最後の晩餐

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 シェフは厨房の片隅から雑巾を取り出し、ゆっくりと掃除を始めた。そう、いつものルーチンだ。  ただ気の所為か、いつもより丁寧に拭き上げているようにも窺える。 「なぁ、ひとつ聞いていいかい?」  看守はそんな後ろ姿の邪魔をしないよう、ドアに背中をもたせかけていた。 「お前さんはどうしてそんなに色々な料理に精通しているんだ? 有名どころだけじゃぁない。私も聞いた事がないようなマイナーな料理まで精通している……実に不思議だったんだ。それはあの山のような料理本だけのお陰じゃあるまい?」 「……オレは、世界中を旅する料理人だったんだ」  掃除の手を止めることなく、シェフが淡々と語る。 「元々一つ所でじっとしているのが性に合わなくてな……色々巡ったよ。豪華客船に乗って1年の2/3を船で過ごしたりさ。寄港した先の名物料理なんかを出すサービスもあったから、それでかなり勉強したし……」  台の隅々から冷蔵庫の外側にいたるまで丁寧に拭いていく。手垢ひとつ、残さないかのように。 「そう言えば大使館専属の料理人なんてのもやったなぁ。気に入られた大使に着いて一緒にあちこち行ったものさ。インディカ米料理も、その時に現地で覚えたんだ」 「なるほど……」  看守が短く相槌を打つ。 「ああそうだ。忘れないうちに鶏肉を解凍しないとな……専用の解凍機があればいいんだが、そんな贅沢は言えねぇしよ。肉汁(ドリップ)が逃げ出ないようにするには氷水でゆっくりと解凍しなきゃならねぇ」 掃除の手を止め、シェフがボウルに氷を入れて水を張る。そして袋に入れた肉の塊を静かに浸した。 「『最後の晩餐』は何を作るんだい?」 看守の問いかけに、シェフは短く「オレの食いたいものだ」と答えた。 「まぁ、それはそうだろうが……」 看守にはその言葉の意味が理解出来ない。 「なぁ看守さんよ。あんた『最高に贅沢な料理』とは何か考えた事があるかい?」 シェフが問い返す。 「オレは世界中を旅してきた。美食(グルメ)と呼ばれる物も、沢山作ってきたもんだ。だがどんな料理でも全ての人間を一様に満足させる事は出来なかった」 「うーん、それは仕方ないだろう。何しろ人には好みというものがあるからな」  だからこそ、『注文主』は最後の晩餐に多種多彩なメニューをオーダーするのだ。 「それだよ」  シェフが看守を指差した。 「『好み』というヤツだ。オレはね、料理人として長い間『他人の好みに合う』料理を作ってきた。……だが今日は違う」  遠くを見るような目つきは、何処か嬉しそうでもあり。 「自分だけの事しか考える必要がない。好きなメニューを、自分の納得する素材で、自分が信じる料理法で、自分の胃袋に見合った量と、自分の舌がベストだと感じる味付けにして……他の誰でもないオレだけのために作られる料理を自分という客に提供するんだ。……オレにとって、これ以上『最高に贅沢な料理』はないのさ」
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