死者の国へ

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 マサトの恋人ユウキは、車の運転中に不注意で事故を起こし、亡くなってしまった。  マサトは悲しみに暮れて、幾日も泣き。その末に、死者の国からユウキを連れ帰ることを思い立った。  マサトは、恋人ユウキを連れ戻そうと、死者の国への扉を見つけ出し、その重い扉をやっとこじ開けて、階段を降り始めたのだった。  死者の国は、恐ろしく寒い場所だった。見渡す限りの雪原の中に、雪より冷たい石の階段が細く長く深く、下へ下へとつづいている。  恋人の命を取り戻すためという、強い思いに後押しされてマサトは寒さなど感じていなかった。むしろ体が熱く燃えたぎって周囲の雪を溶かしそうであった。  マサトは長く歩いて、階段を下へ下へと降りたが、死者の国の王が住まう城の門はなかなか見えてこなかった。 「まだか、まだか」  マサトの熱を帯びた体も、知らぬ間に極寒の世界が体力を奪っていた。 「とにかく、この階段を降りるだけだ……」  彼は自分に言い聞かせ、励まし、階段を一歩ずつ進んだ。  気が遠くなるほどの距離を歩いたとき、マサトの視界に、うっすらと建物が見えてきた。  雪と氷に包まれた冷徹の世界にあって、その黒さを誇示してそびえ立つ石組みの立派な城だった。  城門の前に立ちマサトは呼びかけた。 「誰か、誰か!私の話を聞いてくれませんか?」  彼はそう言い、城門を拳でたたき、あるいは門扉を力の限り押してみた。けれど、何の反応も無かった。 「誰か、誰か。お願いです」  マサトの幾度目かの問いかけに、やっと返事が聞こえてきた。 「ここは死者の国。お前は生きる者。お前の来るところではなく、お前が用のあるところでも無い」  姿は見えなかったが、深く沈んだ、腹に応えるような低い男の声が響いてきた。 「そう言わず。私の話を聞いてくれませんか。私は、どうしても恋人ユウキを連れて戻りたいのです」  マサトの呼びかけの後、低い男の声は途絶えて返事は一向に返ってこなかった。 「どうか私の願いを……」  凍てつく世界で力を振り絞るマサトの声が雪の呻りに対抗していた。  低い声の主は死者の国の王だった。  死者の国の王は、普通なら誰も通れないこの城への道の入り口の門を開け、目もくらむ吹雪の道を降りてここまで来たこと自体、マサトが恋人を取り戻したいという気持ちが尋常で無いことを理解していた。マサトの心に偽りの欠片も無いことは明白なのだ。 「私は、死者の国の王。お前が私に会いに来たことはわかる。お前の取り戻したい恋人という者も知っている。……だがそれを理解したからといって、すぐにも、死んだお前の恋人を生き返らせてやるわけには行かぬ」  響き渡る王の声にマサトは、雪に荒れる空を仰いで、 「王様。何かせよというのなら、言ってください。できる限りのことをします」 「わかった。お前に恋人を地上へと連れ戻すための試練を与える。お前はこれから、この城まで来た道をまっすぐに戻るのだ。お前の死んだ恋人ユウキは、お前の後をついて行く。だがお前は決して後ろを振り返ってユウキの姿を見てはならないし、話しかけることもならない。どんな理由があろうとも。よいか?そうして、階段を上りきり、お前が最初に入ったこの世界への扉をくぐり抜けたとき、ユウキもまたお前とともに地上へ出て今一度、生命を体に宿すだろう。さぁ行け」  王の声が消えると、マサトの背後に誰か人の気配がした。しかしそれが誰であるか確かめることは出来なかった。マサトは黙ってゆっくりと、地上への階段を上り始めた。 「ありがとうございます。ありがとうございます、王様。私は、この階段を必ず上り切ります」  マサトは、この世界へ足を踏み入れ、そして極寒の世界で途方も無い距離の階段を訳もわからず降りてきたことを考えれば、恋人ユウキを連れて引き返すことなど、造作も無いことと思った。実際、歩き始めは有頂天になっていた。 「ユウキがまた命を取り戻す」そのことばかり考えていた。  マサトは、自分の後ろでユウキが鳴らす石段の靴音をよく聞いていた。コツ、コツと一段ずつ踏みしめる音だ。  だが階段を進むうちに、ユウキの靴音が小さくなってきた。背後の気配も薄くなった。それでマサトは不安をかき立てられた。 「この吹雪の世界で、ユウキは前に進む力を持っていないのでは無いか」そういう気がしてきたのだ。  マサトは振り返りたかった。ユウキの手を取って引いてやりたかった。けれど、それをしたら王の言いつけに背くことになる。  マサトは我慢して我慢して、ユウキが自分の後に付いてきてくれていると信じ、歩き続けた。  マサトは気の遠くなるような時間を掛けて、階段を上りきった。  目の前に、死者の国への階段の門扉がある。ここを抜ければ人間の住む地上だ。晴れてユウキが新たに生命を受けられるのだ。 「さあ、これで地上に!ユウキ!」  扉を開けた雅人が振り返ると、だがそこには誰もいなかった。影も形も。  ユウキは、一生懸命に歩いていた。前をゆくマサトの姿が雪に見え隠れして不安になり、しかし、追いつこうにも追いつけなかった。  マサトはどんどん離れていく。もう後ろ姿が見えなくなりそうだった。 「マサトぉ、マサトぉ。待って」  ユウキは消えかかるマサトの背中に声を掛けた。  吹きすさぶ雪の中、マサトは歩みを止めて待ってくれた。そこへユウキは、ようやく追いつき、 「待ってくれてありがとう」  そう言ってユウキはマサトの顔をのぞき込んだ。 「あんた、誰かね?雪で道に迷ったのかね?」 「え、あ?あなたは誰ですか?」  ユウキが見たのは、黒いぼろ布を身に巻いた年寄りの男だった。 「俺は、この死者の国の、階段の入り口の番小屋に勤めているんだよ。少し前に、生者の男を一人、通してしまったので、王様に呼ばれて叱られたところだ。さっきは居眠りしててな」 「じゃあ、私はマサトでは無い、違う人に付いてきてしまったのですか。そうしたら、私はまた死者の国へ戻らなければならないのですね……」 「ああ。さっき王様に言われたんだ。少しそそっかしい娘が階段を上っていくから、見かけたら上まで連れて行ってやれってねえ。王様は、『この娘を好きだという男は、これからもさぞ気が揉めることだろう』って言ってなさったよ。あんた、地上に出たら、ちゃんとそのマサトって男を探すんだよ?せっかく連れ戻してくれたんだからよぉ」  門番の男は、そう言ってヒョヒョヒョと笑うと、また階段を上り始めた。
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