしにも独房の外に出る事はなかった。 ……『唯一の例外』を除いては。 カンカンカン! ドアの鉄板を叩く音に男が振り向くと、視線の先に老いた看守が立っていた。 「やぁ、シェフ。ご機嫌はどうだい?」 看守が囚人を呼ぶ時はが基本だか、独房の主は特別に料理長(シェフ)と呼ばれている。無論、本名ではない。 「……」 シェフは黙って立ち上がり、用件を聞く事もなく、看守に続いて部屋を後にした。 廊下には収監されている囚人達が大勢行き交っているが、誰もシェフに言葉を掛けようとはしない。逆に、なるべく見ないようにすらしている。だがそれも仕方はあるまい。何しろ彼は『縁起の悪い嫌われ者』なのだから。 「おい……またしても『死神』の野郎がシェフを連れてやがるぜ」 少し離れた所から、浅黒い腕をした男が吐き捨てる。 「けっ! いい身分だよな。シェフだって死刑囚なんだろ? なのにのお陰で刑の執行が延び々になっている……とんだクソ野郎だぜ」 仲間の男も小声で悪態を吐いた。 幾重にも施された厳重なゲートをくぐり、看守とシェフは目的の場所にやってきた。特別に作られた、小さな『厨房』である。 「……今回のオーダーは?」 やっとシェフが口を開く。そして、ぶっきらぼうに右手を看守に差し出した。 「ああ、これだよ。さっき聞いてきた」 看守が上着のポケットからメモ用紙を取り出してシェフに渡す。 「……300グラムのステーキはレアで、付き合わせはライ麦のパン、トマトとビーンズのスープか」 「何か特別に要るものはあるかい?」 メモとペンを片手に看守が尋ねる。 「そうだな。枯らし熟成させた、程度のいいステーキ肉が欲しい。冷凍庫にも在庫はあるが、レアは素材の旨味を味わうものだから取り寄せてやってくれ。……何しろ『最後の晩餐』なんだ」 そう、シェフの『特別な任務』とは死刑囚が最後の夜に食べる食事を作る事だったのだ。
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