1 妖精族の王子

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 巨大な熊がたっていた。嘉羆(かひ)、とよばれる魔獣だ。人間族の大人の倍以上ある巨体を、青みをおびた黒い毛並みがおおい、ふとい腕には白い斑紋がある。四肢はややながく、頭部から首まわり、胸もとにかけて発達したたてがみをもち、そのすがたは獅子によく似ている。 「……お、おぉぅ……」  ロイツは、嘉羆をみあげて、ぼうぜんとまたたいた。体高だけでもロイツの身長の倍以上ある。  こちらをみおろしていた嘉羆が、ふん、と鼻をならしたとたん、ロイツはきびすをかえしてかけだした。草むらの中にすべりこみ、嘉羆からにげる。そのあとをメルーがおった。  あっけにとられた嘉羆も、いっしゅんおくれてかけだした。 「わっ、おっかけてきた!」  ロイツは肩越しにおいかけてくる嘉羆をみて、身体がうごくにまかせて下草をよけながら、ひたすらはしった。人間族の子どもごときが嘉羆からにげきれるわけがない。しかし、ロイツは森の障害物を味方につけ、嘉羆からうまくにげていた。  背のたかい藪の中をかけ、地面からつきでた樹の根の下にすべりこみ、苔むした岩と岩の間にできた小道をとおりぬける。そのたびに、巨体の嘉羆はとおまわりしなければならず、ロイツにおいつくことができない。  だが、しょせんは人間族の子どもだ。はしるうちに肺がやけるようにいたみ、小高くなった崖をのぼろうとした足がすべった。あとからついてきていたメルーがロイツのお尻を頭でおして、なんとか崖をよじのぼり、ふたたびはうようにはしった。  いつのまにか小動物――小型の魔獣たちも、ロイツとならんでにげていた。それにきをとられて、足がもつれてつんのめった。身体がたおれるさきに、鳥の翼に似た長い耳をもつちいさな鼠の魔獣――羽耳兎(うじと)がはしっていた。  ロイツは羽耳兎をおしつぶさないよう、だきかかえるようにしながら地面にたおれた。手の中で羽耳兎が、もぞっとうごき、ずんぐりした身体をおおう茶色い毛がロイツの手をくすぐった。キュー、キュー、と小さな鳴き声が手の中でひびく。  羽耳兎の無事をたしかめたロイツは、ほっと息をついてうしろをふりむいた。ロイツがのぼってきた崖を、おなじように嘉羆がのぼってくる。 「きたきたきたきたっ」  かるく悲鳴をあげ、羽耳兎をかかえたまま、あわててかけだした。  しばらくはしると樹々がひらけ、目の前には蒼い池がひろがっていた。すんだ水底には、水草におおわれた石や倒木がみえる。  ロイツは池につきでるようにのびた岸で足をとめた。ふりかえると、ロイツをおいつめた嘉羆が、いまにもとびかかってきそうな姿勢でゆっくりとちかづいてくる。それをみすえながら岸の縁までさがった。右手にかかえられた羽耳兎が、こきざみにふるえている。  けわしい形相であゆみよってくる嘉羆。  せわしなく息をつくロイツは、岸のギリギリまでさがった。やがて…… 「――ごめんね……」  と、つぶやき、ロイツは羽耳兎を嘉羆の頭上めがけてなげとばした。キュー、と悲鳴をあげる羽耳兎。それをおった嘉羆の視線はロイツからはなれ、その巨体が大きくそれ、前脚が自然と宙にういた。  直後、木の棒を右手にもちかえたロイツは、嘉羆の股の下にすべりこんだ。股間を棒でつよくうちながら背後にまわりこみ、嘉羆の頭上をこえてきた羽耳兎をうけとめた。  股間をしたたかにうたれた嘉羆は、つんのめり、ふらふらと岸のほうへむかった。やがてこちらをふりかえったのをみはからって、ロイツは木の棒をなげうった。ブーメランのように回転しながら、とんでいった木の棒は、嘉羆の顔面にあたり、体勢をくずした嘉羆は岸から足をすべらせた。  いきおいよく水しぶきがあがった。  そっと岸から池をのぞくと、嘉羆は水面にういてじっとしている。メルーがそばにきて、おなじように嘉羆をみおろした。
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