残された兄の苦悩

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残された兄の苦悩

   ◇ ◇ ◇  強化合宿の関係者たちに遅れて朝食を摂り、解散してロビーが閑散となった頃、俺たちはホテルを後にした。  東郷さんの車は、音が静かな黒のSUV車。スタイリッシュな見た目ながら安定感のある様子が、東郷さんらしい。  広々とした車内で、音楽もラジオもかけずに走っていく。  俺も東郷さんも無言だった。お互いに考え事があるせいか、気まずいせいかは分からない。ただ、俺からは話をする気が起きなかった。  助手席でまだ気だるい身体を背もたれに預けながら、俺は窓の外を眺める。  緑に囲まれていたホテルから、人里へと向かっている。次第に木々が減り、ぽつり、ぽつりと民家が見えてくる。そのまま国道を走っていけば街に出るが、東郷さんはハンドルを切り、細まった道へと入っていく。  田畑が広がるのどかな道。いったいどこに向かっているのだろうかと考えていると、おもむろに東郷さんが口を開いた。 「ここから三十分ほど走る。まだ疲れているなら、目を閉じて休んだほうがいい」 「……いえ、大丈夫です。もう平気ですから」  我ながら声が淡々としている。怒っていると思われてもおかしくない声色だ。  だが胸の内は意外なほど凪いでいる。嵐の前の静けさのようで、自分がおかしくなっていると自覚できてしまう。  まだ何も分からないから、感情も考えもついていけていない。  隣でハンドルを握る表情のない東郷さんを、俺は許せないのか、怒っているのかも考えられない。  きっと東郷さんの弟――澗宇をしている人と会えば、俺の心は大きく動いてしまう予感がしていた。  それが嫌悪なのか、愛憎なのか、どう転ぶかは想像がつかない。  今はただ東郷さんの弟さんに会いたくてたまらなかった。 「あの……現実でも東郷さんは弟さんと仲が良いのですか?」  ずっと無音の車内が息苦しくて、俺は差し支えがなさそうなことを尋ねてみる。  東郷さんが小さく息をつく。それはどこか物憂げで、寂しそうな気配がした。 「多分、良いほうだったと思う。俺たちは子供の頃に両親を亡くして、親類に引き取られたんだ。唯一の肉親で、年も離れている。俺は心から可愛がっていた」 「過去形、なんですね」 「ああ。理由は会えば分かる」  どくり、と胸の深いところで鼓動が響く。鈍くて痛い心音。  嫌な予感がする。早く真実を知りたいと気は焦るので、このままずっと東郷さんと車に乗っていたい気もする。  手に、じっとりと汗が滲む。  まだ心を動かしたくなくて、俺は東郷さんに気づかれないよう、自分のジーンズで拭った。
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